贖罪を負う青年Ⅱ
エリスが村に滞在して三日目の夕暮れ時だった。
空は茜色に染まり、黄昏時に近い刻を刻みながら山肌に長い影を落とし始めていた。
彼女は宿の裏庭で洗濯物を取り込みながら小川の方から聞こえてくる規則正しい金槌の音に耳を傾けている。レオは今日も水車の修理を続けていた。
彼の働くリズムはどこか機械的で、自分自身を追い詰めるような無理のある持続性を感じさせた。金槌の音一つ一つに焦りと自己懲罰的な意志が込められているように聞こえた。
《あの男、相変わらず自滅的な働きぶりだな。既に身体は過労の限界に近い。魔獣が現れなくとも、いずれ勝手に倒れる時が来るぞ》
足元で魔王が冷ややかに批評する。彼の深紅の瞳は遠くの小川の方向を細めて見つめている。
「……ええ、でも彼はきっと誰かに止めてほしくてこうしているんだと思います。本当は一人で抱え込むのは辛いはずなのに……」
エリスは曇った空を見上げ、そっと呟いた。彼女の第六感がレオの心の奥底に潜む孤独と苦悩を微かに感じ取っていた。
――しかし、その時だった。
遠くの山間から地響きを伴うような、獣の咆哮とも悪霊の唸りともつかない不気味な叫びが轟いた。それは村全体を揺るがすほどの音量で、エリスは思わず姿勢を低くして警戒を開始した。
彼女の肌に鳥肌が立ち、背筋に冷たい電流が走るのを感じた。呼吸が速くなり、第六感が最大級の警告を発している。
次の瞬間、村はずれからけたたましい鐘の音が鳴り響いた。
「魔獣だ―――! また魔獣が現れたぞ―――!」
「あの青年はもう行ったのか!?」
村中が悲鳴と慌ただしさに包まれた。
人々は家の中に駆け込み、戸を閉ざしてその身を隠していく。
《……魔獣にしては異常な殺気だな。尋常ではない魔力の量を食い漁ったのだろう》
「……レオさん!」
エリスの心臓は不吉な予感で高鳴り、彼女は洗濯物を放り出し、宿に駆け込んだ。
宿の主人は入り口を厳重に固めている最中で、駆け込んできたエリスに向かって告げた。
「娘さん、早く中に入れ! 今回は……今までで一番強烈な咆哮だ……!」
「……あの兵士さんは!?」
「もう行った! ……さっき、咆哮と同時に駆け出していった!」
エリスは魔王と顔を見合わせ、すぐさま魔獣の元に駆けつけることを決めた。彼女の直感が、レオの危険な状態を強く告げていたのだ。
「何かできることがあるかもしれません! 私も行きます! どちらの方角へ行かれましたか!?」
「……娘さん、やめておけ。彼は誰の手も借りようとはしないんだ……今までの魔獣の襲撃時もそうだった」
「それでも、私に行かせてください! 自分の身は自分で守れますから……お願いです、方角を!」
宿の主人は青ざめたが、エリスの必死の眼差しに負け、レオの向かった先である村の外を指差した。
主人に礼を言った後、エリスは黒猫を肩に乗せ、目的の場所へと走り出した。
(レオさん……どうかご無事で……!)
◇ ◇ ◇
村から出て、少し離れた広場では既に魔獣が暴れており、荒れ果てた空き地には恐ろしい光景が繰り広げられていた。
(こ、この威圧感は……!!)
そこにいたのは、エリスがこれまで見たどの魔獣よりも巨大で、禍々しい気を放つ存在だった。
まるで熊が巨大化したような姿は通常の個体の倍以上はあり、皮膚は岩のようにゴツゴツとし、所々から不気味な瘴気のような黒い煙を噴き出している。
口からは鋭い牙が無数に覗き、黒い涎を垂らしながら深紅の双眸が獲物を睨みつけていた。
そして、その魔獣に果敢にも、そして無謀にも立ち向かう一人の青年がいた。
「レオさん!!」
彼の着ている鎧は前回以上に傷だらけで左肩の当て部分が大きく抉られ、その下から血が滲んでいる。
しかし、彼はその痛みをものともせず渾身の力で魔獣に挑んでいた。
魔獣の攻撃を受け止め続けている盾に刻まれた紋章が、夕日を受けてかすかに光った。
その紋章を見たエリスは、驚きのあまり絶句した。
(……あの紋章は!?)
記憶が鮮明によみがえる。
かつて監獄へ彼女を連行した兵士たち、処刑場で複雑な表情で見つめていた衛兵たち。彼ら全員が、同じ紋章を盾に刻んでいた。
間違いない。これは王都に所属する者の中でも、王直属の兵士の紋章。
――レオはあの“永劫回帰の儀“に関わった兵士の一人だったのだ。
「ま……まさか……!」
この村での初日に初めてレオと会った時、彼の目に一瞬の動揺と、激しい罪悪感が走ったように見えたことを彼女は思い出した。
その記憶を元に、エリスの第六感がレオの心の奥底に潜む深い罪悪感と後悔を鋭く感じ取り、ある一つの可能性を得た。
彼が抱いているのはおそらく、彼女――勇者に対する贖罪の念。
あの“永劫回帰の儀”で身を焼かれている時、どの兵士もこちらを直視しないように俯いていたのを、エリスは知っていた。
「うおおおっ!!」
レオの戦い方は訓練を受けた兵士とは思えぬほどの無茶ぶりだった。
自身の負荷はほとんど顧みず、魔獣の魔力の込められた爪の攻撃も盾で真正面から受け止める度に鎧ごと歪み、彼自身の負傷部位が積み上げられていく。
それは戦いというより、自らを傷つけ削り取っていく行為そのものだった。まるで、自身の肉体の痛みによって別の痛み――心の痛みを麻痺させようとしているかのように。
「やめてください! そんな戦い方では、すぐに力尽きてしまいます!」
エリスは叫んだが、その声は魔獣の咆哮とレオ自身の必死の叫びにかき消された。
《止めようとしても無駄だ》
そこに観察者のように冷たい魔王の声が心の中に響いた。
《あの男の目をよく見よ。死の恐怖など微塵もなく、寧ろ安堵に近い感情さえ感じられる。あの無謀極まりない戦い方は、明らかに自らの死を歓迎しているものだ》
後退せずに常に前に出て、体勢を立て直すことすらしないその姿はまさに死に急ぐ者の姿だった。
《ならば、そっとしておくしかない。これがあの男の望む結末だ》
告げる魔王の声色は、常に自己犠牲を考えているエリスへの警告にも近い色をしていた。
「そんな……そんな理由で死ぬなんて……!」
エリスの唇が震えた。
彼女自身はあの兵士たちを一切恨んではいない。それどころか彼らが王国の命令に従い、苦渋の選択をしたことを理解していた。
ましてやレオのように村のために尽くし、自らを贖罪の道に追いやるなど彼女の望むところではなかった。
魔獣はレオの執拗な効果の薄い攻撃に、業を煮やしたように低く唸りながら前脚を勢いよく振りかざした。
その爪には濃密な魔力が渦巻いている。今までの攻撃とは比較にならない致命的な一撃の予感がした。
「……クソッ!」
レオは渾身の力で盾を構えるが、轟音と共に魔力の衝撃が盾を直撃すると腕の中から、明らかに不自然な軋む音がした。彼の腕の骨が防具ごと砕かれたのだ。
盾はそのまま弾き飛ばされ、レオの身体は嘘のように空中に吹き飛ばされた。受け身もできずにそのまま地面に叩きつけられたことで全身に強烈な痛みが走った。
「――が、はっ……!」
痛みに悶絶するレオに魔獣はゆっくりと近付いていく。明らかに獲物にとどめを刺そうとする獣の姿であり、その歩みには余裕すら見えた。
向かってくる魔獣を地面に倒れたまま見たレオは、その運命を受け入れるように微かではあるが、どこか清々しい微笑さえ浮かべて意識を手放した。
「……ここまでか。……だが、これでやっと償える………勇者、様」
その懺悔の呟きは、距離があるエリスには聞こえない。だが、その悟った表情から動いた口元に彼女は確信を得ていた。
やはり彼は、レオは“永劫回帰の儀“に関係のある者であり、勇者に対する贖罪の念を抱いている。
その事実がエリスの心の奥底で何かを決定的に断ち切り、身体を奮い立たせた。
「……ダメですっ!」
エリスの足が、自分でも制御できないように魔獣の方へと走り出した。
《待て、エリス! お前にできることなど何もない!》
魔王の警告が雷のように心中に響く。しかし、エリスの意志はもう揺るぎようがなかった。
「わかっています! わかっていますけど……! それでも、目の前で、私を知る誰かがそんな理由で死んでいくのを見ていることなど……そんなこと絶対にできません!」
エリスは魔獣の周囲を駆け抜け、地面の石を拾っては投げつけ、注意を引きつけようとした。
「あなたの獲物はこちらです! こちらを見てください!」
魔獣は鬱陶しげにエリスを一瞥し、巨大な前脚で風を切るように薙ぎ払った。エリスは研ぎ澄まされた第六感でその軌道を読み、寸前でかわす。
しかし、その風圧だけでも今の彼女の脆い身体は大きく跳ね飛ばされ、肺の空気を押し出された。
「ぐっ……はぁ……はぁ……!」
エリスは苦悶の顔をしながら息を弾ませている。
魔獣は本気で彼女を相手にしていない。子供の悪戯に付き合わされている大人のように、少し苛立っているだけだ。
それでも、ほんの一撃でもその攻撃が直撃すれば彼女の身体は紙屑のように引き裂かれるだろう。
魔獣は再び動かなくなったレオに目を向ける。とどめを刺すべく闇の魔力をさらに濃密に爪に集中させ、ゆっくりと近づいていく。
《エリス! これ以上は無駄死にだ! 引け!》
魔王の声には稀に見る焦りと、そして確かな怒りが込められていた。彼はエリスの死を望んでいないからだ。
エリスは立ち止まった。
全身が恐怖で震え、冷や汗が背中を伝う。魔獣の放つ殺気と圧倒的な力の差に足がすくみそうになる。
だが同時に、彼女の真紅の瞳は微動だにしない決意に満ちていた。
「……魔王」
静かに、強く呟いたエリスに呼応した魔王は《……何だ?》と警戒した声で返した。
「――あなたの魔力を、ください」
エリスのその言葉は、追い詰められた者が紡ぐものではなかった。
――全てを理解した上で、己の信じる選択をした者の姿がそこにあった。




