序章2 王への謁見、そして結末
王城の大広間には、玉座に座る老王が静かに歩み入ってくる勇者を見下ろしている。
その左右には重臣たち、広間の隅には兵士たちは整然と並んでおり、皆一様に厳粛な面持ちで周囲を見張っている。
勇者はゆっくりと玉座の前まで進み出ると、恭しく跪いた。
汚れきった衣服はこの場の豪華さとは明らかに不釣り合いで、彼女の疲労と激戦の痕を如実に物語っていた。
「よくぞ戻られた、勇者よ。魔王という災厄を世界から取り除いてくれたこと、心より感謝する」
王の声は朗らかさを帯びていたが、どこか硬さが感じられた。
「お言葉ありがとうございます、陛下。お役に立てたのであれば、これ以上の喜びはございません」
勇者は深々と頭を下げて答えた。
微動だにせず、ただ言葉を発するその姿は彼女を形取っている礼儀正しさが窺えるようだった。
「その武勲に対し、我々は最大の敬意と感謝を示そう。しかし、激戦の後、すぐの凱旋であった。その身、いかに勇者といえど疲労は極限であろう。まずは身を清め、良き食事を取るがよい。盛大な宴にて歓迎しよう」
それは、世界を救った者に対しては至極当然の気遣いであった。しかし、勇者はゆっくりと首を横に振る。
「お心遣い痛み入ります。ですが……申し訳ございません。どうか、まずは休息を取らせてください。長きに渡る戦いで、身体が休息を強く求めているみたいですので」
照れを隠すように苦笑いする彼女の顔には、紛れもない疲労の色が刻まれていた。魔力の消耗も激しくもう一歩も動けない、と。
王は一瞬微かに眉を動かしたが、すぐに肯いた。
「……む。それも道理である。ならば、速やかに案内させよ。それと……汚れたその着物と同じものを、替えとして用意しておけ。――勇者よ。明日、改めて祝賀の宴と褒賞について話をしよう」
「はい、陛下。お心遣い、ありがたく頂戴いたします」
勇者は深々と頭を下げた。その言葉には、心からの安堵と感謝がにじんでいるように見える。
彼女は従者に導かれ、王城の深部へと進んでいった。
心中の魔王は、この光景を冷ややかに観察していた。
《褒賞か。ふん、さては領土か金貨か、はたまた貴族の地位か。人間どもの価値観は所詮そんなものだ。貴様の払った代償に比べれば、雀の涙ほどの価値もなかろうに》
しかし、勇者は魔王の嘲笑を聞くことはできない。
彼女はただ王の温情に心を温め、ようやく訪れた安息を噛みしめていているかのように見えた。
少なくとも、魔王にとってはそう見えたのだった。
◇ ◇ ◇
従者に案内された客室は広く、静かな部屋だった。
ふかふかのベッドと少しばかりの調度品が置かれているのみであったが、勇者にとっては十分過ぎるほどの部屋である。
従者が去り、独りになると同時に彼女の身体からは一直線に力が抜けていった。
「ふう……」
ようやく訪れた孤独と安らぎに、彼女は愛用の剣を警戒することなく壁に立てかけ、大きく背伸びをした。節々が軋み、全身の筋肉が悲鳴を上げるのを感じる。
その痛みは、あの魔王との激戦の証でもあった。
汚れた衣服を脱ぎ、片付けると、用意されていた同じ作りをしている衣服に着替え始めた。
それは、普通の村娘と変わらない見た目のものであり、勇者はこれが自分にとって一番合っていると自負している着衣であった。
髪や身体は埃に塗れ、旅の中で染みついた得体の知れない汚れが付着しているが、彼女にとっては限界を迎えたようで。
そのままベッドへと倒れ込むと柔らかい羽毛布団が身体を包み込み、自然と瞼が閉じられた。
その意識はたちまち、深く暗い眠りの底へと沈んでいった。
――その心の奥深くで、魔王は静かに呆れていた。
《……存外、呑気な女だ。あまりにも無警戒すぎる。……だが、今のうちに休息しておくがよい。いずれ貴様のその身体と魂は、余のものになるのだからな》
そして夜が明け、窓から差し込む朝日が客室を優しく照らし始めた刻のこと。
勇者は既に起床し、その意識をはっきりと保っていた。
ベッドの縁に腰かけ、窓の外の平和な街並みを静かに見つめているその横顔は、どこか覚悟のような凜とした、しかしどこか寂しげな表情を浮かべている。
まるで、儚い幸せの終わりを予感しているかのようだった。
そしてしばらくすると、部屋の外から重々しい足音と金属音が複数接近してきた。
魔王は分かっていたかのような口調で勇者に忠告した。
《騒がしい来客が来たぞ、勇者。……おっと、貴様にはこの忠告も聞こえんか》
声はやはり届いていない。にもかかわらず、勇者もすでに部屋の外の音には気づいていたようだ。
ゆっくりと微かに息を吸うと、ごく自然でありながらどこか諦観にも似た平静さをもって、その音が自室の前で止まるのを待っていた。
その瞬間、ノックもなくドアが乱暴に開かれた。
「動くな。抵抗すれば、容赦はせん」
現れたのは屈強な兵士たちだった。その数、十名近く。全身を鋼の鎧で固め、手には鋭い槍を握っている。
それは歓迎のための護衛などではなく、明らかに危険な対象を拘束しに来た者たちの装いだった。
「勇者、陛下より命令だ。そのまま我々に付き従え」
一人の隊長格の兵士が、硬い口調で告げる。
兵士たちは一気に室内に雪崩込み、あっという間に勇者の周囲を取り囲んだ。壁に立てかけられた彼女の愛剣も、躊躇なく回収されてしまった。
用意された衣服を着た勇者は普通の村娘にしか見えず、とても魔王を討ち滅ぼした者には見えない。しかし、兵士たちはそんな彼女に対しても最大級の警戒を緩めない。世界を救った英雄をまるで極悪人のように扱うその光景は、あまりにも異様だった。
「はい、わかりました」
勇者はうなずき、兵士たちに囲まれるようにして客室を後にする。
その彼女の表情には動揺の色は一片もなく、まるでこの結末を予期していたかのようだった。
◇ ◇ ◇
「勇者よ。突然の仕打ち、深く謝罪する」
勇者が大広間へと連行されると、玉座にいる王が、重々しく口を開いた。
その言葉に、勇者は静かに首を振った。
「いえ、陛下。察してはおりましたから大丈夫です」
「……何が言いたいか、分かっていると?」
「もちろん。私の処遇について、ですね」
王はわずかに目を見開き、そして深く息を吐いた。
「……強すぎる力は、この平和な世には不要なのだ。魔王の脅威が去った今、お前ほどの力を持つ者が一人いるだけで、世界の均衡は崩れかねん」
「おっしゃる通りです」
「……たとえお前自身に悪意がなくとも、他者がお前の力を利用しようと企むかもしれぬ。その力が暴走する可能性も否定できない」
「ええ、私もそう思います」
勇者は驚くほど穏やかに、そして静かに答えていく。
王の言葉は確かに理にかなっていた。勇者自身、戦いの中で自らの内に秘められた圧倒的な力の恐ろしさを痛感していた。
いつの日か、天井を知らない己の力が自分の手を離れ、人々に牙を向くのではないかと思うことは何度もあった。
「封印の術も、お前の力の前には無力であろう。だから我等は……未来の禍根を断つため、苦渋の決断を下した」
勇者は何も言わず、ただ王の言葉を聞いている。その決断がどのようなものかをすでに理解しているかのようだった。
「数週間後、《永劫回帰の儀》という名の儀式を行う。それまでの間、お前の強大すぎる魔力を衰えさせ、 儀式を滞りなく執り行うための処置をさせてもらう」
「わかりました。従いましょう」
勇者は抵抗する素振りは微塵も見せなかった。
「……抵抗はせんのか?」
王が訝しげに尋ねる。周囲の重臣たちも互いに視線を交わし、戸惑いを隠せない。
罵声や抵抗を予想に入れていた彼らにとって、この平静さはもはや不気味なものとしか映っていなかった。
「はい。陛下の懸念は正しいですし、私もそう思うことが何度もありましたので」
勇者は微笑んだ。
その笑顔はどこか寂しげでありながら、確かな覚悟に満ちていた。
心の中の魔王は、この状況と勇者の態度に慄然とした。
《なんだと!? 抵抗もせず、恨み言の一つも言わず、ただ従順に従うというのか!?》
魔王の怒号は、当然ながら勇者の耳には届かない。
《この愚か者め! ……なぜ、歯向かわないのだ!》
彼女はただ、目の前の人間達を慈しむような優しい眼差しで見つめている。
その瞳に偽りはなく、そこにはただ静かな諦観と奇妙なほどの安らぎしか見えない。
「それでは、失礼します」
勇者は最後に深々と一礼すると、再び兵士たちによって広間を後にする。
その背中はあまりにも小さく、そしてあまりにも強く見えた。
こうして、世界を救った英雄は救世主としての喝采ではなく、冷たい監獄の扉へと消えていった。
広間には、重苦しい沈黙だけが残された。




