魔王は少女のその精神をこう呼んだ。“清貧”と。
先日の連戦でようやく懐に余裕ができたエリスは、次の街へ向けて旅支度を整えていた。
ボロボロで既に穴が空きかけている靴を新調。
衣服の替えも複数購入。
空っぽだった荷物袋にある程度の生活用品と、干し肉や堅パン、乾燥果物といった食糧が詰められた。
以前のような、痩せ細った姿の荷物袋はもうどこにも見えなくなったのだ。
そうして一通り足りない必需品を、移動の邪魔にならない程度に購入したエリスは、満足気な表情で宿泊する宿で毛布の繕いものをしている。
資金はまだまだ尽きる様子は見えないのに、何故か節約じみたことをするその姿は、まるで面倒なことを楽しんでいるかのようだ。
その姿を見ていた魔王は、突然何かを思い出したかのように口を開いた。
《そういえば……お前が勇者として余の城に攻め込んできた時のことだが》
「随分懐かしい話ですね? 突然どうしたんですか?」
エリスは針仕事の手を止め、きょとんとした顔をする。
魔王は遠い目をしながら、懐かしむような響きを含めた声で話していった。
《あの時……お前は見事に余の配下を蹴散らし、玉座の間まで辿り着いたときのことだ。そこで待ち構えていたお前の姿と言ったら……》
魔王は少し間を置き、ため息まじりに続けた。
《今と同じような、村娘にしか見えない格好の見窄らしいことと言ったら……せっかく威厳を保って待ち構えていた余がばかばかしくなったほどだ》
エリスは小さな笑みを漏らした。
「そうでしたか? 私はとても気に入ってたんですけどね」
《馬鹿を言え!》
魔王はたまらず当たりの強い言葉を吐いてしまう。
《勇者だったお前は国を挙げての英雄だったろう! もっとまともな――絢爛豪華な鎧か、少なくとも由緒ありげな魔法の衣装とか、特殊な効能のある装飾品とやらを装備してくるのが筋というものではないか!》
「ああ、そういうことですか」
合点がいったのか、エリスはいたって平静に返した。
「確かに、王国からは立派な鎧や剣を提供されましたよ。でも、全部お断りしたんです」
《……なぜだ? 金がなかったわけでもなかろうに》
魔王は完全に理解不能な様子だったが、エリスは針仕事を再開しながら、感慨深いような含みを持たせた声で説明を始める。
「必要最低限が一番良かったからです。この服は動きやすいし、丈夫だから旅に適しています。実はあの愛用の剣もね、旅の最初の町で買った安物だったのです」
《……余の魔剣と打ち合ったあの聖剣が、か?》
「ええ。光術で強化していました。使い慣れていたから変える必要がなかったんです」
あの激戦で使用し、最後はその切先で己を切り裂いた武器が、まさかの安物だったとは。
呆れ果て、足元が崩れ落ちるかのような衝撃が魔王を襲った。
《……つまり、あの激戦の最中……お前は安物の装備を術で自己強化し、それを維持しながら余と戦っていた……ということか?》
「はい。光術の維持は、ある程度無意識でできるようになっていました。それに、私はどうしてもそうしたい理由があったから」
《――その理由、とは?》
エリスは瞳を深く閉じ、何かを噛み締めるような微笑みをした後、確信に満ちたような表情で、握りしめた己の拳を見つめている。
目を細めたその表情から窺えるのは、お互いの存在を賭したかつての死闘を懐かしんでいるかのようだった。
「魔王。あなたとは、特別な装備に頼らず自分自身の力だけで戦いたかったんです」
《……!》
肩の上の魔王は驚き目を見開くと、そのまま深い沈黙に包まれた。
その姿にエリスは何も言わず、手元の針仕事を続けている。
「もちろん、私が立派な武器防具を持たないことで、豊富な資金も持てたことも大きかったです」
あの頃は、衣食住に困っている人たち至る所にいた。
立派な鎧一式分の資金があれば、多くの人々が数ヶ月は食べていける程だったのだ。
だから、余計な重量になる貨幣は必要最低限だけ残し、困っている人がいたらすぐに寄付できるようにしていた。
そんな懐かしい思い出を、エリスは遠い目をしながら続けている。
「ですが、それ以上にあなたとは私の全てを賭して戦いたかった。これだけは絶対に譲れないものでしたから、過度な装備は避けていたのです」
《――そうか》
魔王の声が静かに、そして強くエリスに響いた。
その声には深い感慨と、新たな理解に至った驚きが込められていた。
《つまり余は、正真正銘お前の純粋な力に敗北したということか》
「そういうことになります」
《……ふっ》
魔王の心の中で、かつての好敵手への理解がほんの少し深まったのを感じた。
焔のような昂りを感じた熱き死闘のなかで、伝わってきた信念の強さは、この少女の内側から迸る純粋な力そのものだった。
敗北を喫するわけだ、と納得するしかない。
しかし、そこには悔しさはまるで存在しなかった。
宿屋の部屋に静寂が訪れた。
窓の外から虫の鳴き声が聞こえる中、エリスは再び針仕事に集中し、魔王は静かに彼女の横顔を見つめていた。
(――まったく、この娘は幾度となく余を驚かせてくれるな)
勇者という肩書きがなくとも、常にこの少女は魔王という存在が想像するより先を行く。
今までずっとそうだった。そしてこれからも、きっと。
「――と、いうことで。魔王も私を見習って質素倹約に励みましょうね。今はまだ旅資金がありますけれど、いつまでこうでいられるかは分かりませんし、生活のレベルを落とすのは難しいですしね」
エリスは悪戯っぽく笑いながら、魔王に向かって言ったが、彼は即座に反論した。
《ふん! 余は魔王だぞ? 質素倹約など……》
エリスはその言葉を待っていたかのように、にっこりと笑って続けた。
「そういえば明日からの食事のことですが、市場で特売されていた干物をたくさん買っておいたので、それを食べてくださいね。とてもお買い得でしたよ」
《な……!?》
魔王の声には明らかな嫌悪感が込められていた。
《断る! そんな安物の干物など、猫にだって食わせられん! 余はもっと上質な――》
「でも新鮮なお魚を買っても保存がききませんし、何より生臭さで他の食糧にうつっちゃいます。干物が嫌でしたら硬いパンと干し肉、乾燥果物でもいいですよ」
《…………》
魔王は完全に沈黙した。その肩の上の黒猫は、明らかに不機嫌そうに尾を振っている。
しばらく沈黙が続いた後、エリスはそっと言った。
「ねえ、魔王。こういう普通の生活も悪くないですよ。高級なものばかりが美味しいわけじゃありません。干物だって、ちゃんと焼けばとても美味しいんですから」
《……ちなみに、どれほど美味しいというのだ?》
渋々ながら若干態度を軟化させた魔王にエリスは笑顔で応えた。
「お店で試食させてもらいましたが、とても香ばしかったですよ!明日、道中で焼いてみせますね!」
《ならば余を満足させる気概でやれ。間違っても火の加減を誤るなよ》
「勿論です!」
結果的にはエリスの質素倹約精神に巻き込まれた魔王。
言いくるめられたような感じがしたせいか、伏せながら尻尾を振り回している。
《……お前、まさか最初から余の精神を質素倹約へと矯正するつもりだったのか? 》
エリスは惚けながらいたずらっぽく微笑む。
「矯正なんて、そんな大げさな。ただ、魔王にも普通の生活というのを味わってほしかった。ただそれだけです」
《――普通の生活、か》
そんなものは己の存在からは誰よりも、何よりも遠くに位置するものだった。
しかし、エリスはそれを経験させようとしてくれる。
(……果たして干物がその答えなのかは疑問だがな)
魔王は複雑な表情でエリスを眺めた。
針仕事は終盤にかかっているようで、毛布の端部分を流れるように縫っている。
《言い忘れていたが……いくら質素倹約とはいえ、その使い古された毛布は新しいのに交換した方がいい。見てて見苦しい》
「えー? でも、まだ直せますよ? ほら、綺麗になりましたよ!」
エリスは自信満々に毛布を広げると成程、確かに空いていた穴は塞がり、解れていた箇所も元通りである。ボロボロではあるが、使うには不自由ないものになっていた。
魔王にとって、エリスの言う質素倹約の精神は正直お断りしたいものだ。
しかし、その精神こそがこの少女の基礎となっているものと思うと、意外と悪くないようにさえ思えてくる。
(……ふん。余としたことが、腑抜けたようなことを)
我にかえった魔王は、その思いを振り払うように首を横に振る。
そして、今し方目の前の少女が懸命に修復した毛布に包まると、身も心も温かくなるような感覚を覚え始める。
きっと、彼女の気持ちがふんだんに含まれているからだろう。
その心地よさに全てを任せながら、魔王はゆっくりと目を閉じるのであった。




