序章1 決戦、そして凱旋
世界の辺境にある瘴気に満ちた不毛の地。
魔王の居城があるとされる最後の地で、二人の影が互いの存在を賭けて衝突していた。
刃を交え、拳を交え、強大な魔法が交差し、身を負傷させながらも即座に治癒していく。
息をつく間も無く、お互いが全力で相手を討ち倒さんとしていた。
そして勝敗が決した時には、漆黒の全身鎧を身にまとった巨躯の男――《魔王》が、徐々にその身体を黒い霧へと変貌させていた。
「ク……クク……まさか、世を討ち倒す……とはな……愉しかった……ぞ……!」
敗北したことに悔いは無い。
まるでこの戦いに満足したかのような断末魔を叫びながら、目の前の少女に笑みを向けた。
「魔王、あなたの力と誇りに心から敬意を表します――ありがとうございました」
少女――《勇者》は静かに魔王の前に歩み寄り、跪いた。
煌びやかな銀色の長髪が翻り、金色の瞳は祈るように閉じられている。
その姿は、宿敵に対する最大級の敬意の色が浮かんでいた。
勇者の言葉に、魔王は反応することはできない。
床に臥した巨体は全て黒霧となり、気づかれないほど微細な粒子となって消えていく。
主を失った城も魔王同様、その光景が幻だったかのように黒い霧へと変貌し始めていった。
――戦いは、終わったのだ。
「……ぐっ……ぅ……ッ!」
魔王の剣により貫かれた肩に走る激痛がその儚げな顔を歪め、呻き声が漏れ出した。
しかし、勇者は耐えながらゆっくりと立ち上がり、魔王が消えた虚空を見つめた。
勝利の感慨よりも深い疲労と、どこか寂しげな表情を浮かべて。
「――もしいつか、生まれ変わることができた……その時には、また」
彼女は祈るように呟き、傷だらけの体を引きずりながら踵を返し、外へと歩き出した。
――その瞬間、勇者はほんのわずかに背筋へと冷たい何かが触れたような、ごく微細な違和感を覚えた。
しかし、激闘の疲労と傷の痛みによる錯覚だろうと思い、勇者は特に気にも留めることはなかった。
勇者には知る由もない。
これが死の直前に己の肉体を霧散させ、残存する全ての魔力と意識を一点に凝縮し、復活の糧を求めて“器”へと潜り込ませる、魔王の最期の術であったことを。
その意識は、勇者の魂の影のように深く深く沈み込み、刻まれていった。
いずれ力が満ち、再び世に顕現するその時まで。
◇ ◇ ◇
数日をかけ、王都まで戻ってきた勇者をそれはそれは壮大な出迎えが待ち受けていた。
「勇者様! お帰りなさい!」
「よくぞ魔王を倒してくれました!」
「世界の救世主! 勇者万歳!」
人々の熱狂はすさまじく、衛兵たちが必死に規制線を張らねば勇者はたちまち人波に飲み込まれてしまいそうだった。
勇者はその熱狂的な歓迎に少し戸惑いながらも嬉しそうに、そして照れくさそうに手を振って応える。
彼女のその無邪気で飾らない笑顔は、人々の熱気をさらに盛り上げた。
その中で、一人の幼い少女が人垣を掻き分け勇者へと駆け寄ってきた。衛兵に止められるが彼女は「大丈夫です」と制した。
少女は勇者の足元に跪き、肩を小刻みに震わせながら、これまで必死に堪えていた想いを吐き出すように言った。
「お帰りなさい、勇者様……私、あなたが戦っている間、何もできずただ震えて待つことしかできませんでした……こんな自分が情けなくて、悔しくて……」
勇者が生死を賭して戦っている時も。痛みに身体を震わせている時も。溜まりに溜まった疲労で動けなくなっている時も。
自分は安全な場所にいて、全てが解決するまでただ待っているだけだった。そんな自分の無力さに少女は罪悪感を覚えていたのだ。
そんな少女に対し勇者はしゃがみ込み、そっと頭を撫でた。
「情けないだなんて、そんなことありませんよ。あなたがこうして私を想い、駆け寄ってきてくれた。皆さんが私の勝利を信じて待ってくれていた。その気持ちこそが、私の力になりました。皆さんがいてくれたから、私は魔王に勝てたんです。だから私こそ……ありがとうございました」
そう言って、勇者は少女に眩しいほどの笑顔を見せ、握りしめた拳を胸に当てて見せつけた。
少女は涙を拭い笑顔を返すと、民衆の歓声はさらに大きくなった。
一方、勇者の心の中――彼女には感知できない領域で、微かに意識を保つ魔王の残滓がこの光景を嘲笑った。
《ふん……見事な欺瞞だな》
心の中の魔王は冷ややかに嘲笑した。
最期の力を振り絞り、勇者の心に潜り込んだ今の彼にできることは、人間には感知できない“陽炎”を勇者の周りに展開することで客観的に周囲と彼女の反応を観察することのみであった。
《口先だけの感謝と慈悲。よくもまあ、これほどまでに軽々しくものが吐けるものよ。貴様が与えた『世の平和』に比べ、奴らは貴様に何一つ与えてもいない。何とも滑稽な取引だな》
しかし、その嘲笑もつかの間だった。
魔王は喝采を送る民衆の中に、ごく少数──主に衛兵や兵士といった王直属の組織にいる者の中に、奇妙な表情を浮かべている者たちがいることに気がついた。
その瞳の奥には、深い哀れみや複雑な諦念、ある種の畏怖にも似た感情が潜んでいるように見えた。
(……? この違和感は何だ? 勝利の歓喜の中にありながら、なぜ哀れでいるのだ?)
魔王は不可解に思った。
それは、彼が予想していた者の反応とは明らかに異なるものだったからだ。
しかし、勇者はその少数派の異様な空気には全く気づいていない。彼女は純粋に民衆の祝福を喜び、そしてそれに応えようとしている。
少なくとも、魔王からはそうとしか見えなかった。
(……まあ良い。どうせ余には関係のないことだ。今は静かに力を蓄める時である)
魔王の意識は静かに沈黙し、勇者は祝福の波に押されながら王城へとゆっくりと歩を進めていく。
一方、ほんの一握りの者達の哀れみと憂いを帯びた視線が、ひときわ強く勇者の背中に注がれていた。




