続・魔王の試練
エリスが次の街にたどり着いた時には、午後の陽射しで石畳が温まり、街が活気に満ちていた。
市場の店先には色とりどりの果物や野菜が山積みにされ、その鮮やかな色彩が目を楽しませる。
パン屋からは焼き立ての芳香が漂い、街全体が生命の息吹に満ちあふれているようだった。
そんな賑やかな街の喧騒を、エリスは肩の上の黒猫と共にゆっくりと歩いていた。
ごく普通の村娘の格好と、背中に結びつけられた樫の木の棒を持つ姿。
鮮やかな黒髪とその奥底に異質なものを秘めている瞳。
そのおかげで一般人とは違う、旅人であることを無意識に周囲へと知らしめていた。
「なかなか活気がある街ですね……皆さん、楽しそうで何よりです」
エリスが穏やかに呟くと、肩の上の魔王は少し面倒くさそうに耳を振った。
その漆黒の毛並みは太陽の光を反射して深い輝きを放っている。
《騒がしいだけだ。人間どもの騒めきは、いつ聞いても耳障りでならん》
いつものように憎まれ口を叩く魔王の姿は、エリスにとって安心できるもの。
苦笑いしながらもその心は安心し切っていた。
一方の魔王の深紅の瞳は絶えず細められ、鋭く周囲を見渡している。
――先日と同様、エリスに与える試練の種になりそうなものはないかと物色しているのだ。
「お願いです! 誰か……!」
突然、広場の方からかん高い泣き声が聞こえてきた。
それは街の喧騒に混ざってはいたが、エリスの鋭い聴覚には明らかに異常な悲鳴として捉えられた。
それは深い悲しみと絶望に満ちた、心を締め付けるような声だった。
《おいエリス。まさか――》
「あの声は……行ってみましょう!」
魔王の言葉を聞くより先に、エリスの足は自然と早くなった。
その表情には一瞬にして緊張が走り、人混みを掻き分けながら声のする方へと進んでいく。
すると、広場の中心で一人の女性が周囲に向かって必死に訴えかけているのが見えた。
「誰か……! 探してきてください! 大切な……大切な息子なんです!」
女性の服装は質素で、所々に丁寧な継ぎ目のある服が彼女の貧しいながらも慎ましい生活を物語っていた。
年齢は三十歳前後だろうか。
しかし病と苦労のためか、実際の年齢よりも老いて見えた。
「どうしましたか? よければ私が多少なりとも力になりますよ」
エリスが優しく声をかけると、女性は涙で曇った目を上げた。
その声は弱々しいながらも、必死に事情を説明していく。
「私、長い間病のため、毎日特定の薬草が必要なのですが、とうとうその薬草が尽きてしまったのです。それを息子が、私を心配してその薬草を採りに山へ行ったまま、もう半日も戻って来ないんです……!」
その言葉に、周囲に集まった人々から同情の溜息が漏れた。
人々の表情には哀れみの色が浮かんでいるが、誰もが一歩引いているのが明らかだった。
「あの東の山……最近、魔獣が大量に発生しているって噂だよな」
「先週だったか、知り合いの倅が山に入った時、多くの足跡と奇妙な遠吠えを聞いたって言ってたよ」
「かわいそうだが、報酬がこれだけじゃあリスクを負うのはな……無茶はできん……」
人々は小声で囁き合い、視線を逸らす者もいた。
その理由は明白で、報酬が銅貨数枚という子供の小遣いと同程度でしかないことである。
いくら目の前の人が哀れみを覚える状況とはいえ、危険を冒してまで無償に近い行動を取る者はいない――それが現実というものだ。
皆、それぞれの生活があり、家族がいる。
無謀な行動で自分まで危険に晒すわけにはいかないのだ。
その雰囲気にエリスの胸が痛んだ。
エリスには、母親の必死の思いが手に取るように伝わってくる。
長年患っている病と貧困に苦しみながらも、せめてもの恩返しに山へ向かった息子への深い愛情。
そして、その息子が帰らぬことへの恐怖と後悔――それらが渦巻く感情の奔流が、エリスの献身の心を強く刺激した。
「――ならば、私がお手伝いします」
エリスの口から、考えずとも言葉が零れ落ちた。
それは理性というより、本能的な反応だった。
おそらく魔王が勝手なことをするな、といった忠告をするだろうが、文句は言わせない。
エリスはその瞳に揺るぎない決意を宿し、女性の前に一歩踏み出した。
「お母さん、私がお子様を探してきます」
「本当ですか? でも……私はお礼を十分に……」
「大丈夫です。まずはお子様を無事に連れ戻すことが大事ですから。お礼のことは後で考えましょう」
母親の目に微かな希望の光が灯るのを見たエリスは、その依頼を受けることを快く了承した。
魔王が何を言おうとも、人助けは自分の存在意義である。
ここで見捨ててしまうことは、自分の存在を否定することと同義なのだ。
エリスの決心は固く、揺るぎない。
そんな彼女に、しばらく黙っていた魔王の言葉が心の中で響いた。
《いいだろう、受けるが良い》
「……えっ?」
魔王の意外なあっさりとした承諾に、エリスは一瞬目を見開いた。
そして眉をひそめ、内心で疑問を抱いた。
《どうせ余が止めてもお前は行くだろう。ならばすぐに駆けつけ、解決するのが時間の節約にもなる。ただし、無茶はするんじゃないぞ》
魔王の声には、いつもの不満げな響きはなく、むしろ冷静ささえ感じられた。
――魔王が受け入れてくれた。
その言葉は本来なら、エリスは飛び上がるほど嬉しいものだったはずだ。
しかし、今のエリスにとっては複雑な気分にしかならなかった。
それは、ほんの数日前の記憶のせいだった。
あの依頼とは、魔王が「安全」と言い、結果的に仲間を危険に晒すことになったあの出来事である。
魔王のあまりのあっさりとした態度に、エリスの胸には疑念の棘が深く刺さり、一抹の不安が過ぎった。
(まさか……また何か企んでいるのでしょうか……?)
しかし、眼前の泣き崩れそうな母親と、行方不明の少年のことを思うと、そんな疑念を抱いている場合ではない。
エリスは深く息を吸い、母親に近づいた。
「お子様が向かったのは、山のどの辺りかご存知ですか? 特徴なども教えてください」
「は、はい!いつもなら麓の東側の、小川の近くで薬草を採っていると言っていました。息子は十歳で、茶色の短い髪に、青い上着を着ていて、名はユーノと言います」
子供の特徴を次々と喋る、母親の震えた言葉をエリスは一つ逃さず頭に叩き込み、絶対に忘れないように強く焼き付けた。
「わかりました。すぐに見つけてきますから待っていてくださいね」
母親の冷たい手を温めながら、エリスは確信に満ちた笑顔を見せた。
その優しさに、母親の涙が再び溢れ出した。
母親の震える指が、エリスの手を強く握り返す。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます……!!」
その感謝の言葉にエリスは頷くと、街の喧騒を背にして聳え立つ山の方角に向き直った。
魔獣が数多く棲息する場所であるため、一刻の猶予もない。
一度大きく深呼吸をすると、迷い子を見つけに行くべく、山へと続く道を歩き出した。
肩の上の魔王は、満足げに尾を振っている。
彼の深紅の瞳には、これから始まるエリスへと向けた“試練“への期待に、静かな炎を燃やしていた。
エリスの背中には、かつてないほどの決意と、ほのかな不安が入り混じった複雑な思いがにじんでいる。
魔王の意図への疑念と、目の前の困っている人を助けたいという純粋な思い。
――その狭間で、エリスの心は静かに揺れていた。




