勇者と魔王のいなくなった世界の“今”
夕食のため、エリスと魔王は適当に見つけた酒場に入ると、そこには埃っぽいが温かな人々の活気に満ちていた。
それぞれの席には数組の旅人や地元の農夫たちが談笑し、安酒と質素な食事の匂いが混ざり合っている。
エリスは注文した温かいスープと硬いパンを隅の席で少しずつ味わいながら、周囲の会話に耳を傾ける。他愛もない雑談から楽しい談笑を繰り広げる人たちの姿。
それは、平和な世の中の現状を映し出しているようだった。
戦いに明け暮れたあの頃とは違う、人々の和やかな雰囲気をこうして見ることができるのは、エリスにとって何よりも幸福なことであった。
しかし、そんなひと時も長くは続くない。
突然、酒場の入口が勢いよく開くと、よろめくようにして一人の男が入ってきた。
「た、助けてくれ……!」
肩で息をしながら助けを求める男の服は所々破れており、顔には疲労と恐怖の色が濃くにじんでいた。
男は崩れ落ちるようにして近くの椅子に座り、身体を震わせながらぐったりと肩で息をしている。
エリスはすぐに立ち上がり、自分の水筒を差し出した。
「どうぞ。お水です」
男は驚いたようにエリスを見上げ、しかし渇いた喉を潤すことを優先し、がぶがぶと水を飲んだ。
「ありがとう、嬢ちゃん。……魔物の群れに襲われて運んでた荷物を持っていきやがった。ほんと散々な一日だったよ」
「魔物が……? でも確か、魔王はもう……」
エリスは言いにくそうに魔王はすでにこの世にいないことを言葉にしようとする。自分が成したことなのに、あたかも他人事のように語るのは少々奇妙な違和感を覚えていた。
「そう、勇者様が魔王を討ち滅ぼしたのは周知されている通りだ。だけど、そのはずなのに魔物は今まで通り……いや、以前より明らかに凶暴になって人々を脅かしているんだ」
「東の村では家畜や農作物が食い荒らされたりしてるって騒がれている。中には大怪我を負った人もいるらしいぜ」
酒場の店主も男の話に割って入り、補足していく。
エリスは身体が固まったかのような錯覚を覚えた。
確かに魔王は自分が倒し、力を無くした存在として今ここに顕現している。
だからこそ、魔王がいない今魔物が出没するなんて思っていなかったのだ。
そんなエリスの感情をよそに、足元で遠い目をする黒猫はくだらない、とでも言うかのように机に尻尾を叩きつけている。
《知らなかったのか? 余の生き死に関係なく、魔物はこの世に存在し続けるということを》
(……どういうことです?)
エリスは心の声で小さく呼びかけると、魔王はゆっくりと明確に語り始めた。
《お前も知っての通り、余を始めとした魔族は人間どもの憎悪、嫉妬、恐怖といった“負の感情”を糧にして存在していた。一方、その感情が凝縮して形を持ったものや、その力に乗っ取られた存在でもある》
(……だから、あなたの存在がなくとも私達人間が生きている限り魔物は発生している、ということですか)
《ふん、流石は元勇者。察しがいいな。だがそれだけではない。余は世に満ちる“負の感情“を独占するように吸収していた。つまり余の存在は、魔物たちが無秩序に発生しすぎるのを抑止する防波堤の役割も果たしていた、ということだ》
魔王は冷徹な声で淡々と事実を話していく中、エリスは無言で聞き続けていく。
《さらに“負の感情”は、吸収すればするほど魔物の力を高め、凶暴化させることになる。……怒りを伴った人間が、一時的に爆発するような強さ得るのと同様に》
エリスはその言葉の意味を少しずつ咀嚼していく。
そして、ようやく理解したのは自分の成した事に対する疑問であった。
(つまり……あなたが死んだことで、魔物は今まで以上に発生するようになり、さらに凶暴になった、という事でしょうか?)
《結果的にはその通りだ。余という“負の感情“の独占する者が失われた今、世界中の至る所で魔物が凶暴化しているだろう。人間の発する“負の感情“により己の力に目覚め、欲望のままに振る舞う。それは自然の摂理に等しい》
エリスはそっとこぶしを握りしめた。自分が魔王を倒したことで人々があの時以上に魔物に襲われやすくなる事態を招いてしまったのだろうか、と。
その責任の重さに胸が苦しくなったのだ。
《勝手に罪悪感を抱くな》
魔王の声はエリスの考えを見透かしたように響いた。
《この結果は必然だった。魔王と勇者、どちらが勝者がいずれであれ、世界の均衡は一時的に乱れる運命にあった。お前が倒れたなら余の存在に引き寄せられた魔物たちがさらに増長し、より混沌とした形で人間を襲っていただろう。結果は違えど、何らかの混乱は起きていたのだ》
(……ですが、私が魔王を倒した意味って)
エリスの心の声はかすかに震えた。
魔王を倒したことで現状の魔物の跋扈がある。だからこそ、魔王を倒さなかったら、という疑問が生まれてしまう。
《意味がなかったとでも言うのか? とんでもない。お前の勝利は、人間たちに『希望』と『未来』を与えた。たとえ一時的な混乱が起きようとも、だ》
魔王の声は強い。
それは、己を討ち滅ぼした者への敬意が含まれているようにも感じた。
《魔王という絶対的な存在そのものがなくなったという事実は、何物にも代えがたい。人間はもう恐怖の頂点に立つ敵を意識する必要はない。確かに一時的には魔物の発生は増えるかもしれんが長い目で見れば、これは『治癒過程』に過ぎん》
(治癒過程、ですか?)
《世界には自己治癒能力のようなものがある。やがて、過剰に溢れ出した“負の感情“は収まり新たな秩序が生まれる。ただし――》
そこまで言ったのち、魔王の声がわずかに曇った。
《その過程でどれだけの犠牲が出るかは別問題だ。人間の強さと奮闘にかかっている》
人々はこれから先、長きに渡って戦わなければいけないのだ。
『勇者』という強大な力はもう、この世には存在しないのだから。
酒場の主人が、新しい客に話している声が聞こえる。
「なんにせよ、今やるべきことをやるしかないだろう。『鍛治の街』に連絡をとって武器の手配もしなくちゃいけないし、護衛が必要ならここに募集を貼り出しできる場所を確保する。――王都の対応を待ってたら日が暮れちまうからな」
「よし、護衛なら腕の立つ知り合いがいるしいっちょ声をかけてみるわ」
「私も手伝うよ。おいあんた、荷物は全部取られたわけじゃないんだろ? なら護衛してやるから明日またここに来な」
酒場の客たちの会話は、いつしか自分たちでできる自衛策へと移っていた。不安はあるが、そこには『魔王』という絶対的な恐怖はもう存在しない。
彼らは新しい問題に直面し、混乱しつつも前を向いて議論していた。
《エリス、これがお前が選んだ未来だ。混乱と困難はあるが、未来への可能性に満ちた世界を。彼らはもう、余の影に怯える必要はない。たとえ魔物と戦い続けることになろうとも、だ》
エリスは小さくうなずいた。
(これから大変でしょうけれど……これでよかった。そう思いたいです)
彼女は自分の手を見つめた。
この手で魔王を倒し、世界を変えた。そして新たな問題を生み出してしまった。
だが、それでも自分の選択は決して間違ってなどいないと信じている。
それは終わりではなく新たな始まりでしかないからだ。
《さて、お前はどうするつもりだ?》
魔王が問いかける。
《せっかくの新たな人生だ。のんびりと旅をして、良い田舎町があればそこを永住地としてのんびり暮らすのも悪くないだろう。それとも――》
魔王の問いかけを待つまでもなく、エリスの心の中には答えがあった。彼女は席に戻り、わずかながらの金銭で購入したパンを一口かじった。
その目は、静かな決意に輝いていた。
(……私は、これからも自分ができることを探します。私がこの世界で何ができるかを。勇者であったあの頃と同様、困っている人を一人でも多く助けながら)
彼女の心中の声は、揺るぎない信念に満ちていた。
(勇者という肩書はなくなりました。でも、困っている人を助けること――それは私の存在意義です。この身にできる限りのことをして、一人でも多くの人の力になりたい。たとえそれが、どんなに困難なことであっても、です)
《……ふん。お前らしいな》
魔王の声には呆れているような、しかしどこか期待に似た響きがあった。
《ならば覚悟はしっかりと持っておけ。お前のこれからの生は、決して平坦なものではあるまい。己の限界を突きつけられる局面にも、きっと直面するだろう》
「承知しています」
《だが、余の命はお前にかかっている。くれぐれも無茶だけはするなよ》
エリスは強く頷きながら深く目を瞑り、強く誓った。
この旅の意味を。
そしてこんな矮小な自分でも、為すべきがあることを。
◇ ◇ ◇
最後にエリスはコップの水を一口飲み、酒場をあとにした。
街灯と建物から漏れ出す光がポツポツと灯っているが、それでも暗闇が絶え間なく目の前に広がっている。
しかし、外の空気は冷たく感じたが、どこか清々しかった。
「とりあえず明朝になりましたら、先ほどの話で出てきた『鍛治の街』とやらに向かいます。それでいいですね?」
《ふん、好きにしろ。……先ほどの店の壁に地図が記載されていたが少し距離があるようだ。体力を万全にしておけ》
「ふふ、了解しました。そして、情報収集ありがとうございます」
《世の隅々にこれだけ情報が転がっているのだ。お前も今後のことを考えるなら――》
「はいはい、わかりました」
突然始まる肩の上の魔王の説教に、エリスは肩をすくめながら微笑む。
その態度に魔王は(本当にわかっているのかお前は)と心の中で呆れるが、その一方で先ほどの彼女の決意を思い返していた。
“困っている人を、一人でも多く助けたい“
世界を救ったにも関わらず酷い扱いを受け、そしてあの処刑という最悪の裏切りを受けた。
しかし、それらの扱いを受けてなお、この決断をしたこの少女は本当に理解不能なまでに自己犠牲的精神の塊だ。
きっと、その強さと純粋さこそが魔王という強大な存在の彼をして一度は敗北を喫させ、今こうして、誰よりも彼に興味を持たれている所以なのだろう。
(――まったく、どこまでも目の離せぬ娘だ)
ため息をつきながら呆れるように心の中で呟く魔王だが、悪い感情は決して見えることはない。
むしろ、その表情は誇らしげであるかのように、満足げに目を細めているようであった。




