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序章3 監獄での再会


 

 

 勇者が連れて行かれた先は、王城の地下深くに位置する監獄だった。

 分厚い石でできた独房は冷たく湿った空気が淀み、唯一の光源は壁の高い位置にある、小さな窓から微かな光が漏れ出しているだけ。

 鉄格子の向こうには、見張りの兵士が微動だにせずに立っている。


 房の中には簡素な藁床と、水を入れた陶器の器が一つ置かれているのみ。彼女はそこで『永劫回帰の儀』までの数週間を過ごすことになるのだ。

 その間、彼女の強大な魔力を弱体化させるため食物は一切与えられない。最低限の水のみによる「生かさず殺さず」の処置であった。


◇ ◇ ◇

 

 投獄された当初、彼女は静かに床に座り、目を閉じて過ごしていた。体内に残存する魔力を自動消費していくことで空腹感を多少和らげていたのだ。

 

 しかし、日が経過するにつれて魔力が完全に枯渇すると、次第に激しい飢餓感が彼女に襲いかかった。

 喉の渇きは水で潤せるとはいえ、最低限しか用意されていない。その後湧き上がる強烈な渇きと空虚な胃袋の訴えは次第に全身の衰弱へと繋がっていった。


 そして、更に日が経過すると、勇者の衰弱はさらに進んだ。

 立つことさえも困難になり、ほとんどを藁床の上で横たわって過ごすようになった。水を飲むのさえ、もはや一苦労だった。

 彼女はもはや勇者ではない。

 完全な無力で脆い、ひとりの人間少女となっていた。


 それでも、その表情は変わらない。

 不平をこぼすでもなく、恐怖に震えるでもなく、ただ静かに時が過ぎるのを受け入れているのであった。



 

《……痩せ我慢も大概にせよ》


 心の中の魔王は、この状況に苛立ちを募らせていた。

 外界を繋ぐ小さな窓から聞こえる子供達の声を、目を細め、噛み締めるかのように勇者は聞いている。

 

《外部の声が聞こえるだろう? 貴様が守った民衆は今この瞬間、外で平和に暮らし、貴様のことはいずれ忘れ去ろうとしている》


 魔王の怒りが込められた声は勇者に届かないまま、虚空に消えていく。


《奴らは貴様をここに閉じ込め、飢えさせ、やがて殺すというのに。なぜ黙って受け入れようとしているのだ》

 

 勇者は微動だにしない。

 その精神は飢餓と孤独の中でもなお、静かな祈りのように平和だった。


《貴様は奴らのために全てを賭けた。命すらもだ。――その報いがこれか? ……なぜ怒らない! なぜ奴らを憎まない!! この理不尽を、なぜ呪わないのだ!!!》


 魔王の激情は咆哮のように轟いていた。

 味方であるのにあまりに卑劣で、あまりに醜い人間の業に対する純粋な嫌悪が彼にかつてないほどの憤りを感じさせていた。

 そして、なぜかこの少女の平静さが、その憤りをさらに増幅させたのである。


《――全てを諦める程、人間どもが施した教育は貴様を洗脳しているとでもいうのか?》


 次第に魔王は、目の前の存在がただ魔王を倒すためだけに生まれ、生かされ、そして死んでいくように育てられた存在にしか見えなくなっていた。

 自分の偉業の報いがこの結末だということを何の疑問もなく受け止めている。

 それは、納得しているというよりそう思わされている、としか思えなかったからだ。

 


 ――しかしその時、ふと、か細いながらも確かな意志を持った声が魔王の“意識”に直接響いた。

 

(いいえ、それは違いますよ)


 魔王は唖然とし、急に聞こえたその声の主について考えを巡らせた。


(……ッ!?これは……勇者の声? だが、この娘は口を動かしていない。……まさかこれは……心の声か?)


 魔力の枯渇と極度の衰弱により、勇者の肉体と精神を守っていた障壁が弱まり、深く潜んでいた魔王の意識との間にかすかながらも通路が開かれたのだ。


《……貴様、余の声が聞こえるのか?》

 

(ええ、不思議なことに……側に誰かが居てくれていることはなんとなく気づいていましたが――ようやく声をお聞きすることができましたね、魔王)


 勇者の心の声は現実の声と同じく、驚くほど落ち着いている。

 それどころか、少しだけ嬉しさを滲ませているようにも聞こえた。


《なぜ……なぜそのように平静でいられる! 説明せよ!》

 

 魔王は聞かずにはいられなかったことを、怒声と共に勇者へ向けた。

 

(私は、もう十分に与えられてきましたから)


 その答えは、魔王にとって到底信じられぬものだった。

 

《声や気持ちをか? そんなもの、貴様の与えたことに対しほぼ価値のないようなものだ!》

 

(いいえ、私が勇者であることを期待してくれたこと、あの凱旋の時の歓声や人々の喜ぶ顔――それは、私がこの身を世界へと捧げるに値する、何よりも尊いものでした)


 勇者の心の声は、温かい感謝の念に満ちていた。


《貴様……っ! 強がるのもいい加減に……!》

 

 あまりにも欺瞞すぎるその感情に対し、魔王は勇者の心の内を直接覗き見ようとした。

 必ず、怒りや憎しみ、恐怖や悲しみといった感情があるはずだ、と。


 そして、彼は愕然とした。

 そこには、本当に恨み言一つなかったのだ。


(強がりなんかじゃないですよ。本当に、皆さんには感謝しかありませんから)

 

 勇者の心の中には、かつて目にした人々の笑顔への感謝と静かな諦観、そして深い慈愛が存在していた。

 この理不尽極まる状況下にあっても、だ。


《馬鹿を言え! そんなものは儚い幻だ! 見よ、貴様を救おうとする者は一人も現れない! 貴様の処刑に反対する声すら、全く現れないではないか!》


 魔王は現実を突きつける。しかし、勇者の心は微動だにしない。


(強大すぎる力は、平和な世に必要ありません。ですから、陛下のお考えは正しいのです。――そして、きっとこれが、私の勇者としての最後の役目なのでしょう)


 その言葉は誰をも憎まず、ただ世界の理を受け入れている。


《……わからん。貴様という存在が、余にはまったく理解できん》

 

 勇者のあまりの強情さに魔王は逆に冷静になり、呆れ、そして困惑した。

 

《……まあいい。貴様の心の中に住まう以上、共倒れはご免だからな。いずれ貴様も根を上げ、“負の感情“を滾らせる時が来る。その時を待つとしよう。その感情こそが、余の復活の糧となるのだからな》


 魔王はそう宣言した。

 しかし、内心では一抹の不安を感じていた。

 この勇者が、果たして本当にそんな“負の感情“を見せる日が来るのか、と。


 そして、魔王の不安は的中した。

 

 それから幾日が経過しても、勇者はついに根を上げることはなかった。


 飢餓と孤独と絶望の中で、彼女はただ静かに自身の運命を受け入れ、わずかな水を口にし、時折窓の外から漏れるらしい市井の音に耳を澄ませては、微かに微笑むことを繰り返している。

 

 運命の日がやってくるまでずっと、彼女の心は監獄の冷たさに染まることなく、温かな光を保ち続けたのであった。

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