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猫決闘


 川沿いの道を数時間ゆっくりと歩き続け、エリスと魔王はようやく小さな街の入口に辿り着いた。街の名は「ハーツウッド」。木材や石材の産地として知られる、堅実で落ち着いた雰囲気の街だった。人々の服装も質素だがきちんとしていて、街全体がきれいに保たれている印象を受ける。


 エリスの足は棒のようになり、喉はカラカラだった。購入した水筒の水も底をつきかけている。


「ようやく……着きましたね」


 彼女は街の標識の前で少し休憩すると、肩の上の黒猫に話しかけた。


「まずは水の補給と……できれば今夜の宿を探さないと」

 

《ふむ。どうやらそれなりの規模の街のようだな。余の感覚もここまで来るとほとんど役に立たん》


 魔王の声は少し疲れているようにも聞こえた。猫の姿で活動すること自体、今の彼にとって負担だったのだ。


◇ ◇ ◇

 

 街に入り、まずは広場にある井戸で水筒に水を汲ませてもらう。冷たく清らかな水は、エリスの身体の芯までを潤した。

 次に、街の様子をうかがいながら安宿を探す。幸い広場から少し入った路地裏に、質素だが清潔そうな宿を見つけることができた。


 一晩泊まるのに銅貨五枚。エリスは財布の中の残り少ない銀貨一枚を見つめ、少し頭を悩ませた。


《……収入を得る手段を早急に考えねばな》


 魔王が呟く。エリスはうなずき、とりあえず一晩分の代金を支払った。

 部屋は小さいがベッドと机、そして窓がある。エリスは荷物を置くと、すぐにベッドに倒れ込んだ。疲労が一気に押し寄せてくる。


《少し休むがよい。日が傾くまでには起きろ》


 魔王はエリスの枕元で囁くように告げると、そう言って窓辺に跳び移り、前脚で器用に窓を開け、外を眺め始めた。

 そこから響くのは街の往来や遠くで遊ぶ子供たちの声が聞こえてくる。安心する日常の音である。

 

 それを背景に、エリスはすぐに深い眠りに落ちた。


◇ ◇ ◇


 エリスはしばらくして目を覚ますと、部屋の中はオレンジ色の夕焼けの光で満たされていた。彼女はゆっくりと伸びをし、ふと周囲を見やった。

 数時間前まで共にしていたはずの黒猫の姿がない。


(魔王……?)


 心中で呼びかけてみるが、返事はない。少し不安になったエリスはベッドから起き上がり、窓の外を見下ろした。


 そして、そこで奇妙な光景を目にした。


 宿の裏庭ともいうべき小さな空き地で、数匹の猫たちが集まっている。三毛猫、茶トラ、サビ猫……そして、真ん中に気高く座る一匹の漆黒の猫――魔王の姿があった。


「わあ……猫さんたちが集まってる。魔王もあそこで一緒にお昼寝してたのでしょうか?」


 エリスは思わず微笑み、ちょっと見に行こうと部屋を出て裏庭へと向かった。



 

 エリスは物陰に身を隠し、猫たちの集会をこっそりと観察すると、魔王は他の猫たちとともに日光浴を楽しんでいるようで、その姿はどこか満足気に見えた。


(よかった…… 魔王も、のんびりできてるみたい)


 エリスはほっと胸を撫で下ろした。


 しかし、その平和は長くは続かなかった。

 一匹のずんぐりとした体格の三毛猫が、新参者の魔王にゆっくりと近づいてきたのである。


《……よくもそんなに偉そうな態度がとれるものだ》


 エリスの心中に魔王の苛立った声が響く。どうやら三毛猫が何か言ったらしい。


《余がどこから来ようとお前の知ったことではない。ただここでひとときの休息を取らせてもらっているだけだ。それすら許せんのか?》


 三毛猫は「シャーッ!」と鋭い声を上げ、さらに詰め寄る。


《何? “でかい態度をとるな”だと? ふん……余の態度は常にこれだ》


 三毛猫はなおも怯まず魔王に対し威嚇をし続けている。


《無礼だぞ、小僧!》


  魔王は唸った。偉大なる魔王に対して、たかが野良猫が刃向かうとは。そう負けじと威嚇し返す。二匹の猫の間で低いうなり声が交わされた。


《下がれ! 余はお前のような小僧と争うつもりはない!》


 魔王が叫んでも三毛猫にはもちろん通じない。むしろ魔王の態度がさらに相手を刺激した。


 そして、次の瞬間――二匹はほとんど同時に飛びかかった。


「にゃおおおん!」 「ぎゃおおお!」


 思わずエリスは声を上げそうになったが、すぐに口を押さえた。

 本来の猫同士の喧嘩なら数回のパンチやキックで決着がつくことが多い。

 しかし、相手は魔王だ。


《ほう、なかなかやるではないか! しかし、その動きは読めている!》


  魔王の心中の声には、少しだけ武人としての楽しげな響きが混じっている。三毛猫も負けていない。街一番の強さを誇るだけあって、動きは獰猛で力強い。

 二匹は猫パンチと猫キックの応酬を繰り広げ、毛やほこりが舞い上がる。


 魔王の動きは、猫としては驚くほど優雅で無駄がなかった。三毛猫の突進を最小限の動きでかわし、反撃にパンチのような前足の一撃を放つ。それはまるで、小さな拳法の達人のようだった。


 他の猫たちは興味津々でそれを見守っている。エリスはその光景がなんとも滑稽で、必死に笑いをこらえていた。

 世界の命運をかけて戦った魔王が、街の猫と互角に渡り合っているのである。


《愚か者め! 余に挑むとは百年早いわ!》


 魔王は叫びながら、猫ながらも驚くべき敏捷さで相手の攻撃をかわす。

 しかし、相手の三毛猫もなかなかの強者だ。土地柄なのか戦い慣れしているのか、魔王の攻撃を巧みにかわしつつ、鋭い爪で反撃してくる。


 エリスは最初微笑ましそうに見ていたが、次第に表情が曇っていった。


「あらまあ……本気で喧嘩してる……」


 二匹の猫は文字通り毛玉のような状態で、路面を転がり回り、毛を逆立て、派手な鳴き声を上げながら戦いを続ける。

 他の猫たちは興味津々で囲み、応援しているのかただ野次っているのかわからない声を上げている。


(くっ! この小僧、なかなか手ごわい……!)


 魔王は内心で焦り始めていた。本来の力が使えない今、猫としての実力だけで勝負しなければならない。

 しかし、相手はかなりの強敵だ。何度も組み合い、転がり、離れてはまた飛びかかる――しかし、決定的な決着はつかない。


「もう、もう! やめなさい、二人とも!」


 エリスが、喧嘩している二匹に駆け寄った。

 しかし、熱中している二匹の猫はエリスの声などまったく気にしない。むしろより激しくじゃれ合い――いや、本当の喧嘩を続ける。


《止めるな! エリス! 余がたかが猫に負けるわけにはいかん!》


  魔王は必死だった。彼の威信がかかっているのだから当然だった。

 しかし、ついにエリスは行動に出た。彼女はすっと二人の間に割って入り、両手で同時に二匹の猫をつかみ上げたのだ。


「もう、いい加減にしなさい!」


 その口調はまるで、子供の喧嘩を仲裁するお母さんのようだった。


「にゃお!?」「ぎゃっ!?」


 二匹の猫は突然空中に浮かび、驚いて鳴き声を上げた。

 しかし、まだ戦う気満々で空中でもお互いを蹴飛ばそうとする。


「もう、ほんとに喧嘩はおしまいですよ」


 エリスはため息をつくと、二匹の猫を離れないようにぎゅっと抱きしめた。


《な、なにをするエリス! 離せ! 決着をつけさせろ!》


 魔王は抗議したがエリスの腕は強く、簡単には離れられない。


「はいはい、お互い反省しなくちゃですよー」


 エリスはまったく動じず、むしろ楽しそうな口調で言った。


「二人とも悪い子ですね。仲良くしなきゃダメですよ」

 

《ふ、ふざけるな! 余がたかが野良猫と同等扱いとは!》


  魔王は必死にもがいたが、エリスの抱擁は強固だ。


 そして、この状況に魔王はあることに気づいてしまった。エリスに抱きしめられ、まるで叱られる子供のように扱われている自分が――そして、それに対してほとんど無力な自分が。


(こ、これは……)


 魔王の心中に激しい恥辱感が湧き上がった。偉大なる魔王が普通の猫との喧嘩を止められ、しかも人間の少女に嗜められるなど――


「もう、魔王もですよ? そんなに偉そうなこと言って、猫の子と本気で喧嘩するなんて、みっともないです」


 エリスは首根っこを掴み、魔王を目の高さまで持ち上げて少し叱るような口調で言った。


《…………ふん》


 魔王は言い訳もできず、ただ恥ずかしさで顔を背けた(猫の顔でどれだけ表情がわかるかは別として)。

 一方の三毛猫はというと、エリスに抱きしめられてなぜか満足そうにのどを鳴らし始めていた。どうやらエリスのことが気に入ったらしい。


「ほら、こっちの子はもう仲直りする気ですよ? 魔王も、ごめんなさいは?」


 エリスは魔王を三毛猫に近づけた。


《な、なにをする! 離せ! そんなこと――》


 魔王の抗議も虚しく、エリスは無理やり二匹の猫を近づけさせ、『仲直りのキス』をさせようとした。

 その瞬間、魔王の羞恥心は頂点に達した。


《わ、わかった! わかったから離せ! 余は……余はもう喧嘩はしない!》


 エリスは満足そうに微笑んだ。


「そうでしょう? いい子ですね」


 そう言ってエリスはようやく二匹を地面に下ろした。三毛猫はエリスにすり寄り満足そうに「にゃあ」と鳴くと、そのまま去って行った。

 他の猫たちもショーが終わったようにそれぞれ散っていく。


 魔王は地面に座り込み、しょんぼりとうつむいていた。これまでの人生(魔生?)で、これほど恥ずかしい思いをしたことはなかったのだ。


《……余は……なんという無様な……》


 魔王の心中は自己嫌悪でいっぱいだったが、エリスはしゃがみ込み、そっとその頭を撫でた。


「でも、魔王も頑張ってましたよ? あの子、すごく強いみたいでしたから」

 

《……ふん。あんな小僧、本来なら一瞬で……》

 

「それに魔王があの猫たちと……普通に仲良くして、喧嘩をしている姿を見て、なんだかほっとしました」

 

《……?》

 

「だって、魔王はいつもすごく偉大で、遠い存在のように感じていましたから。でも今日の魔王は……とっても等身大で、近くに感じました。それに、ああして街の猫と関わっているということは、少しずつでもこの世界に馴染もうとしているのかな、って」


 エリスはそっと魔王を撫でる。


「だから、ちょっと嬉しかったんです。ごめんなさい、変な言い方で」


 エリスはにっこり笑うと魔王を抱き上げ、肩に乗せた。


「さあ、そろそろお夕飯にしましょう。どこかいいお店はあるかな……」


 魔王はエリスの肩の上で複雑な思いでいた。

 一方では恥ずかしさでいっぱいだったが、他方ではエリスに守られ、叱られ、そして褒められるという経験がなぜか悪くないようにも感じられた。


《……これもまた新たな経験というものか。たかが猫との喧嘩で、これほどの学びがあるとはな》


 ただ強さを求めてた頃には、覚えのない感覚だった。

 黒猫という、ちっぽけな存在になったからこそ得られた経験。

 ただ、守られ、叱られ、そして慰められる。

 そんな経験自体、したことがないから悪くないように感じたのか、それとも相手がこの少女だったからこそ、そう思えたのか。


 今の魔王にはまだ分からなかった。


◇ ◇ ◇

 

 夕日が二人の後ろ姿を長く伸ばす。

 エリスは楽しげに鼻歌を歌い、肩の上の魔王は少し照れくさそうにしている。


「ねえ魔王。猫の友達、もっと作ってみたらいかがですか? 楽しいですよ」

 

《……やめておく。余の威信が……いや、何でもない》


 即答した魔王にエリスはクスッと笑った。


「そうですか。でも、また喧嘩するときは私が止めに行きますからね」

 

《……願い下げだ》


 魔王はゲンナリするように呟いたが、エリスのその言葉に何故かほっとしてしまった。

 きっと、その行動を無意識に待ち望んでいる己がいたからだろう。


 勿論、魔王自身、その気持ちをまだ自覚する由もない。

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