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猫の名は。


「ふぅ、美味しいお魚でしたね」

 

《ふん、人間にしては中々美味だったぞ》

 

 食事が終わり、今晩の宿を探しに再び街を練り歩くエリスと魔王。食後の運動か、それとも気まぐれなのか不明だが、魔王は自らの足で地面を歩いている。

 

 尻尾を立てながら周囲を観察しているその後を、エリスはついて歩いていた。


 すると、急に魔王の様子が急変した。

 

 何かを感じ取ったように耳をピンと立て、鼻をひくひくさせ、その場に微動だにしなくなったのである。

 陽光が差し込む路地裏から、かすかに妙な気配が伝わってきたのだ。


《……エリス、少し待て》


 魔王の声には、久しぶりに緊張感が宿っていた。


「え? どうしたんです──」


 エリスが問いかけるより早く、魔王は飛び出していくように路地裏へと走り去っていった。

 黒い影のようにすばしっこく、あっという間に視界から消えたため、エリスは置いて置いていかれる形になってしまった。


「ま、魔王! ちょっと待ってくださいっ!」

 

 エリスは慌てて黒猫の後を追った。

 

 第六感で魔王の足跡を辿りながら路地裏を曲がり、行き止まりにぶつかれば塀を伝って歩き、木箱を飛び越え階段を降り、ようやくその居場所へと辿り着く。

 

 そこで彼女が見たのは、数匹の野良猫が集まっている、いわゆる「猫の集会」の光景だった。


 三毛猫、茶トラ、サビ猫……様々な猫たちが塀の上や地面に座り、何やら真剣な面持ちで向き合っている。

 

 そして、その真ん中に鎮座し、何やら威厳たっぷりに(猫同士のコミュニケーションで)他の猫たちと会話している魔王の姿があった。

 

 尾をゆっくりと振り、時に耳を動かし、完全に猫たちの輪に溶け込んでいる。


《……ふむ、なるほど……そうだったのか》


 魔王は真剣な面持ちで(猫顔なので読み取りにくいが)、他の猫たちの「にゃーご」「みゃー」といった鳴き声に耳を傾け、時折短く鳴き声を返している。

 

 どうやら、猫たちから街の情報──金になりそうな仕事の噂や、町の状況、危険な人物の存在などを収集しているようだった。

 

「ま、魔王! もう、急に走り出さないでくださいよ!」


 魔王の元へ駆け寄ったエリスは、息を切らして前屈みになりながら膝に手をついている。

 少し汗ばんだ額を腕元で拭いながら、「みんなでお話中ですか?」と微笑んだ。


 すると、偶然通りかかった野菜屋の女店主が、籠を抱えながら訝しげな顔でエリスに声をかけた。


「ねえ、娘さん。今、あの猫のことを……『魔王』って呼んだ?」

 

「えっ!?」

《なっ!?》


 エリスはハッとした。まさか魔王を呼ぶ声を聴かれてるとは思わなかったため、冷や汗が背中を伝う。心臓がばくばくと騒ぎ始めた。


(まずい……! うっかり口に出していました……! どうしましょう!?)

 

《この馬鹿者が……!》


 魔王の焦りの声が頭に響く中、エリスは頭をフル回転させる。

 なんとかしなければ。他の名前を考えれば、と思いついた名前が脳裏を複数横切っていく。


「ま、まさかそんな……! この子の名前は……えっと……」


 焦りがエリスの思考を塞いでいき、彼女の頭には『魔王』の文字しか思い浮かばない。

 魔王、魔王、まおう……まお、う……

 

 その瞬間、閃いたように彼女の目がぱっと輝いた。


「……マオ! です! マオちゃんって呼んでるんです! 魔王なんて……そんな物騒な名前じゃないです! ね!?」


 その笑顔は少し硬かったが、必死な様子がかえって彼女の愛嬌を醸し出しており、女店主も釣られて小さく笑ってしまっている。


「ま、まお? ……ふふ、それもなかなか変わった名前ね。まあ、可愛い猫さんのことだから、変な名前でもいいのかもね」


 女店主は首をかしげながらも特に深く追求することはなく、笑いながら店の裏口へと入っていった。


 エリスはほっと胸を撫で下ろすと、魔王の元へ走り寄った。

 ――たった今、生み出された愛称を口に出しながら。

 

「マオちゃーん! そろそろ帰りますよー!」


 そう言って、地面に座り込んだ魔王を両手で抱き上げた。

 猫たちは一斉にエリスを見つめ、集会の終わりを察したのか「にゃー」と鳴いて解散していく。


《なっ!? 抱っこしなくとも良い! 下ろせ、エリス! 地面を歩かせろ!》


 魔王は心の中で激しく抗議する。外見は可愛らしい黒猫でも内心は尊大な魔王である。


《それより、マオとは何事だ! 余は魔王だ! 魔王と呼べ! マオなど無礼千万だぞ!》

 

「でも、『魔王』なんて呼んだら、みんな変な顔をしますよ。マオちゃんでいいじゃないですか。とっても可愛い響きです」


 エリスは微笑みながら魔王の顎をこっそり撫でる。

 その手つきは慣れたもので、魔王の最も気持ちいい箇所を正確に刺激する。


《や、やめろ! 撫でるのも禁止だ! ……くっ!》


 撫でられる感触に、またもやごろごろと音が漏れそうになり、必死で堪える魔王。


《この……この身体め! エリス! よくも余を……猫扱いしおって!》

 

「はいはい、わかりました。じゃあ帰りましょうね、マオ様」


 エリスは満面の笑みを浮かべ、反抗し続ける黒猫を抱えたまま宿へと歩き出した。

 

《マオ様……? ま、まあそれなら……許容できんこともないが……!? いや、そうじゃない! 魔王と呼べ! マオなど以ての外だ!》


 魔王の抗議の声は、エリスの心の中に響き続ける。

 しかし、エリスの表情は終始穏やかで、どこか楽しげだった。




◇ ◇ ◇ ◇




「今日はたくさんお散歩できましたね、マオ様。子供たちとも仲良くできたし、猫のお友達もできたし」

 

《マオ様はやめろと言っている! それに友ではなく情報提供者だ! 会議だ! 会議をしていたのだ!》

 

「ええ、そうでしたね。でもその会議、とても楽しそうでしたよ。ごろごろ言いながらお話しているようにも見えました」

 

《そ、それは作戦会議中の威嚇だ! 楽しくなど……!》


 魔王の反論は空しく、エリスは満足げにうなずくだけだった。



 

――こうして、魔王は「マオ」という愛称(と彼は認めていないが)を得たのである。

 

 そして今後、エリスは第三者がいるときに限り、この愛称を使っていくことになる。

 

 魔王はその度に不貞腐れ、納得できないままエリスに抗議の意を示すように、尻尾をバシバシ当てるのであった。

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