贖罪を負う青年
マーガレットに別れを告げ、再び鍛治の街を目指すべく、エリスは肩の上の魔王と共に細い山道を歩んでいた。
彼女の荷物袋は残りわずかな干し肉と堅パン、そしてあと二口ほどの中身しかない水筒でわずかに膨らんでいるだけ。
早急に補給が必要な状態であることは明白であった。
《……随分と人気のないところへ来たな。もはや獣道と言っていいだろう》
「ええ、でも道はあっているようですね。所々に人の生活の気配がありますし、地図によればそろそろ小さな村が見えるはずです」
道に刻まれた歩行杖の跡や、薄らと消えかけている轍を見ながらエリスは躊躇いなく前へ進んでいく。
彼女の第六感と勇者であった頃の経験に裏打ちされた、確たる自信を持っての歩みであった。
◇ ◇ ◇
程なく歩き続けると、山肌にへばりつくような十数件の粗末な家屋が寄り集まる小さな集落が見えてきた。
中央に石造りの古びた井戸と小さな広場、周囲には手入れの行き届いた段々畑が広がり、じゃがいもや豆らしき作物が整然と育っている。
のどかな田舎の風景そのものだった。
しかし、エリスはすぐに違和感を覚えた。
畑仕事をする村人たちの動きに活気がなく、皆俯き加減で黙々と土をいじっている。井戸端で水を汲む女たちの会話もひそひそと控えめで、笑い声一つ聞こえない。
遊び回るべき子供たちの姿もまばらで、見かけても声を殺して慎ましい鬼ごっこをしている。
村全体に張り詰めた、息を潜めるような空気が漂っていた。まるで何か大きな恐怖に耐えているかのようだった。
《……どうやらこの村、見かけほど穏やかではなさそうだな。気をつけろ、何かが起きている》
魔王もエリスと同様の違和感を察知したようで、エリスに警戒を促した。彼の深紅の瞳が細められ、周囲を注意深く観察し始める。
エリスは慎重に村へと足を踏み入れると、村人に旅人の来訪を歓迎する気配はなく、遠巻きにエリスを眺めている。
少し歩くと、村で唯一らしい少し大きめの掘っ立て小屋があった。そこにぶら下がっていた擦り切れた木の看板には「宿屋兼酒場」と書いてある。
ちょうど空腹も感じていたため、エリスは迷うことなく中に入った。
がらんとした店内には数人の村の老人が壁際で茶らしきものをすすり、沈黙していた。彼らもまた埃をかぶったような曇った表情をしており、まるで長い間笑うことを忘れてしまったかのようだ。
エリスの姿に老人たちは一斉にちらりと視線を向けたが、すぐに興味を失ったように俯いた。カウンターらしき場所に立つ恰幅の良い初老の男――おそらく宿の主人が埃っぽい布でグラスを磨きながら、無愛想に言った。
「客か、珍しいな。宿泊か? 食事か?」
「あ、はい……宿泊を考えていますが、まずは軽い食事をお願いできますか? それと、お水も……」
主人はうなずくと、奥へ消えた。エリスは壁際の席に腰を下ろした。肩の上の黒猫が軽く飛び降り、テーブルの上に優雅に座る。老人たちは一瞬猫を見たが、特に何も言わない。この辺りでは、猫を飼うのは珍しくないのだろう。
しばらくして主人が戻ってきた。木の盆に、硬そうな黒パン一切れと、チーズの欠片、そしてスープが入った陶器の椀が載っている。スープは薄い色で、具は野草と芋らしきものが少しだけ浮かんでいるだけだった。
「……お待たせした。お代は銅貨2枚だ」
「ありがとうございます」
エリスは微笑んでお礼を言い、ささやかな食事を味わい始めた。
パンは確かに硬く、スープもほとんど味がしなかったが、彼女はありがたくいただいた。魔王はというと、エリスがチーズの欠片を手のひらに乗せて差し出そうとしたのを《猫扱いするな》と一瞥して無視をしている。
エリスは食事をしながら、強烈な違和感を覚え続けていた。
酒場だと言うのに、自分の食事をする音だけがやけに響き渡っているほどの異様な静寂が店内を占めていたからだ。
「ご馳走様でした。……すみません、村の皆さんはなんだかお疲れのようですね? 何かあったんですか?」
食事を終えたエリスはこの重苦しい空気に耐えかね、勇気を振り絞って主人に話しかけた。
主人は埃っぽい布を置き、深く息を吐いた。彼の顔には、積もり積もった疲労と諦めの色が刻まれている。額の深い皺がさらに深く刻まれたように見えた。
「……旅人なら、知らんほうがいい。早々に立ち去ることを勧めるよ」
「でも、もしよろしければ……話していただけませんか? もしかしたら、お手伝いできることがあるかもしれません」
主人はエリスをじっと見た。
その目は彼女の無害な外見と、純粋そうな眼差しを測っているようで、しばしの沈黙の後、彼は重い口を開いた。
「……娘さんの分際で首を突っ込むとは、碌な目に合わんぞ? だが……まあ、いいだろう。聞きたいなら話してやる」
主人は語り始めた。
ここ数週間、山中で異変が起きているらしく、通常よりはるかに巨大かつ凶暴化した魔獣が現れたとのことだ。
村に降りてきては家畜を貪り、時には人をも襲うようになったため、村の男たちが何度も討伐隊を結成して立ち向かったが、結果は全て返り討ち。
死亡者までは出ていないが、重傷を負ってしまった者も多いとのことだ。
「俺たちにはもう魔獣と戦える男はおらん……みな傷つき、恐怖で震えおる……」
主人は力なくうなだれ、手元の布で汗を拭った。
しかし、その表情はそこでわずかに明るくなった。曇ったガラス窓から差し込む陽光が、彼の顔をほのかに照らしている。
「ただ、そんな中だ。数週間ほど前から、ようやく俺たちにも希望の光が見え始めたんだ」
宿の主人が教えてくれたのは、よそから流れ着いたという一人の青年兵士の話だった。青年は疲弊し傷ついた様子だったが、村の現状を聞いた途端に自ら進んで魔獣討伐を引き受けたという。
そして実際に、彼は傷つきながらも単身で魔獣と渡り合い、これまでに二度、村を襲撃から守りきっていた。
それだけではない。魔獣退治の合間を縫っては村の壊れた柵の補修や老人の家の屋根葺き替え、そして今は小川の水車の修理まで手がけているという。
「あの青年は……英雄だ。この村の救世主だよ。だがお礼を言おうとも名乗ろうとしない。『名乗るほどの者ではない』としか言わないんだ」
主人の目には複雑な陰りが宿っていた。感謝と同時に苦々しさと、深い哀れみのようなものが滲んでいた。
◇ ◇ ◇
魔獣の襲撃、そして英雄、救世主。
エリスは宿の裏庭で宿賃を無料にしてもらうための薪割りをしながら、その話を反芻していた。
《先ほどの話、どうやら調べてみる必要がありそうだな。宿の主人の表情が単純な感謝だけではなかった。何か隠していることがある。そして……名乗らぬというのも、腑に落ちん》
魔王が心中で呟くとエリスもその言葉に同意する。
「ええ……私も、そう思います」
エリスは斧を振り下ろし、薪を真っ二つに割った。乾いた木材の良い香りが周囲に広がる。
「だって……もし村の英雄なら、もっと皆さんが明るく話題に出すはずじゃないですか? でも、村の空気は重たいままです。それに『救世主』のはずなのに、主人の目が悲しそうでした」
エリスは斧を止め、遠くの山並みを見つめた。夕焼けが始まり、山肌が茜色に染まり始めている。
「それに、自分が傷つくのも厭わず、できることを常に探して働くその姿が……それは献身というより、どこか償いのように感じられるのです」
《……妙に沈み込んでいるではないか》
魔王もまた、エリスが感じ取っている不穏な空気と、彼女の胸中に湧き上がる複雑な感情を感知していた。
「ただ、その兵士さんに何もなければいいのですが」
エリスはそう答えるが、自身の言葉に説得力がないことを感じていた。
彼女の第六感は青年が、単なる「英雄」ではない何かであることを囁いており、胸中に漠然とした不安が覆い被さっていた。
◇ ◇ ◇
夕日が山肌を赤く染め、空が黄金に輝く黄昏時の頃。
エリスは宿の手伝いを終えて少しばかりの報酬――干しリンゴと小さなパンを受け取った後、宿を出て村を少し歩いてみることにした。
村の中を歩くエリスの影が夕日によって伸びていく中、周囲は静まりかえっていた。
本来は子供が親の呼び声で自宅へと戻る時間のはずなのに、人の子一人すら見えない。魔獣の襲撃がそこまで村の脅威となっていることが嫌でも理解できた。
エリスは青年のいる場所がわからないまま適当に歩いていると、小川のほとりに人の気配を感じた。
そこには、壊れた水車を修理している者がおり、その者が彼女が探していた目的の人物であった。
彼は鎧の上に作業用の革エプロンをかけ、工具を手に水車の壊れた部分と格闘していた。
汗で黒髪が額に張りつき、浅黒い肌に汗の筋が光っている。身体にはいくつもの包帯が巻かれ、魔獣の襲撃による怪我を治療した痕が残っている。
その横には手入れの行き届いた、しかし明らかに使い込まれた長剣と鎧が丁寧に置いてあった。鎧は所々が凹み、傷つき、血の痕らしき黒ずみがいくつもついていた。
青年は二十歳前半だろうか。顔には疲労の色が濃いが、その目は――
「……っ」
エリスは息を呑んだ。
その瞳は、まるで深い井戸のように全ての光を吸い込むような虚ろさと、灼きつくような決意の相反する感情が渦巻いていた。
それは死をも恐れない、あるいは死を望むかのような危険な輝きを帯びている。
エリスが近づく足音に青年は気づくと、その瞬間、彼の目に一瞬の動揺――そして、激しい罪悪感と苦痛のようなものが走ったようにエリスには見えた。
「……何か用か?」
彼の声は掠れており、無愛想だった。
「あ、いえ……通りすがりの旅人です。エリスと申します。お邪魔しましたか?」
「……構わん。だが近づくなら自己責任だ。この水車はいま不安定だからな」
エリスは少し距離を置いて彼の作業を見守った。
確かに無愛想だがその手つきは慣れたもので、村のために真心を込めて働いているのが伝わってきた。
「あなたが、村の皆さんがおっしゃっていた兵士さんですか? 是非、お名前を教えて欲しいのです」
青年は埃っぽく埃を払いながら、わずかに眉をひそめた。
「名乗るほどの者ではない」
「そんなこと言わないでください、ね?」
エリスは自然と笑みを浮かべた。
「村の方は、あなたのことをとても感謝していらっしゃいますよ。どうかお名前、教えてください」
しつこいエリスを横目に見ながら、それでもその無害な雰囲気と純粋さに何かを感じ取ったのかもしれない。
ため息混じりに、青年兵士はその名を口に出した。
「……レオだ」
「素敵な名前です。あの……レオさん、って呼んでもいいですか?」
「……好きにしろ。だが俺はお前さんに何の用もない。用が済んだらさっさと立ち去るがいい。この村は……危険だ」
その青年――レオはエリスを一瞥し、すぐに作業に戻った。
《ふん……随分とつれない男だな。しかし、その態度の裏には明らかな後悔の色が見える。――面白い》
魔王が嘲るがエリスはその声を無視し、レオに近づいた。
「お手伝いしましょうか? 私は力はないですが、道具を渡したりすることなら……」
「余計な真似はするな。構わんでいい。……俺は誰の助けも借りん」
レオの声はわずかに強く響くが、それだけだった。それ以上話す気はないという態度を見せつけながら、そのまま無言で作業を再開した。
エリスは少し離れた場所に腰を下ろし、レオの働く姿を見守った。
自己犠牲的に村を守り、そしてひたすらに働くその姿。その姿にはどこか「償い」を急ぐような、自分を追い詰めるような焦りが感じられる。
(心配です。この人、本当に大丈夫でしょうか……)
彼女の胸中に強い心配と、そして興味が湧き上がった。
彼が何の贖罪を背負っているのか、彼女にはわからない。だが、彼の瞳の奥にちらつく苦痛は本物だった。
夕闇が迫りレオが作業を終える頃、エリスは宿に戻ることにした。
そして彼女は宿の主人に、もうしばらく滞在させてほしいと申し出た。報酬はこれまでと同様に働くことで支払うと言って。
《……どうしたエリス。やはりあのレオという男が気になるのか?》
魔王が訝しむ。
「ええ……ちょっとだけ気になることが。……あの人、どうも見ていられなくて」
エリスは上の空になりながら、そっと答えた。
魔王はため息とも唸りともつかない声を上げたが、それ以上は何も言わなかった。
エリスは窓の外の闇を見つめ、両の手を結びながらそっと祈った。
――どうかレオさんに何事もありませんように、と。
しかし、彼女の滞在はレオの運命の歯車を、大きく狂わせ始めていた。




