その名はバルドル
夕陽に照らされる港町は、一日の終わりを告げるような雰囲気を帯びている。
帰路へ向かう人々の喧騒が町全体を優しく包み込んでいる中、エリスは魔王と共に、宿を探してゆっくりと歩いていた。
しかし、その途中で突然エリスの足が止まった。
「何だか……すごい闘気を感じます」
彼女の鋭い第六感が、周囲の平和な空気とは明らかに異なる気配を感知したのだ。
それはまるで、静かな湖面に突然現れた渦のような、強烈な存在感だった。
「……あの酒場からですね。しかし、なぜこのような場所に……?」
《……待て、エリス。 ……この気配は》
魔王の声にも普段とは違う緊張感が込められており、エリスは息を詰まらせた。
魔王がこれほどまでに警戒するのは見たことがない。
相当な手練れなのか、それとも――
「お知り合いですか?」
《……とりあえず、あの酒場に入れ。確かめてみるぞ》
エリスは深く息を吸い、魔王が指示した酒場へと足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
古びた木製の扉が軋むように開き、中からは安酒と燻製、それに多くの人々の熱気が混じった濃厚な空気が流れ出てきた。
夕刻ではあるが店内は港町らしい賑わいに満ちていて、日焼けした船乗りたちや職人たちの酒盛りの声が絶え間なく響いている。
しかし、エリスの第六感は、その喧騒の中にある一点に集中していた。
それは、店主のいるカウンターの最も端の席。
影になるような目立たない席に、一人の男の姿が見えた。
店内なのに外套に付属している頭巾を頭から被っているせいか、その姿形の全容図はよく見えない。
(あの方は……一体)
エリスの心の声には、警戒と好奇が入り混じっている。
男の放つ闘気は確かに強烈だが、不思議と敵意は感じられない。
むしろ、深い悲しみや諦観に似た感情が混ざっているように思えた。
《名はバルドル――かつて余の直属の配下だった男だ》
魔王の声が低く響く。エリスは思わず目を見開いた。
《なぜこのような場所に? そして、この重苦しい闘気は……》
(周囲に危害を加えようという意志は感じません。でも、何か深く傷ついているような……)
《よし、やつが今何を考えているか確かめてみるぞ》
急な提案にエリスはギョッとしながら、つい足元の黒猫を見下ろした。
(ええっ!? わ、私が……ですか?)
《そうだ。お前も奴のことが気になっているのだろう? なら好都合ではないか》
(……わ、わかりました。魔王がそうおっしゃるなら)
興味があるのはエリスも同様である。
そのため、驚きつつもその提案に心の中で頷くと、ゆっくりと男の座るカウンターへと近づいた。
床の木板がきしむ音が、彼女の緊張をさらに高める。
周囲の喧騒にまぎれて、彼女の動きは誰にも気づかれないようだったが、心臓の鼓動は自分でも聞こえるほど大きく響いている。
「あの……失礼します」
エリスの声はかすかで、男にのみ聞こえるほどだった。
「主が……こう申されています……『復讐は愚者の業』だと……」
男──バルドルはゆっくりと顔を上げた。
その動きは鈍重で、まるで長い間動いていなかったかのようだった。短めに整えられた髪とその筋骨隆々の身体に似合わない青年のような顔付きに、荒々しさは見られない。
だが、彼の真紅の目は鋭く、獲物を狙う猛禽のようにエリスの全身をじっと見据えた。
「なんだ、小娘? いきなり何を言っている?」
低く唸るような声には、明らかな敵意と猜疑心が込められていた。
エリスは息を呑んだ。魔王が次の言葉を囁く。
《怯むな。『あの時、城の地下牢で交わした約束を覚えているか』と伝えろ》
エリスは少し間を置き、落ち着いた声でその言葉を繰り返した。
バルドルの表情が一瞬で硬化した。
目の色が深く曇り、酒杯を握る指が力なく震え始める。彼の顔色がみるみる蒼白になっていく様子が、エリスにははっきりと見て取れた。
「――まさかお前は……いや、そんなこと知るはずが……ッ!? もしや小娘……お前、魔王様の声が……?」
彼の声は驚愕と疑念、そしてかすかな期待に揺れていた。
《続けろ、エリス。『緋色の月の夜に、お前の左肩に刻んだ証は未だ癒えていないだろう?』と伝えろ》
魔王の指示が続き、エリスは黒猫とバルドルを交互に見ながらはっきりと、そして優しい口調でその秘密の言葉――魔王とバルドルしか知らない唯一の言葉を、一つ一つの言葉を慎重に選びながら伝えた。
バルドルは完全に動揺し、手に持った酒杯を床に落とした。
陶器が割れる鋭い音が酒場に響き、周囲の客たちの視線が一斉に向けられた。
酒杯の破片が飛び散り、中身の酒が床に広がっていく。
「そんな、まさか……本当に魔王様が……!」
バルドルの視線はエリスを見たのち――先ほどから彼女が視線を送っていた、足元で無頓着に座る漆黒の猫へと移った。
驚愕する目は大きく見開かれ、信じられないという表情を浮かべている。
「まさか、このような姿でおられるというのか!」
次の瞬間、バルドルは涙ながらにひざまずいた。その動作は突然で、周囲の客たちをさらに驚かせた。
「おお……おお……! 魔王様! 魔王様でございますか!」
その大声──特に「魔王」という単語に、酒場内のざわめきが一瞬で止んだ。
客たちの好奇の視線がバルドルとエリス、そして黒猫に向けられる。
「……は? 魔王って?」
「あの男、何言ってるんだ? 深酔いしてんのか?」
「猫のことを魔王だと? まったく……とんだ酔っ払いだな」
エリスは必死に否定しながら顔を真っ赤にした。
「ち、違うんです! 『マオ』です! この猫ちゃんの名前が『マオ』なんですよー!」
周囲の好奇と失笑の視線が肌に刺さるように痛い。
エリスは次第に無意識にうつむき、自分の足元を見つめる。穴があったら入りたいほどの恥ずかしさに、思わず肩をすくめてしまう。
一方のバルドルは周囲の反応など全く気にする様子もない。
彼の眼中にあるのは、黒猫だけだった。
「なんというお姿! ご無礼をお許しください!」
《ふん……まあ許してやろう……ッ!?》
しかし、バルドルは突然顔を上げて真顔になり、懐から色あせた猫じゃらしを取り出した。
真剣な眼差しのまま猫じゃらしを必死に振り始め、先端の羽根がふらふらと不規則に揺れる。
「ほーれほれほれ」
(こ、この愚か者め! そのような玩具で余を操ろうとは……笑止!!)
魔王の威厳のある声は、黒猫の本能が少しだけ頭をもたげ、猫じゃらしの先端を無意識に追ってしまったことで、説得力を無くした。
黒猫の目がじゃらしを追い、猫パンチをバシバシ繰り出し始めている。
「…………」
バルドルはさらに真顔になりながら、今度は小さなボールを取り出した。革製のなんてことのない至って普通のボールだ。
猫じゃらしに夢中な黒猫に聞こえるように地面に跳ねさせ、宣言した。
「ほーら、取ってこい」
《…………!!》
飛んでいき、勢いよく転がっていくボール。
それを見た黒猫の瞳が一瞬、獲物を追う狩人のように鋭く光る。次の瞬間、黒猫は「にゃお!」というかわいらしい声と共に、ボールめがけて一直線に駆け出した。
床を滑るようにボールを追いかけ、ぴたっと前足で押さえ、得意げな顔でエリスとバルドルの方を見る。そして、またボールを転がしては追いかけ、完全に遊びに夢中だ。
「…………」
酒場内に、より深い沈黙が流れた。客たちは、完全に言葉を失っている。ただ、暖炉の火がぱちぱちとはぜる音だけが不自然に大きく響いていた。
「……おい、小娘」
「はい」
バルドルは唖然とし、エリスを見つめた。
その表情は疑念でいっぱいだったが、しばらく間を置いてようやく言葉が出てきたようだ。
「……あの猫は……本当に魔王様なのか?」
「言いたいことはよくわかります。ですが、魔王なんです」
エリスの言葉にバルドルはもう一度、魔王の姿を確認した。
ボールに振り回されながら地面に転がり周り、一人(一匹?)勝手に興奮している。
「……どう見てもただの猫だろう? まさか嘘を言っているのでは」
「嘘のように聞こえるのは私も理解できます……ですが、本当に魔王なんです」
バルドルの疑念はさらに深まり、エリスに小声でひそひそと話し始める。
エリスは苦笑しながら彼の言葉に同意しつつ、黒猫が魔王だと言う事実を告げていくが、彼は納得がいかないようだ。
「しかし、あれはどう見ても――」
その言葉の途中、黒猫は突然「シャーッ!」という威嚇の声を上げると、目にも留まらぬ速さでバルドルの顔めがけて飛びかかり、小さな前脚で見事な猫パンチをバルドルの鼻先に炸裂させた。
もちろん大した威力はないが、その動きの速さとあまりの意外性にバルドルはのけ反った。
(エリス! 伝えよ! 『この無礼者め! 以前、城の武器庫で余の鎧の手入れを怠り、三昼夜に渡って魔界の雑用係を命じられたことを忘れたのか?』と!)
エリスは慌てて、魔王の言葉をそのまま伝えた。
一つ一つの言葉を噛みしめるように、ゆっくりと。
バルドルの顔から血の気が一気に引いた。その秘密の懲罰は、極く一部の側近しか知らない屈辱的な出来事だった。
「ま、まさかあの時の……! 本当に魔王様なのですか!?」
バルドルは完全に屈服し、黒猫に対して深々と頭を下げた。
酒場の客に囲まれる中、堂々と地面に額を擦り付けるほどに。
「愚かな質問をお許しください! 疑って申し訳ございません!」
エリスは声をひそめ、バルドルに必死で訴えた。
「あの……! 皆さんが見ていますので……とても恥ずかしいです……! お願いですから……!」
しかし、バルドルは耳を貸さず何度も土下座をしている。
黒猫相手に。
「ちょ、ちょっと! 聞いてくださいってば──!」
エリスがさらに訴えるも、バルドルは無視。
周囲の客の呆れの混じった騒めきがさらに大きくなる。誰かが「店員を呼んだほうがいいか?」と囁く声も聞こえた。
エリスは羞恥心に耐えきれず、思わず叫んだ。
「あの! ほ、本当に恥ずかしいので……外でやりましょう! 外で!」
バルドルはようやく周囲を見渡し、状況を理解した。彼の顔に困惑の色が浮かび、深く眉をひそめる。
「……場所が悪かったな。……失礼!」
彼は急に立ち上がり、エリスの手首を強引に掴みその場から引っ張り出すように駆け始めた。
その握力は強く、エリスは思わず息を呑んだ。
「え? ちょ、ちょっと……!?」
バルドルは周りの反応など全く気に留めず、エリスを路地裏へと引きずり込んでいった。黒猫も慌ててその後を追う。
客たちの好奇と呆れた視線を背中に感じながら、エリスはただ無言でバルドルに引っ張られていくのであった。
◇ ◇ ◇
空は茜色に染まっており、夕陽も水平線に接し始めていた。
路地裏の冷たい空気が肌に触れる中、バルドルはようやくエリスの手首を離すと、魔王に向かって再び深々と頭を下げた。
「失礼いたしました! 確かにあの尊大な御風格……間違いありません! 魔王様……! どうかお許しください!」
「えっと……《次はないと思え》だそうです」
「了解しました! ……魔王様が勇者に敗れたことを信じられませんでした。きっとどこかに潜み、復活のために力を蓄えていると予測していましたが……」
「……《当たらずといえども遠からずだ》、だそうです」
予測が当たったことが嬉しかったのか、頭を上げたバルドルの顔は輝いていた。
「なんと!……なぜただの人間の小娘に同伴しているのかと思いましたが……おそらくその身体を“器”にして復活することを目論んでいるかと思われます。……違いますか?」
「……《違うとは言い切れん》」
「成程! ならばこの小娘が“器”として機能するよう弱化させればいいというわけか! ……魔王様! 是非、そのお手伝いをさせてもらいます!」
いきなり戦闘態勢に入るバルドルに、エリスも魔王もついていけない状態だ。
魔王はさらにエリスに指示をする。
「……《復活についてだが……今はまだいい。断る》」
「なぜです!? この小娘を犠牲にすれば、貴方は──!」
「……《それに、こんな街中で暴れるわけにはいかないだろう》」
「……!!――ならば!」
バルドルの目がエリスに向けられる。その眼差しはまさに魔王に対する狂信そのもの。
バルドルの真紅の瞳がぎらつくと、深く息を吸い込み、両手で謎の印を結びながら奇妙な唸り声を始めた。
「ぬぅ~~~ん……!!!」
額に血管が浮き出ていることから、相当な力を込めているのだろう。
しかし、何も起きない。
バルドルの苦しそうな呻き声が静かに路地裏に響くだけである。
「……え、えっと、どうしたんです?」
エリスは首をかしげた。
男は顔を真っ赤にし、全身に力を込めてじっと一点を見つめ、明らかに何かの大術の発動に集中している。彼の額に脂汗が浮かび、手を組んだ指が震えている。
どう見ても、尋常ならざる時間と労力を要していた。
(……ふん。未熟者め)
普通の術なら一瞬で発動するものであるが、この大術はよほど高位のものなのだろう。
それに、バルドルは魔王とは違い、生真面目な性格だが魔力の技量はそこそこ高い程度らしい。
一つ詠唱するのに時間がかかるようだった。
そして120秒ほど、長く奇妙な緊張感が流れた。
バルドルの額に脂汗が浮かび、手を組んだ指が震えているが身体は淡い光を纏い始めていく。
「ぬおおおおおおッーー!!」
苦しそうな気合の入った声と共に、その場にいた3人(2人と一匹)の空間が完全に切り替わった。
先ほどの街中とは真逆の、荒涼とした岩山の只中へと転移されたようだった。
「これは……転移の術、ですね」
きょろきょろ周囲を見渡すエリスは、この場所の特徴を自然な動きで掴み始めている。
――戦闘が始まることを無意識に感じ取っていたのだ。
「これで邪魔者はいない。貴様を倒せば、魔王様は復活なさるだろう」
再び戦闘態勢に入るバルドルは低く構えた。彼の目には、狂信の炎が静かに燃えている。
一方、エリスは軽く微笑みながら、わずかな安堵を覚えていた。
(わざわざ巻き添えの出ない、人気のない場所へ転移するなんて……もしかして周囲への気遣いなのでしょうか?)
《……こいつは生真面目だが、馬鹿正直者でもある。道理より忠義が先に立つ男だ》
(なら話せばわかるかもしれません……試してみます!)
エリスは魔王に確認をとりながら意識をバルドルに向けた瞬間、バルドルはすでに身体に闘気を纏い始めていた。
本気でエリスを屠ろうとする意思表示だ。
「ゆくぞ!小娘ッ!!」
戦闘態勢に入ってないエリスは慌てて両手を前に出す。
「ちょ、ちょっと待ってください! 話せばわかる──」
「問答無用!!」
その言葉と共にバルドルは地面を蹴り、エリスへと攻撃を仕掛け始める。
エリスはやむを得ず背中の棒に手をかけ、迎え撃とうと構えるのであった。




