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元勇者の実力


 酒場で情報を得た『鍛治の街』へと向かう中、エリスは森を抜けた後に緩やかな丘陵地帯へと足を踏み入れた。

 風は冷たいが雲の切れ間から差し込む陽光が草原を優しく照らし、鬱蒼とした森の中とはうってかわって穏やかな雰囲気が漂っていた。


《ようやくまともな景色になってきたな。あの陰鬱な森よりは余の好みだ》


 肩の上の黒猫が気持ち良さそうに伸びをする。日光で温まった毛皮はふわふわとして、まるで小さな太陽のようだった。


「でも油断は禁物ですよ。見通しが良い分こちらの姿も遠くから捉えられやすいかもしれませんから」


 エリスは相変わらず慎重だ。

 彼女の赤い瞳は、常に周囲を細かく、しかし自然に確認している。遠くの丘の上の動き、風の微妙な変化、小動物たちの行動――全てが彼女の観察対象だった。

 それは勇者時代に培った癖であり、彼女の生存戦略の一つとして自然に身体が動くようになっていた。


◇ ◇ ◇

 

 しばらく歩いていると、遠くの丘陵の上にぽつりと一つ、廃墟となった小さな砦らしき影が見えてきた。石積みは崩れ、旗竿は折れ、かつての威容は失われているが旅の拠点とするには十分そうだ。


「今日はあの砦で休みしましょうか。このまま歩いても次の街に辿り着けそうにないですし」

 

《……そうだな。ちょうどこの身体も疲労が溜まってきた頃だ》


 二人は砦へと向かって歩き出した。

 しかし、エリスの足取りは砦に近づくにつれ、わずかに鈍っていった。彼女の眉間にかすかな曇りが浮かぶ。何か気になるものがあるようだった。


《どうした、エリス?魔物の気配は特に見当たらないが》


 魔王が顔を近づけ、その瞳を見つめている。

 まだ共にいる時間は長いとは言えないのに、魔王は彼女のことを少しずつ理解しつつあり、今も何かを察したことに気づいたのだ。


「……少し、気になることが」


 彼女は言葉を濁していたが、砦からかすかに漂うある気配を捉えていた。それは敵意というほど鋭いものではない。

 だが、確かにそこに何かが潜んでいるという感覚だった。


 

 砦の崩れた門をくぐり、中庭へと入る。そこは雑草が生い茂り、静まり返っていた。

 エリスはぴたりと足を止め、中庭の奥にあるかろうじて屋根の残る建物へと視線を向けると、軋むような音をしながらその扉が開いた。


「いらっしゃい、旅人さん」

 

 扉の影からゆっくりと現れたのは、一人の老婆だった。その身にまとうのはボロボロの魔術師風のローブ。手には磨り減った杖。その顔には深い皺が刻まれ、片目は灰白色に濁っているが、残る片方の目は鋭くエリスと黒猫をじっと見据えていた。

 どうやら先ほどから二人の気配にすでに気づいていたようだ。

 

「こんにちは、お婆様。今日の宿を探して歩いておりまして、もしよろしければここで一晩泊まらせていただけないでしょうか」


 エリスは物怖じすることなく、謙って老婆に尋ねた。

 肩の上の魔王は警戒心を緩めていない。老婆がただものではないということを汲み取っていたのだ。

 

「この砦はわしの棲家だ。邪魔するつもりがなければ、一夜の宿を貸してやっても構わん」


 老婆の言葉は穏やかだが、エリスはその奥に潜む長い年月を生き抜いてきた者特有の鋭さと、ほんのわずかな猜疑心を感じ取った。


「ありがとうございます、お婆様。お言葉に甘えさせていただきます」


 丁寧にお辞儀をしたエリスを老婆はじっと見つめ、特にその赤い瞳と黒い髪に視線を留めた。


「……ずいぶんと珍しい容姿の娘だな。それに……その猫も、ただものではなさそうだ」

 

《ふん、良い目をしているな老婆よ》


 黒猫は内心で呟いたが、もちろん老婆には聞こえなかった。


◇ ◇ ◇

 

 老婆はエリスを招き入れ、砦の一角にある比較的保存状態の良い部屋へ案内した。部屋の中央には暖炉があり、老婆はささやかな魔力で火を灯し、薬缶を掛けた。


「そこの席に座れ。わしの名はマーガレットという。かつては高位の魔術師の一人だったが……今はただの隠居者よ」


 マーガレットはゆっくりと杖を置き、自身も反対側の椅子に腰を下ろした。


「私はエリスと申します。こちらは……その、相棒のようなものです」


 エリスは黒猫をそっと膝の上に降ろした。


「エリス……か。ではエリスよ、一つ聞いても良いか? お前、戦士か?」


 マーガレットの片目が、さらに鋭く光る。


「……なぜ、そうお思いに?」

 

「雰囲気だ。長年、戦士たちを見てきたわしの目にお前の佇まいや目の付け所、呼吸の仕方が……並の旅人ではないと写る。しかも、かなりの熟練者よ」


 エリスは少し黙考した。この老婆なら、ある程度の真実を話しても大丈夫だという“感覚”が働いた。


「……ええ、少しばかり戦った経験はあります」

 

「ふむ……」


 マーガレットは満足そうにうなずくと突然、前置きもなく尋ねた。


「ならば、わしと一手番、戯れてみないか? 老いた魔術師の相手など退屈かもしれんがな」


 エリスは驚いたが、すぐに平静を装った。


「そんな……突然のことですし、お婆様に刃向かうような真似は……」

 

「心配するな。わしも昔取った杵柄、そう簡単には負けんさ」


 マーガレットはそう言うとゆっくりと立ち上がり、杖を構えた。その動きは老齢を感じさせない、驚くべき滑らかさだった。


 エリスは膝の上の黒猫を見た。


《付き合ってやれ。この老婆、ただ者ではない。お前が現在できることを試す良い機会だ》

 

「……わかりました。お手合わせお願いします」


 エリスはゆっくりと立ち上がった。武器はなく、完全な無手だ。


 二人は見合い、呼吸を整えていく。

 そして次の瞬間、急にマーガレットが動いた。


「では、いくぞ!」


 老婆の杖が、風を切るような速さでエリスの顔面へと迫る。それは魔術師というより、熟練の戦士のような動きだった。


 しかし、エリスは微動だにしないまま回避行動を取らなかった。その表情は余裕があるからか、柔らかに微笑んでいる。

 

「……なぜ、避けなかった?」

 

「お婆様は、私を傷つけるおつもりではなかったからです」


 エリスはその杖の軌道に敵意や殺気を感じ取らなかった。その感覚通り、杖は彼女の鼻先でぴたりと止まった。

 

 マーガレットの口元がわずかに緩む。


「ふっ……なるほど。では、これはどうだ!」


 今度は老婆の動きが明らかに変わる。彼女は杖を回転させながら低い姿勢へと入り、エリスの足元を掃うような動きを見せた。


 明らかな敵意を持つ攻撃に、エリスの瞳孔がわずかに開いた。


(この動き……!)


 エリスは掃うようにして来る杖の動きに合わせ、まるでそれに導かれるように軽く跳び、かわす。そして着地と同時に、自身の重心を低く落とし、掌を開いて相手の次の動きを受け流す準備を自然と取っていた。


「ほう……!」


 マーガレットは驚きの声を上げた。彼女は次の攻撃へと移行しようとしたが、エリスは既にその予定された軌道上から外れ、己の死角へと自然に歩み寄っていた。


「まさか……わしの技を、先読みしているのか?」

 

「いいえ、先読みしているのではありません。ただ……お婆様が次にどう動きたいのか、なんとなく“感じ取れて“しまうんです」


 マーガレットの片目が驚きで見開かれた。

 エリスのさらりといったその動きの理由が信じられなかったからだ。

 

「感じ取る……? まさか相手の思考を全て理解した上で回避行動をとっているとでもいうのか!? そんな技、現実に存在するとは思えぬが……」


 同時に、魔王はエリスの中に迸る感覚についてを分析していた。


《――“第六感”の異常発達、か》


 エリスは常人離れした“第六感”によって単に動きを見ているだけでなく、相手の筋肉の収縮、重心の移動、視線の先、そして何より――相手の“意図”そのものを、まるで自身のもののように感じ取っていたのだ。

 今もマーガレットの動きを予測するのではなく、意思を“共有”して次にどのような動きをしたいのか、どのように攻撃を組み立てようとしているのかを手に取るようにわかるのだ。

 

 それは“卓越した“なんて生ぬるい表現では済まされない。常軌を逸している感覚の持ち主であり、まさに“異常”そのものだった。


 魔王は武人として、エリスが類い稀なる才能を持っている事実に喜び、震えていた。

 その才能である“第六感”を駆使した戦闘能力。そして、同様に彼女の中に刻まれている勇者時代、一人で歩んできた戦いの記憶。

 その大きな財産を持つエリスの潜在能力は、きっと己の予想を遥かに超えた、計り知れないものであることは間違いなかったからだ。


《本人は現状、ただの村娘と同じと言っていたが……謙遜にも程がある》 

 

 そうほくそ笑んだ魔王は再び眼前の戦いに意識を移していった。

   

 マーガレットはさらに攻撃を仕掛ける。複雑に変化する杖術。虚実入り混じったフェイント。時折、ごくわずかな魔力の波動を絡めた幻惑。

 しかし、エリスにとってはそれら全てが透明に見えているかのようだった。

 彼女は相手の意図の流れを感受し、それに合わせて流れるように体を動かす。無駄な動きは一切ない。必要最小限の動作で、全ての攻撃を無力化していく。


 彼女は戦っているというより、共に舞っているようにさえ見えた。

 

 そしてついにマーガレットが大きく息を吐き、杖を下ろした。


「……まいったわ。わしの全ての技がお前には通じん」


 老婆は驚嘆と共にエリスを見つめた。


「お前、いったい何者だ? その能力は単なる戦士の域を超えている」

 

「私は……ただの旅人です」


 マーガレットはしばらく呆然としていたが、やがて深くため息をつくと、満面の笑みを浮かべた。


「ははは……! まったく、とんでもない娘に出会ったものよ! わしの全てを見透かされ、かつてないほどに完敗したわ!」


 老婆は暖炉の傍へ戻り、やかんからお湯を注いで一杯の茶をエリスに差し出した。


「これで、わしに敵意がないこともわかっただろう。さあ飲め。わしの負けだよ、エリスとやら」

 

「お婆様こそ、お手柔らかにしていただいてありがとうございました」


 エリスはほっとしたように微笑み、茶を受け取り、一口啜りながら懐かしそうに語っていく。

 

「昔から人の気持ちが、自分のことのようになんとなくわかってしまうところがあったんです」

 

「……成程。才能の芽生えは最近のことではない、と」


 マーガレットの返事にエリスは頷き、かつてあった出来事を話していく。

 

「ある人には『たった数回刃を交えただけで、技を盗むとは異常すぎる』と呆れられました。また、ある人には『俺の真似するんじゃねえ!』と気味悪がられました。真似しているつもりはなかったのですが……その時、私はどうやら、戦いの中で相手の動きや呼吸を感じ取ることで、その技術の“核”のようなものを短時間で理解できてしまうと確信したんです」


 エリスの言葉に思い当たることがあったのか、魔王は心中で彼女へと問う。

 

《……つまり、お前がかつて余と戦った時、時間が経つにつれ強くなっていたように感じたのも》

 

(ええ、あなたの戦い方も……激しい戦闘の中でしたが、少しずつ感じ取っていました。だから、最後にはある程度、お見通しになっていて。お陰で大胆な戦法を取ることができました)


 エリスはあっけらかんと言ったが、その言葉の意味は恐ろしいものだった。

 つまり、彼女は戦いの中で相手の技術を“共感”によって吸収し、自身のものとし、さらにそれを応用して相手に対応していく。

 

 戦闘をする度に、彼女は成長していく。

 それは、無限の強さを得ることができる証明でもあった。


《……ふん。まさかこんなところで、あの頂点での決闘の答え合わせをすることになるとはな》


 負けた立場であるが、当時の勇者が認識していたことを魔王は改めて驚嘆した。


 マーガレットは感心したように頷き、目を細める。


「お前の如き者には初めて出会ったよ。お前のその能力は、平和な時代にはもったいないほど貴重なものだ」

 

「畏れ多いです、お婆様」

 

「本気で言っているんだがね。……その強さ、大事にするんだよ」



◇ ◇ ◇

 

 その夜、エリスたちはマーガレットの厚意により、砦で温かい食事と安全な眠りを手に入れた。 


 そして寝床に就く直前、エリスはそっと自分の手のひらを見つめた。


(平和な時代にはもったいない、か)


 この力は、戦いのためだけにあるのではない。

 世界の様々な想いを理解するためのものでもあり、また、今こうして共に旅をする者と心を通わせるものでもある。

 

 それはかつて、エリスが“勇者“であった頃と変わらない力だ。


(この力のおかげで、魔王と出会えたのかな……もしそうなら……なんて)

  

 隣でぐっすりと眠る黒猫の安らかな気配を感受し、微笑みながらエリスは静かに目を閉じた。

 

 

***


 

 エリスが寝静まった後、ゆっくりと身体を起こした魔王はその寝顔を見ながら考えていた。

 

 元勇者であり、処刑という人間からの裏切りを経て、魔王の力によって生き長らえた普通の村娘。

 そんな異常すぎる背景を持つこの少女の可能性は想定以上に大きい。

 

《目的を探すために旅をする、など退屈になりそうだと思っていた矢先のことではあったが……》

 

 それ程退屈はしなさそうだ、と期待に胸を膨らませながら、今は静かな呼吸と共に胸を上下させている少女の顔を眺めている。


 純真無垢の安らかな寝顔をする少女が、勇者の力を失ってなお、かつて頂点を極めた魔王の力をも凌駕する潜在能力を持っている可能性が有り得るのだ。

 

《我ながら大袈裟ではあるが……実っていくのを楽しみにしているぞ、エリス》


 魔王はそう告げると、のそのそと少女の腹の上まで歩き、身体を丸めて瞳を閉じた。

 無性に落ち着くこの場所が、魔王の睡眠を促していった。


 

◇ ◇ ◇


 翌朝、迷惑をかけまいとマーガレットが寝ている隙に立ち去ろうとしたエリスだったが、その目論見は看破されてしまっていた。


「老い先短い者の厚意を無碍にするんじゃないよ」


 そう言われて言葉に詰まったエリスたちは仕方なしにその厚意を受け取り、朝食として並べられた金色に焼き上がったパンと温かな野菜スープ、そして木製のボウルに盛られた色とりどりの果物をゆっくりと一口ずつ味わい、至福の時を過ごした。


「こんな美味しい食事をしたのは久しぶりな気がします」

 

「遠慮なしにもっと食べるんだよ。旅に出るんだから補給は万全にしておくんだ」


 マーガレットは目を細めながらエリスの食事の様子を眺めている。

 何か思うことがあるのだろう。今にも涙がこぼれそうなくらい、感傷的な様子であることをエリスは感じ取っていた。




 そして食事が終わり、いよいよ旅立ちの時である。

 エリスは背伸びをしてまた長い距離を歩くための準備運動をし始めた。足元の魔王も毛繕いをしながら長旅への備えをしている。


「鍛治の街『アイロニア』に行くならあの山を越える必要がある。途中に小さな山村があるはずだから立ち寄るのがいい。気をつけていくんだよ」


 マーガレットはエリスに簡易的な地図を持たせながら、丘陵地帯を超えた後に続く山を指差した。その高さからして、山越えするにはおそらく数日かかるだろう。

 

「了解しました! お婆様、本当にありがとうございました!」

 

「いいんだ、いいんだ。わしもあんたに会えて嬉しかったよ……さあ行きな、『エリス』」


 抱擁をしながら互いに別れを惜しむ二人。

 そして離れたあと、エリスは大きく頭を下げ、気持ちのいい笑顔で手を振りながらゆっくりと歩いて行き、再び旅路を踏み締めていった。



 どんどん遠くなるエリスの背中を眺めながら、マーガレットは昨日の彼女との戦闘を思い出していた。

 あの動き、あの雰囲気、そして、あの闘志の強さ。

 ほんの短時間の中で身体に受け、刻まれたそれら一つ一つを振り返り、ある確信を得ていた。


「――そうか、『エリス』という名前だったんだね」

 

 その名前から導き出されるものは何もない。

 あの少女は普通の人間からすればただの旅人、その辺にいる普通の村娘としか認識できないだろう。

 そして、あの黒髪、あの真紅の目はかつての面影とはまるで違うものだ。


 だが、マーガレットは間違いなくその存在を理解し、確信していた。

 

 ――後悔しか残らなかった、当時のことを思い出す。

 

 見ていることしかできなかった自分の情けなさと、その結末に嘆き、就いていた職を投げ出して逃げ出すように隠居していたこの身だったのに。

 どんな理由であれ彼女が生きていて、まさかこのような形で再会できるとは。

 

 そして、マーガレットは強く祈った。

 

 あの時――“永劫回帰の儀”にて彼女の最期を悼んだ、一人の人間として。

 

「使命から解き放たれた穏やかな旅路にて、これから先も平穏無事でいてくだされ――『勇者様』」


 マーガレットは両の手を結び、祈りを捧げた。

 それは、かつて勇者に抱いた懺悔の念と、これから先の彼女たちの旅路への、心からの願いを込めた祈りであった。



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