二枚の銀貨は約束の証
「あ……ぐっ……!」
エリスはその場にひざまずき、腹を抱えるようにしてうずくまった。骨の髄を抉られるような鋭い痛み。内臓が捻じ切られるような感覚。神経の一つ一つが焼け焦げ、痙攣する。
先ほどまでの絶対的な強さは幻のようで、そこにいるのは痛みに震える一人の少女だけだった。
魔王の力の反動が、本格的に襲ってきたのだ。
「ぐ……う……ッ……!」
荒い息を吐きながら、身体が激しく震えている。
その様子からして、会話をすることすら困難な状態だ。
「お、おい……! 大丈夫なのか……!?」
エリスによって完全に回復したバルドルは思わず駆け寄った。
眼前の少女の明らかな苦痛は、敵対者であっても看過できるものではなかったからだ。
「……だ、大丈夫です……すぐに、治まりますから……」
エリスの声は息絶え絶えで、明らかに無理をしていた。
《レオの時と同様のようだな……しばらくの間、激痛で動けんぞ》
(……そう……みたいですね)
《――さてバルドル。お前はどうする》
魔王が冷たく分析し、そしてバルドルを見据えた。
今、衰弱しているエリスであればバルドルにとって殺すのも容易いだろう。
目的を果たすには格好の機会が訪れたのだ。
だが、魔王に焦りはない。
バルドルの性格からして、その選択肢は存在しないと分かりきっていたからだ。
「……どうやら魔王様の力の反動のようだな……見ているだけなのは、忍びない」
バルドルはじっとエリスを観察した。
彼女の苦悶の原因は明らかだった。
体内で暴れ狂う魔王の力の残渣が、その華奢な肉体を蝕み、激しい痛みを引き起こしている。
力の代償とはいえ、あの圧倒的な力には、これほどの副作用が伴うのか。
バルドルは気の毒な顔をしながらエリスの前にしゃがみ込み、手をかざした。
「俺達魔族は、“負の感情“や魔王様の力を糧として力を得てきた。ならばきっと……痛みの根源も同様に吸収できるかもしれん」
それは、長年魔族として魔王の力を糧にしてきたバルドルの仮定であった。
すると、エリスの身体から漂う漆黒の残渣が、その掌の中心部にゆっくりと吸い込まれていく。
しかしその途端、激痛がバルドルの全身を駆け巡っていった。
(ぐっ……!? なんだ……この痛みは……!?)
この痛みはおそらく、エリスが感じている痛みそのものだろう。
骨の髄まで焼き尽くされるような、神経を一本ずつ引き裂かれるような痛み。
たった数秒吸収しただけで、これほどの苦痛とは。
(ならば、この小娘が耐え忍んでいる痛みは……!)
痛みに耐えながら、バルドルは初めて畏怖の感情を覚えた。
本来なら叫び声をあげ、暴れ狂うくらいの痛みに違いない。
それなのに、眼前の少女はただ耐えるように痛みに寄り添っている。
その意図がわからないことが、バルドルにとって畏怖の念を抱かせたのである。
「ガハッ! ……はあっ……はぁっ……」
バルドルは必死に呼吸を整え、震える手を引っ込めた。
それだけでも、エリスの苦しみは幾分か和らいだようで、荒ぶる力の残渣は幾許か治り、激痛は激しい筋肉痛のようなレベルまで和らいだ。
エリスは深く息を吸い、手元に転がっていた愛用の棒を支えにして、ゆっくりと立ち上がることができた。
「あ、ありがとうございます。随分、楽になりました。……なんとお礼を言ったらいいのやら」
エリスは心からの笑顔をバルドルに向けた。
ただただ純粋に、感謝の念を込めた微笑みだ。
その眩しい笑顔を受けたバルドルは、苦悶の表情を浮かべながらも、力強く立ち上がった。
「お、お礼など必要ない!」
その顔は照れているのか赤らんでいて、背けながら恥ずかしそうに、強がるように言った。
「か……勘違いするんじゃないぞ! 貴様は俺を殺そうと思えば殺せた。だが、そうしなかった。だから俺も同様にしただけだ! これで貸し借りは無しだ! ――次に会った時は……覚悟しておけっ!!」
口早に告げるバルドルの照れを含めた言葉に、エリスは満面の笑みで応える。
「……はい!いつでもお受けしますよ!」
再び相見えた時、戦うことの約束である。
それがなんだか嬉しくて、エリスは堂々と受けて立つと宣言したのだ。
「今回はこれで撤退する……ですが魔王様、次こそは必ず貴方の復活を……!」
エリスの足元に座る魔王に向かって、バルドルは強く宣言した。
その決意に満ちた表情は、なんとしても叶えるべき目的の存在を示している。
それがどのようなものであるか、エリスと魔王は知らないままだ。
そうしてバルドルは踵を返し、よろよろと歩き去っていった。
◇ ◇ ◇
ポツンと取り残されたエリスと、足元の黒猫。
岩山に吹き付ける風が妙に強く、そして寒く感じ、思わず身震いする。
「バルドルさん、行ってしまいましたね……最後まで、親切な方でした」
《……かつての奴は、もっと単純で獰猛だったというのに……人間社会が奴を少しばかり丸くしたか》
「そうですね……でも、いいことだと思いますよ」
呆れたように言った魔王にエリスは柔らかく微笑んだ。
魔王という主を失った魔族。
その可能性の一つが、バルドルという存在によって確認できたからだ。
一方、現実問題として見知らぬ荒れ地に取り残されたエリスと魔王。
そしてエリスの身体は依然として激しい筋肉痛に襲われ、まともに歩ける状態ではない。
「どうしましょうか、魔王。ここがどこだか全然わかりません……痛む身体で帰るのは少々辛いです」
《仕方あるまい。ひとまず地道に歩き、この場所がどこかをまず確認せねば》
「……やはり、その方法しかないですよね……うう」
肩を落とすように答える魔王に、エリスは同意するようにがっくりと肩を落とした。
そして、棒を支えにして、痛む足を引きずりながらゆっくりと歩き始めたその時である。
遠くから叫び声が聞こえてきた。
「ちょっと待ったぁッ!!」
それは、先ほど去ったバルドルが必死の形相で走り戻ってくる姿であった。
バルドルはそのままエリスの前に立ち止まり、何も言わずに息を整え始める。
「ば、バルドルさん? ……ど、どうしたんです?」
バルドルは無言で首を振ると、深呼吸を始めた。
そして、平常心になった途端、急に顔を真っ赤にして力を込めながら再び例の奇妙な呟文を唱え始めた。
「ぬぅ~~~ん……!!」
以前と同じく、時間をかけて術を発動させようと試みはじめるバルドルを呆然としながら見ている二人(一人と一匹)。
しかし、以前よりも更に上手く術を唱えることができないのか、長く、長くバルドルの唸り声が荒地に響いていく。
そして、数百秒後。ようやくである。
一行は急に転移し、見知った街の、元の路地裏の酒場の前に戻っていた。
「か、勘違いするなよ! ……魔王様をあの場所に放置するわけにはいかんと思っただけだ!そして、武人として情けを見せただけだ! だ、だから……次会う時はこうはいかんぞッ!!」
バルドルは顔を真っ赤にしながらぶっきらぼうに言った。
そして、今度こそ本当に、慌てたようにその場を走り去っていった。
「…………」
エリスは呆然としながらも、その背中を見送った。
そして、やがて柔らかな微笑みを浮かべ、目を輝かせて魔王に言った。
「……ほら! 魔王、やはりバルドルさんっていい人です!!」
《……余のことを気に掛けただけではないか? 余の復活を目論んでいるのに、粗末な扱いをするわけにはいかない、と》
魔王は呆れながらも、どこか複雑な思いを抱いているようだった。
「ただ元々優しい方なだけです! 私が保証します!」
エリスは確信に満ちた声で言った。
相手の善性を信じ切っているその姿に、純粋すぎるのも考え物だな、と魔王はため息をついた。
◇ ◇ ◇ ◇
戦いを経て、バルドルとの絆を得た確信を得たエリス。
その事実がすっかり気分を良くしたのか、痛む身体を棒とともに引きずり、鼻歌混じりにゆっくりと歩き出す。
「とりあえず宿を探さないと、ですね! お金は十分にありますから、ゆっくり静養できるしっかりとした場所を……ッ!?」
しかし、数歩歩いたところで、エリスは突然「あーっ!」と大きな慌てた声を上げた。
その大声の反動で全身に疼きが走り、思わず顔を歪める。
《どうした、エリス!?》
ここまで慌てるエリスの様子にただ事ではないことを悟った魔王は、動揺しながらも警戒の色を浮かべる。
一方のエリスは、魂が抜けたかのように呆然としていた。
「……お金が……ないです」
《……は?》
「……あの岩山に、落としちゃったみたいです」
《………………は?》
エリスは情けなさそうに俯いた。
鍛治の街で貰ったあれほどまでの大金を、まさか落とすだなんて。
原因はおそらくバルドルとの戦闘中だ。
腰に巻きつけていた小袋のことなど気にする余裕はなく、バルドルの攻撃を全力で回避してたのだ。そりゃ落とすに決まっている。
「せめて棒のように遠くへ投げておくか、魔王に預かってもらうかのどちらかにすればよかったです……」
エリスの後悔は尽きない。
「こ、こんな身体で野宿は流石に……」
《どうしようもないだろう。諦めて路地裏でも探すか、町の外まで出るしかあるまい。余に金を工面する術はない》
魔王の声は冷たく現実を突きつける。
「そう……ですよね……うう、辛いです……」
エリスは深くため息をつき、肩を落とした。
しょんぼりと、痛む身体を引きずりながら路地裏をトボトボと歩き始める。
街の灯がポツポツと照らされる中、どこかで温かい食事と柔らかいベッドを夢想しながら、しかし現実は冷たい路地裏の床──そう考えただけで、全身の疼きがより一層際立って感じられた。
自身が招いたことが原因なのだから、仕方ない。
エリスはそう納得するしかなかった。
しかし、その時である。
「ちょ、ちょっと待ったぁぁぁぁ!!」
そのやりとりを聞いていたのか、いなかったのか――またもや前方からドタドタ足音を鳴らしながら近づいてくる男の影。
その名はもちろん、バルドルであった。
どうやらまた戻ってきたようだ。
「ば、バルドルさん……? 何か忘れ物ですか?」
エリスは驚いて目を見開き、魔王も肩の上に登ってくる。
「…………」
肩で息をしながら、そばまで寄ってきたバルドルは無言で、恥ずかしそうに、それでいて必死な表情で懐から何かを取り出した。
手に握られていたのは、それはそれは小さな、可愛らしいガマグチ財布だった。
「あっ、可愛いです」
「くっ……!」
エリスが思わず呟くと、バルドルは恥じらうように顔を赤らめ、財布の中身を慎重に自分の手のひらに落とした。
コロン、コロンと音を立てるように、わずか2枚の銀貨という寂しい中身が、彼の大きな手のひらに横たわった。
「………………」
バルドルはその銀貨をじっと眺め、目を強く瞑り、深く息を吐くと、それらをエリスに差し出した。
「ほ、ほれ……これで、なんとかしろ」
バルドルの声は明らかに震えていた。
エリスはただ呆然としている。眼前の光景が信じられなかったのだ。
「で、でも……これはバルドルさんのお金じゃ……」
「か、勘違いするな!!!」
これで何度目なのか、お馴染みの言葉を吐きながらバルドルは顔を真っ赤にして叫ぶと、銀貨を無理矢理エリスの手に押し付け、再び踵を返した。
「これも……武人としての情けだ! それ以上でも……それ以下でもない!! いいか!? 絶対に勘違いするんじゃないぞ!!」
そう言い残すと今度こそ、今度こそ本当に。
逃げるように駆け足で、路地裏の彼方へと消えていった。
エリスと魔王はただ呆然と、小さな手のひらに載った2枚の銀貨を見つめていた。
「…………」
《…………》
そしてしばらくの沈黙の後、エリスの瞳が震え、両手を合わせながら感激の表情を浮かべた。
「わぁ……あぁ……バルドルさん……なんて、なんて優しい方なんでしょう……!」
その声は感動で震え、全身の疼きも忘れるほどだった。
《……まったく。痛みを吸い取り、転移の術を使い、さらに金まで恵むとは……奴も随分と“情”に脆くなったものだな》
魔王の声には、呆れと驚嘆、そしてある種の感慨が入り混じっている。
「これで宿に泊まれます。温かい食事も、柔らかいベッドも全部、バルドルさんのおかげです!」
エリスは銀貨をしっかりと握りしめ、胸に当てた。
「借りを作ってしまったからには、次お会いできたときにはお礼と共に絶対にお返ししないと、ですね!」
銀貨を大切にしまい、エリスは今度こそ、希望に満ちた表情で再び歩き出した。
全身の疼きは相変わらずひどかったが、心は温かさと感謝の気持ちで満たされていた。
いつの間にか二人の目の前は、宿が集まる周辺のためか煌びやかな光で埋め尽くされていた。
エリスはその光を見つめながら、次にバルドルに会う時のことを楽しみに想像していた。
どんな会話を交わそうか。
どんな顔をしてお礼を言おうか。
――そして、どんな戦いをしようか。
エリスの胸の中にあるバルドルから貰った二枚の銀貨。
それらはかつて敵同士であった二人の、新たな関係の始まりを静かに告げているようだった。




