贖罪を負う青年Ⅶ
レオが宿に到着すると、蒼白い顔で宿の主人が出迎えた。
「坊主!無事だったか!……娘さんは一体どうしたんだ?……それに、魔獣は?」
「魔獣は倒した……詳細は後で話す。まずは彼女を休ませたい。血で汚れてしまっているが構わないな?」
「あ、ああ! 一番奥の空いている部屋を好きに使え!」
エリスはレオに抱えられながら、小さな客室へと導かれた。
◇ ◇ ◇
「ぐ……ぅ……ぁ……」
エリスはベッドに横になるなり、意識の淵を彷徨うかのように深く、苦しげな呼吸を始める。
痛みはますます強まり、全身が火照りながらも悪寒が走っていった。
レオは水で濡らした布をエリスの額に当てたが、それはすぐに彼女の高熱で温まってしまった。
「……なんだよ、これ……俺はまた、何もしてやれないのか……」
明らかに異常なエリスの様子に、レオは手の施しようがない。
悔しさを滲ませながら拳を握り締め、嘆くその顔にエリスがまた苦しげに微笑みを返した 。
「そんなこと……ありません……運んで……くれた……それだけ……で……十分、です」
「十分じゃありません! 俺を助けてくれたことのこれっぽっちもあなたに返せていないのに!」
「……大丈夫、です……こんな……痛み……ッ!……すぐに……良く、なります……」
「……冷やすものを持ってきます。少し待っててください!」
――その後、エリスの苦しみは丸一日経っても続いていた。
その間、高熱と全身の痛みに一睡も眠れることはなく、村の医者に診察して貰ったが専門家でさえ匙を投げる状態であるとのことだ。
つまり特効薬はない。ただ自然に回復するのを待つしかなかったのだ。
エリスに命を救ってもらったレオは、その恩に報いるために必死に看病をした。
まるで何かに取り憑かれたかのように、暇さえあれば沸騰しているかのような体温を濡れた布によって下げ、少しでも楽になるように取り換え続けた。
絞り出すような声で求められた水を与え、胃に通らないことがわかっていたとしても、栄養のある食事を作り、持ってきてその様子を見守っていた。
看病の最中、レオが少しでも情けない姿や申し訳ない態度をとると、エリスは苦しげな声で『大丈夫』とやせ我慢をして、励ましていた。
痛みに耐えるだけでも苦しいはずなのに、そこまで配慮をしてくれるエリスに対し、レオはできる限りのことをしたかったのだ。
◇ ◇ ◇
その夜。
再びレオが栄養のある食事を作りに部屋を出ていった時のこと。
薄暗い部屋の古びた木製のベッドで、寝ることもできないまま、エリスは未だにその全身を襲う灼熱の痛みに耐え続けていた。
「……うぅ……ぐ……っ……」
強大な魔獣を消滅させる力を得るほどの魔王の力の付与は骨の髄まで砕かれるような痛み。筋肉が引き千切られるような痛み。神経が焼け爛れるような痛みを少女の肉体に生じさせている。
それらが波のように押し寄せ、去っていくのをこれまでに何度繰り返したのかすらわからなかった。
「……ぁ……は……ぅっ……!」
息をするだけでさえ、鋭い痛みが走り、わずかな物音ですら彼女の頭蓋骨を殴打するように感じられる。
額に浮かぶ脂汗は冷たく、しかし体内では灼熱の炎が燃え盛っているかのようだった。
《……想定した通り、反動は相当なもののようだな》
魔王の声が苦しみの最中の脳内に響く。そこには彼が認めたくない、明らかな気遣いが感じられた。
魔王は洗面器から水で濡らした布をくわえ、エリスの額にそっと当てた。しかし、その布は彼女の肌に触れた瞬間からみるみると温まり、わずか数十秒でほとんど乾いてしまった。
「……っ……ひっ……」
エリスは苦しげな息を吐き、ぼやけた視界で魔王の姿を必死に見つめた。
「……魔王……この、痛みを……和らげたり……早く、治す術は……ないんですか……?」
そのか細い、痛みに震える声は聞くに耐えないほどだった。
魔王はしばし沈黙していたが、ため息とも唸りともつかない声を心中で響かせた。
《……無いものはない。この痛みは、普通の怪我や筋肉痛とは訳が違う》
彼は言葉を選びながら、推測という前提で説明を始めた。
《お前の身体は……余の力を取り込んだことで潜在能力を強引に解放し、限界を超えた動きを超えた代償として文字通り過熱しているのだ》
目を細めながら先日のエリスの様子を思い返す魔王。
勇者の頃と同様、いやそれ以上の強さであったことを真紅の眼に逃さず焼き付きていた。
《本来、その過熱は細胞を破壊していくのだが、勇者の力が健在の時は、それを一瞬で自己治癒できる。だが……力の付与が解けた今、自己治癒力は失われ、破壊された細胞のみが残される。さらに余の力の残渣が身体に残り、それはゆっくりとお前の身体を蝕んでいく。――残渣が消失するまではな》
どこか無力感に満ちた魔王に対してエリスは苦しげに呻き、さらに質問を絞り出した。
「では……今の状態で、また……貴方の力を付与して……その、自己治癒力を……発揮すれば……?」
《――馬鹿者!!!》
魔王の怒声が、エリスの脳を揺るがすほどに響いた。
《今のお前に余の力を付与してみろ!激痛に耐えきれず、死を迎えるのが目に見えている! 馬鹿なことは考えるな! 絶対にだ!》
エリスはその叱責に、ただうなだれるしかなかった。
微かな希望の光さえも冷酷に否定される現実に、彼女は布団に顔を埋め、痛みに耐えるしかなかった。
《…………》
魔王は沈黙し、苦悶するエリスを見つめた。
(――それでも……お前は耐えるのだろうな)
魔王は確信せざるを得なかった。
彼の脳裏には、ある光景が蘇っていく。
――清浄なる炎に包まれながら、最期の瞬間まで民衆へ笑みを絶やさなかった、エリスの姿が。
(あの時も、お前はそうだった)
彼は知っていた。
あの清浄なる炎は、魔力を失った彼女にとって如何なる苦痛であったかを。焼け爛れる肉体の痛みや、魂すらも灼かれるような苦しみは、死すらも救済と思えるほどの痛みだったことを。
それでも彼女は、民衆の不安を払拭するため――勇者としての最後の責務を果たすため、一切の苦悶の表情を見せず、終始静かな微笑みを保ち続けた。
(たとえ身体が引き裂かれるような痛みが伴おうとも、他者を守るためなら、お前は平気で自分を投げ出す。“永劫回帰の儀”のあの時のように)
魔王はあの光景を見た時、初めて『畏怖』の念を覚えた。
強大な力による破壊ではなく、ただ自らの苦痛を決して表に出さないという、鋼の意思と自己犠牲の精神に。
彼はそれまで、力こそがすべてだと考えてきた。
しかし、勇者という存在は力以外のものでも人々を救済し、そして深い尊敬を集めうることを、彼に思い知らせたのであった。
(きっとこれから先、お前は度々、余の力に縋ることになるのだろう――いや、縋るとすら思わず当然のように、自ら進んで余の力の招来を願い出る時さえ来るかもしれん)
魔王は静かに予感した。
(目の前で誰かが傷つきそうになった時や、お前が守るべき大勢が危機に瀕した時。迷わず己の身体を犠牲にし、この痛みを引き受けるに違いない)
なぜなら、彼女こそが――
(――自己犠牲と優しさの象徴たる、『勇者』たらしめんとする者だからな)
魔王はそう結論づけ、内心で深いため息をついた。
その思いは、苦笑であり、ある種の諦めであり、そしてなぜか――誇らしいような、奇妙な高揚感を抱いていた。
(その自己犠牲的精神こそが、余すらも倒した理由だ。その強さが、余をこうしてお前と共に歩ませようとしているのだ。愚かであり、苛立たせながらも同時に……最も驚嘆させるのだろう)
通常、生物の精神は許容範囲を超えた痛みに直面すると、意識を飛ばすことで逃避する。
それは一種の防衛本能だ。
どんな痛みにも耐え続けてしまえば、いずれ精神が焼き切れ、生命そのものの危機に瀕するからだ。
しかし、エリスは処刑場の炎に焼かれようとも、魔王の力の奔流に全身を破壊されようとも、気絶すらしない。
意識を保ち続け、その痛みをありのままに受け止め、耐え抜いてしまう。
それはもはや、生物としての常識を超えている。
(あの異常なまでの他者への共感力と包容力は、どんな矮小な痛みですらも、どんな超大な痛みに対しても逃げることなく、異常なまでに感じ取ろうとするのだろう)
どのような痛みも決して遮断せず、真正面から受け止める。
だからこそ他者の痛みにも深く共感し、それを癒やし、勇気を与えることができる。
(――まさに、人々が思い描く“勇者”の姿だ)
それは、勇者としての資質の裏返しでもあることを物語っていた。
彼女の強さの源泉であるその感受性の高さが、同時にこのような絶望的な痛みをもたらす原因となっている。
あまりにも皮肉なことだった。
(……哀れな娘だ)
魔王は、自身の中に湧き上がる感情を、そう名付けた。
(余は……お前を“器”として認めた。ならば……この先も、お前は幾多の生き地獄を経験することになるだろう)
それは冷酷な宣告のように聞こえたが、その根底には、歪んだながらも確かな信頼があった。
(どんな困難も、どんな苦痛も、決して逃げずに耐え抜き、やり通すことができる――だからこそ、これからもお前に力を与えてやる)
今、痛みに悶えるエリスを見ていると、魔王の胸中には複雑な感情が渦巻いた。武人としての好奇心と興奮。彼女の可能性への期待。
そして、それ以上に――彼女に与え続けなければならない苦痛への、ほのかな後悔と哀れみだった。
しばらくして、エリスのうめき声が少しだけ弱まった。波のような痛みが一時的に引いた瞬間だった。
「……魔王……あり…がとう……ございます……」
《……なんのことだ?》
急に感謝されたことに対し、呆気に取られる魔王。
一方、エリスは痛みで歪んだ顔で無理やり微笑んだ。
「説明……してくれた……ことです…………わからずに……苦しむより……ずっと……マシ……ですから……」
その言葉に、魔王は言葉を失った。
この状況で尚も感謝の言葉を口にする彼女の精神性は、もはや理解の範疇を超えているとすら思えた。
《……馬鹿者め》
彼はそう呟くと、それ以上何も言えなかった。
やがて、再び痛みの波がエリスを襲った。
彼女は布団に顔を埋めて歯を食いしばり、しかし決して意識を失うことなく、ただ耐え続けた。
魔王は静かに目を伏せた。
彼はこれからもエリスに力を与え、彼女を苦しめ続けるだろう。
きっと彼女がそれを望むに違いないから。
そして、彼は確信していた。
この苦痛に耐え続けるエリスが、いつか本当の意味で魔王の力どころか、かつての勇者さえも超越する存在になる日が来るかもしれない、と。
それは彼女にとって呪いか、それとも祝福か。
その答えをこの場で断言できる者は、誰一人としていなかった。




