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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

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朱の記憶

朱の記憶

作者: ユナ

明治、大正あたり

娼館の話なのでR15表現あります。お気をつけください。




 強く降る雨の音。部屋を踏み荒らされる音。物が壊れる音。

 父様の怒声。母様の叫び声。

 むせ返るほどに充満した血の臭い。


 僅かに開いた細い隙間、そこから見えるそれはこの世のものとは思えない地獄。

 床一面に広がる、赤。赤。赤――。




――しゃらん。しゃらん。

 ほのかな橙だけが灯された暗い部屋の中、かんざしが鳴る。

 揺れ、ぶつかり合い、男の動きに合わせ、最初はゆっくり。徐々に高く、大きく。

 私の身体も、与えられる衝撃のまま揺さぶられる。


 最中に解かれた髪が視界を塞ぐ。

 汗ばんだ頬に、首筋に、背中に纏わりつく。それも、熱くなっている身体も、不快でしょうがなかった。身体中を駆け巡る感覚の波を逃そうと、唇を強く噛み締める。


「……つ、ばき……」


 切羽詰まった声が耳元に落とされ、腰を掴む両手の力が一段強くなった。

 いつもこの男は、最後の瞬間、私の名を呼ぶ。掠れた耳障りな声で、まるで慈しむように。

 椿――かりそめの名を。


 次に来る感覚に備え、ぎゅっと目を瞑る。強く噛み締めた唇の隙間から、甲高い声が漏れた。

 簪が一度大きく鳴り、背筋がぞわりと粟立つ。屈辱が全身を駆け巡る。

 この男は、何度も何度も、私に屈辱を味あわせる。私の辛うじて残っていた自尊心は、この男によって、跡形もなく粉々に砕かれてしまっていた。



「椿、おいで」


 男は横たわったかと思えば、言い終わる前に私を自分へと抱き寄せた。大柄な男よりも一回り小さい私の身体は、男の腕の中にすっぽり収まった。背後から抱きすくめるこの体勢を、男はひどく好んでいた。


「……椿、おまえは本当に可愛いな」


 髪を払いのけられ露になった首筋に、湿った唇が当てられる。生温い呼気に、身体が反射的にぶるりと震える。

――ああ、気持ち悪い。

 最中よりも、この時間が一番嫌いだ。この世で一番憎い男に、愛を囁かれるこの時間が。

 髪をさも愛おしそうに撫でられ、おぞましさにきつく目をつぶる。


「……進藤様だけです。そう言ってくださるのは」

「ハ、嘘をつけ。大和屋の狸親父もおまえに入れ込んでいると女将から聞いたぞ」

「そんなこと……」


 男に顎を掴まれた。顔を男へと無理やり向かせられ、近付いてきた男の唇が、私のそれに触れた。

 一度目、二度目は、軽く合わせるだけ。三度目は食らいつくみたいに強く。

 隙間から強引に割り入ってきた舌が、口内を蠢く。奥へ引っ込めた舌を絡め取られ、吸い上げられる。

 頭と身体を抑え込まれ、いつまでも続くその貪るような執拗な行為に、まるで身体全部を丸飲みにされてしまうような錯覚に陥った。

 

「……早く自分だけのものにしてしまいたい」


 ようやく解放されたと思えば、男はそんなことを呟く。


「約束、覚えてるよな?」

「……約束?」

「前言っただろう。おまえを身請けすると」


 確かに言われた記憶はあった。この男が初めてここに来た日に言われたはずだ。

 ただの睦言むつごとかと思っていたが、どうやら本気だったらしい。戦争成金で最近浮き出てきたようなこの男に、そんな大金を用意出来るとは思えないけれど。

 ここ桔梗館は、ここら一帯で一二を争う高級娼館だ。十になった頃からここにいるが、実際に客を取るようになってからはまだ日も浅い。たぶん女将は相当な額を吹っ掛けるはずだ。


「今やっているやつが上手くいけば、大金が入ってくる」

「そうなんですか」

「ああ。また今度戦争が始まるからな。その時に……て、なんだよ? おまえは嬉しくないのかよ?」

「そんなこと……」

「そんなこと、なんだよ?」


 じゃれるみたいに腰へと回ってきた手を取り、自分の身体から離す。その意図に気付かれないよう、取った手に額を寄せた。


「そんなことないです。……嬉しいです。そんな風に思って下さって」


 その答えに満足したのか、男は私の髪へと顔を埋めた。


 私は、この男が憎い。憎くて憎くて堪らない。

 だけど、この男に今はまだそれに気付かれるわけにはいかない。まだ逃がしはしない。


「……進藤様、楽しみにしてますね」



 半刻ほどぽつぽつ世間話をしながら私の髪を撫でていた男は、体を起こした。倣うように自分も起き上がり、脱ぎ捨てられた男の服を手に取る。

 向けられた背中、不恰好な傷があった。背中の腰に近い部分に斜めに入り、がた、と一回歪んだあかあと


 私は男の背中にそっと手を添え、その朱に唇を寄せた。いびつな形に合わせ優しくなぞる。


「……おまえは本当に変わってるな。そんな気持ち悪いもの」


 男は吐き捨てるように言う。

 この男にとって、これは不名誉の証だ。


――もう大分前だけどな。年端もいかないガキにつけられた。……油断していた。


 この傷について初めて聞いた時、男はそう言った。

 手入れの出来ていない刃物で切られたせいで、化膿してしまい痕が汚く残ってしまったらしい。


「……だけど、綺麗だわ」


 指でそっとなぞり心から言うと、男は鼻で嗤った。


 ただれた朱。愛しい朱。

 人権も尊厳も何もない私の、唯一の希望。


 もう一度唇を寄せようとしたけれど、男の催促の空気を感じ、名残惜しくもそれに布を被せた。


「何か欲しいものはないか?」


 乱れていた髪を後ろへ撫で付け、質のいい上着をきっちりと着込んだ男は、部屋を出ていく寸前に振り返り言った。それに、ゆるゆると首を振る。

 男は帰り際、いつもそう聞く。私はいつも、それを首だけで否定する。

 私の欲しいものは、ひとつだけ。あの時からたったひとつだけだ。

 それは、金なんかで買えるものではない。


「……そうか。じゃあ、また来る」


 男が出ていき、自分も襦袢を纏う。立ち上がった時、机の上の小瓶が目に入った。凝った装飾が施されたその中には、金平糖が入っていた。

 薄く色付いたそれらは、橙の照明できらきらと光る。


 何もいらないと言っているのに、進藤はいつも何かを持ってくる。今日みたいに菓子だったり、花だったり、装飾品だったり。

 そして、こうやって何も言わずに置いて帰るのだ。誰も頼んでもいないのに、自己満足のそれに嫌悪しか湧いてこない。

 蓋を開けることなく、隅のちり箱へとそれを投げ捨てた。



 両親を物盗りに殺され、一人娘だった私がここに売られたのは十になった頃。

 長く続く呉服屋を営み裕福だと思っていた家は、実情は火の車で、方々《ほうぼう》に借金があったらしい。その上、借金の足しになりそうな目ぼしいものはその物盗りに盗られており、気付いた時には、ここの門をくぐらされていた。

 数人いた男たちは、誰一人捕まらなかった。


 下働きから始まり、朝早くから夜遅くまで働かされた。休みは与えられず、両親を思い出して泣く時間さえくれなかった。悲観にくれて仕事を疎かにしようものなら、折檻された。


 客を取るようになっても、それは変わらなかった。

 朝から晩まで、ただ足を開く毎日。嫌な客でも良い客でも、等しく足を開き身体を晒した。

 こんなところに来るのだから、当然嫌な客は多い。その中で、私たちを気遣い労ってくれる良い客も優しい客もいたけれど、でも、乱暴だろうが優しかろうが、そんなことはどうでも良かった。

 両親を目の前で殺され、娼館に売られ、これ以上の不幸なんてあるはずがなかった。


 何もかもどうでも良かった。痛いのも、苦しいのも、どうでも良かった。

 ただ早く時が過ぎ去ることを願っていた。

 ただ早く死にたいと思っていた。



 進藤に会ったのは、客を取るようになってから二年ほど経ったある日だった。

 ふらりと現れ、どこかで見掛けたのか薦められたのか、私を呼んだ。

 進藤は、とても整った顔をしていた。彫りの深い顔立ちに高い鼻梁。背丈はまるで異国人のように高く、粗暴にも品があるようにも見える、不思議な雰囲気を纏っていた。

 歳も二十後半くらいで、女には不自由してなさそうな進藤が、娼館こんなところに来たことを不思議に思った。


 貿易関係の商売をしていると告げた進藤は、商売人らしからぬ口数少ない無口な男で、あまり喋らず料理に手を付けず私にも触らず、淡々と酒を飲んでいた。

 情事を急かすわけでもなく、本当にただ酒を飲むだけの進藤を変な男だと思った。


 そんな進藤に、この部屋に付かされた運のない新人はおろおろしていたけど、自分の評判もこの男がまた来ようがもう来なかろうがもどうでも良かった私は、進藤と同じようにあまり口を開かず、ただ進藤の隣に座っていた。


 だから、最初はわからなかった。気付かなかった。

 気付いたのは、緊張のあまりか新人が進藤に酒を掛けてしまった時。

 進藤が一瞬見せた鋭い顔が、遠い昔、数人いた物盗りのうちの一人の背中へ包丁を突き立てた私に、その男が見せたものと同じだった。


 あり得ないと思った。

 あの男が幼い私へ見せた顔はあまりに恐ろしく、忘れたくても忘れられないほど脳裏に焼き付いていたけれど、それでも、何年も前のことで、私自身幼く、恐怖で混乱していた当時の記憶など当てにならないと思った。


 情事に気乗りしていなさそうな進藤を、私から急かした。震える手で、進藤の服を脱がせた。

 あって欲しかったのか、あって欲しくなかったのかはわからない。

 ただ、広い背中にはあの朱い印があった。



「……さん、椿さん」


 その声に物思いからふと我に返ると、髪結師の喜助きすけがおずおずと私の名前を呼んでいた。

 目の前の鏡には、化粧けのない青白い顔で寝巻き姿のくせに、髪だけは立派に結い上げられた不格好な私が映っている。


「出来ました。……どうでしょうか?」

「ありがとう。やっぱり喜助は上手ね」


 鏡越しに微笑めば、喜助は幼さの残る顔立ちの頬を赤らめ、視線を伏せた。


「いえ、そんなこと……ないです」

「あら、そんなことあるわよ。ここに来ている髪結いの中で、喜助が一番上手よ。みんな言ってるもの」

「つ、椿さん……。またそんなこと言って……。や、止めてください……」


 喜助の顔はますます赤くなり、わたわたと片付けを始める。


 喜助がここへ来るようになり、三年くらい経つ。まだ二十歳に満たない喜助は、一人立ちしたばかりだと言うが、他の者よりもいい腕をしており人気が高い。

 もちろん腕だけでなく、その可愛い顔と心根の優しいところも人気の理由なのだろうけど。


「……あ、あの、椿さん」


 垂れたおくれ毛を指で弄んでいると、喜助が私を呼んだ。指を止めた私に、喜助は少し顔を近付ける。


「なに?」

「あの、これを……」


 部屋には私と喜助二人しかいないのに、喜助はまるで人目を憚るように小声で言い、袖からそっと白い包みを差し出す。


「……信用の出来る医者から譲ってもらいました。椿さん、ずっと眠れないと言っていましたよね。これ一つで、一晩はぐっすり眠れると言っていたので、良かったら……」


 おずおずと差し出されたその包みを取り、顔の高さへと上げる。薄い包みの中、さらりと白い粉が動く。


「一つだけ?」

「えっ、あ、えっと、……その、そういう薬は……その……」


 喜助は気まずそうに視線を泳がせ、口をもごもと動かす。

 そらそうだ。喜助からしたら、自分が渡した薬を大量に飲んで私に死なれでもしたら、堪らないだろう。

 もし下手して渡したのが自分だと発覚すれば、どんな扱いを受けるか想像に難くない。

 それに、喜助のことだから、一つ持ってくるのでも、相当葛藤したに違いない。


 一月ほど前から、「眠れない」と喜助に相談していた。喜助なら、きっと用意してくれると思っていた。本当は自分で用意したかったけれど、私は自分の意思でここを出ることを許されていない。


「ごめんなさい。嘘よ、嬉しいわ。ありがとう。やっぱり喜助は優しいわね。……あなただけよ、私にこうしてくれるのは」


 手をぎゅっと握り目を見て伝えれば、喜助はまた顔を赤くさせる。こんなところに仕事とはいえ長年通っているくせに、相変わらず純な性格だ。だからこそ、私はわざとこうするのだけれど。


「じゃ、じゃあ、僕はこれで……」

「あ、喜助。ちょっと待って」


 ふと思い立ち、部屋を出ていこうとしていた喜助を呼び止めた。立ち上がり、化粧台の引き出しの奥を探る。


「ねぇ、簪、こっちに変えてくれないかしら?」


 引き出しから出した簪を、喜助に差し出す。


「立派な簪ですね。これは……なんの花ですかね?」


 喜助は簪を陽の光にかざす。

 白い大ぶりの花飾りが揺れ、垂れ下がった七筋の鎖が、しゃらしゃらと音を鳴らす。


「さあ?」

「なんの花だろう。椿……ではなさそうですしね。いや、でも、本当に綺麗な簪ですね。お客さんにもらったんですか?」

「……ええ。そんなところ」


 この簪は進藤が二度目に来た時、私へと贈ってきたものだ。進藤が帰った後ちり箱に捨てたはずが、掃除に来た下働きの新人がご丁寧に化粧台の上へと戻していた。

 それが置いてあることに気付いた時、部屋に客がいたから、とりあえず引き出しに押し込んで、そのまま残したままだった。


 鏡の前に私をもう一度座らせると、喜助は既に差してあった簪を丁寧に抜き、それに差し替える。鎖同士がぶつかり合い、またしゃらりと音が鳴った。

 緩く結い上げられた髪に、一輪の白い花が咲く。鏡越しに私を見た喜助は、ため息を漏らした。


「椿さん……とてもお似合いです。椿さんの黒髪に、その白が映えますね」

「そうかしら」

「ええ。これを贈った方は、椿さんが似合うものをよくわかってらっしゃる」

「……さあ? どうかしらね」


 感心したように言う喜助から、鏡に映る自分の顔から、視線を反らした。



 その日、夕方から雨が降り始めた。

 夜が更けた今も、しとしとと降り続いている。


「進藤様、いらっしゃいませ」

「ああ」


 傘を差さずに来たのか、部屋に入ってきた進藤の肩は濡れていた。


「傘お持ちでなかったのですね」

「差すほどじゃなかったからな」


 上着を受け取り、進藤に座るよう促す。濡れた箇所を軽く手拭いで拭う。

 上着を掛けたあと、新しい手拭いで今度は進藤の髪を拭おうとしたら、その手を進藤が取った。


「自分でやる」

「そうですか」


 促されるまま手拭いを渡し、運ばれてきていた酒へ手を伸ばす。酒を猪口へと注ぎ、新藤へ手渡した。


「今日は冷えますね」

「ああ」

「熱い方がいいかしら?」

「いや、別にいい」


 進藤はそう言い、一口で飲み干す。徳利へと手を伸ばしながら、袖に隠している白い包みを布越しに確認する。

――いつ入れようか。少しでも酔ってからの方がいいだろうか。

 進藤は酒に強く、酔ったところを今まで見たことがなかった。敏感なたちだし、下手な動きをすれば気付かれてしまうかもしれない。


「椿、おまえも飲めよ」

「ええ。いただきます」


 進藤に酒をがれ、 あまり強くないのを自覚しているから、舐める程度に口を付ける。

 視線を移した窓の外は、闇が広がっている。分厚い雲がかかり、月も星も見えない。


「……雨、もうすぐ止むかしら」

「来る時もう止みそうだったけどな。……そういえば、雪が降るかもしれないと言っていたな」

「そうですか。寒いですものね」


 今日は朝から冷え込んでいて、いつ雨が雪に変わってもおかしくない。

 二月に入り、毎日寒い日が続いていた。

 進藤が初めてここに来たのも、冬だった。

 もう一年になる。私は何度、この男に組み敷かれたのだろう。


「……似合うな」


 今も尚、ぱらぱらと降り続ける雨を見ていると、進藤がぼそりと言った。


「え?」

「それ」


 進藤が私の髪へと手を伸ばした。

 簪に指が当たり、しゃらりと揺れる。


「ありがとうございます。髪結いにも言われましたわ」

「そうか」

「ええ。進藤様の目利きを誉めてましたわ。よくわかってらっしゃるって。ああ、そういえば、これって何の花ですか?」

「知らん。……白だったからそれにした」

「そうですか」

「ああ」


 進藤はそれだけ言って、また黙り込む。進藤は相変わらず言葉少なで、部屋に沈黙が降りる。

 この雨で客足が遠のいているからか、いつもなら嫌でも聞こえてくる他の部屋からの騒ぎ声も聞こえない。静かな部屋の中、進藤の箸使いの音が妙に響く。


……心臓の音、聞こえないだろうか。

 さっきから心臓が早鐘を打っていた。頭に反響しているように大きく聞こえる。進藤にまで聞こえてしまいそうで、慌てて口を開いた。


「ああ、そういえば、この前行くって言ってた英吉利イギリスなんですけど、どうでした? やっぱり……」

「……椿、今日はよく喋るな?」


 進藤のその問いかけに、どきりと胸が跳ねた。

 確かにおかしかったかもしれない。私は進藤といる時、ほとんど喋らない。他の客の時もあまり喋らないけど、おしゃべりを求めない進藤の時は特に。

 いつも通りにしないといけないのに。下唇を噛む。


「……そうかしら?」

「ああ」

「そんなことないと思いますけど」

「いや、あるだろ。なんか、良いことでもあったか?」


 また心臓が大きく動いた。

 私に向けられた進藤の目が、妙に優しげだったから。

 進藤から視線を反らし、胸元を握り締める。

 どうして、心臓がうるさくなるの。


「……いえ、別に何もないですわ」


 これ以上追及されないよう、笑みを浮かべてみせる。私は、うまく笑えているのだろうか。


「……そうか。まぁ、おまえはいつも難しそうな顔ばかりしてるからな。……いつもそうやって笑っとけ」


 進藤の手が、私の頭へとのせられる。

 それは、ふわりと一度だけ撫で離れていった。


 その後、進藤は私が先ほど問い掛けた英吉利について話し始めた。内容は頭には入らなかった。

 何も出来ないまま一刻ほど過ぎた頃、進藤が言った。


「椿、この前言っていた身請けのことだが」


 進藤の言葉に、猪口を傾けていた動きが止まる。


「女将に話をつけた。まだ金は払ってないが、今月中には払う。何もなければ来月にはここを出ることになると思うが、おまえも色々準備があるだろう。もしもっと遅い方が良ければ、女将に話しておいてくれ。出る時期は、おまえに任せる」


 指が震える。酒をこぼしてしまいそうになり、猪口を机に置く。置いた拍子に表面が波打ち、指を濡らした。


 進藤に身請けされる。

 本当に、進藤のものにされる。進藤だけのものに。

 私は一生、この男に抱かれるのか。両親の仇のこの男に。


「……聞いているのか?」


 黙ったままの私に、進藤が訝しげな視線を送ってきた。


「……ええ、聞いてます」


――やっぱり、今日しかない。


「進藤様、ありがとうございます。私はいつでも大丈夫です。……特に、準備なんてありませんから」



 この日の進藤は、いつも以上に執拗だった。

 執拗に全身を撫で、足の指まで舌を這わせた。何度も私の名を呼び、何度も好きだと言った。

 私は幾度となく意識を手放しそうになった。

 皮肉なことに、私の身体は、他の誰でもなく進藤から与えられる快楽に従順だった。

 進藤に触れられることをおぞましいと思いながら、同時に、もっともっとと嬌声を上げさせた。


 こんな身体、朽ち果ててしまえばいい。何度、そう願っただろう。この男に、自分自身のこの身体に、心をどれだけ打ち砕かれたことだろう。

 だけれど、そう願うのは、砕かれるのは、今日で最後だ。



 規則的に髪を撫でていた指が、不意に止まった。その指は、しとねへと滑り落ちる。


「……進藤様?」


 進藤の腕の中で身体を回転させ、向かい合う。

 進藤は目をつぶっていた。薄く開いた口から漏れる呼吸は緩やかで、規則的だ。


「進藤様、寝てしまったの?」


 進藤の肩を揺する。最初は弱く、今度は強めに。


「ねぇ、進藤様」


 どんなに揺すっても、進藤はぴくりとも動かない。

 進藤は今まで私の前で眠ったことがない。どんなに遅くなろうと、ここに泊まることはなかった。

 目を盗み酒へと入れた薬は、ちゃんと効いたようだった。


「……進藤様、そのまま眠っていらしてね」


 進藤の腕の中から、そっと抜け出した。


 衣装箱を取り出し、蓋を開けた。奥に隠していたナイフを指で探り当てる。

 前に懇意にしてくれていた年若い軍人に、戦争へ行くと別れを告げられた時、おねだりしてもらったものだ。


 進藤の枕元に、膝をついた。

 進藤はさっきと同じ体勢のまま、ぐっすりと寝入っている。進藤の肩を軽く押し、仰向けへと変えた。


 これで終わる。全てが終わる。

 これを、この男の胸に突き立てれば。


 ナイフを両手に持ち、自分の頭より高く振り上げた。

 呼吸が上手く出来ず、浅い息を繰り返す。手が震え、汗で滑り落ちそうになるナイフを、ぎゅっと握り直す。


「――進藤様、さようなら」


 目をつぶり、男の胸へとナイフを一息に振り下ろした。


「……は、ぁ……っ」


 ナイフを突き立てた左胸から、小さな血の玉がぷくりと浮いた。

 私が振り下ろしたそれは、寸前で勢いを落とし、刃先がほんの少しかすっただけだった。進藤の胸にごく僅かな傷を付けただけだった。


――今さら何を迷っているの。何を怖気づいているというの。

 目をつぶり、深く息を吐く。

 このまま、力を込めればいい。体重をかければ、女の力でも確実に殺すことが出来る。

 柄をぎゅっと握り直す。

 ただこのまま体重をかけるだけでいい。目は瞑ったままでいい。

 そうすれば、この男を殺せる。殺せる、のに。


「……どう、して……」


 それなのに、どうして出来ないの。どうして手が動かないの。


 この男が、父様を、母様を殺した。この男が、私を娼館ここへとおとしこめた。この男が、私から全てを奪った

 全て。全て全て、この男が。


「どうして……っ、どうして出来ないのよ……!」


 ずっとこの時を望んでいた。

 ここでこの男と再会したあの日から。いや、この男が私から全てを奪ったあの日から。

 ずっと。ずっとこの日を待ち望んでいた。この時だけを支えに、この時のためだけに生きてきた。


 この男を憎んでいたから、私は生きてこられた。それだけを希望に。それだけを切望して。

 それなのに。


――椿。


 私を愛おしそうに呼ぶ声が甦る。

 慈しむような目が。指が。言葉が。

 目の前に、脳裏に、ちらちらと浮かんでは消える。


「……め、てよ……」


――おまえは本当に可愛いな。

――いつもそうやって笑っとけ。


「止めて! 止めてよ……っ」


 笑えなくしたのは誰なのよ。私から全てを奪ったのは誰なのよ。


 視界が歪む。息が上がる。頭の芯が揺れる。手に力が入らない。

 突き立てたままだったナイフが手から滑り落ちそうになったその時、


「……っ!」


 それを阻んだのは、男の手だった。

 節張った手が、片手だけでいとも簡単に私の両の手を包む。


「……椿」


 開かれた目が、私へと向けられた。

 深い漆黒が私を射抜く。それは、薬になど犯されていない、力のこもった瞳だった。


 あの薬は効かなかったのか。一晩は起きないと言っていたのに。

……ああ。やっぱり、喜助になんて頼むんじゃなかった。どうにかしてでも、自分でちゃんと用意するべきだった。

 ぎり、と奥歯を噛み締める。


「……いつから起きてたの」


 取り繕う必要はもうなかった。つっけんどんに聞いた私に、進藤は何も答えない。

 ただ私を見つめたまま、私の手を今度は反対の手でも覆う。


「え……? なに……」


 進藤の両手が私の手を覆ったまま、下方へと力を込めた。ぐっと力を加えられ、突き立てた刃が進藤の胸へと沈む。


「え……。あ……、や……っ! やめ……」


 咄嗟に手を離そうとしたが、進藤の手に抑え込まれそれは叶わなかった。あまりの力の強さに、振り解くことが出来なかった。

 柄を握ったままの手に、指に、刃が肉へとめり込む感覚が伝わる。


「……っ」


 進藤の顔が苦痛に歪む。呻き、咳き込む。

 進藤の手は震え始め、力が抜け、そして、私の手は解放された。


「……つ、ばき……」


 進藤が私へと手を伸ばす。


「……椿、ごめん。……ごめんな」


 伸ばされた手は、頬に触れる前に、下へ落ちていった。


「……なん、で……?」


 両手で覆った口から、言葉がこぼれ落ちた。こぼれ落ちた声は、手は、唇は、身体中全てが震えていた。


「なんでっ、なんでよ……っ」


 どうして起きていたのに逃げないの。どうして自分から殺されようとするの。


「なんで……っ!」


 どうして。どうして。どうして、涙が出るの。


 頬を涙が伝っていた。

 次から次へと溢れ出てくる涙が、自分の裸の胸を、進藤の胸をも濡らしていく。


 破瓜はかの時も棒で打たれた時も、客にどんなに乱暴にされようと、どんなに優しくされようと、決して泣かなかった。

 泣けなかったのに。


「どうして……」


 こんな男、死んで当然のはずだ。こんな男、殺されて当然のはずだ。

 ずっと殺したいと思っていた。ずっと憎くて仕方なかった。


 それなのに。それなのに、どうして私はこんな気持ちになっているの。


「……ねぇ、進藤様」


 進藤の頬へと指を滑らせた。進藤の頬はまだ温かい。


「どうしてあの時、私を殺してくれなかったの……?」


 指を口元へ滑らせると、指が赤く濡れる。

 進藤は目を閉じていて、この口もとの血さえなければ、ただ眠っているだけのようにも見える。


「ねぇ、どうして……っ」


 握り締めた拳で叩き、額を押し付けた胸も、まだ温かい。


「どうして殺してくれなかったの……! 私も……私も、父様たちと一緒に死にたかった! こんなところに来たくなかった! 一人になんてなりたくなかった……!」


 嫌だ。嫌だ。一人は、嫌だ。

 痛いのも。苦しいのも。色んな男に抱かれるのも。人間として扱われないのも。

 本当は、ずっとずっと嫌だった。


「どうして……どうして、殺してくれなかったの……」


 あの日、進藤は私を見逃した。

 男たちが寝室へ押し入ってきた時、母様は暗闇に紛れ私を押し入れへと隠した。目の前は真っ暗で、僅かに開いた隙間からは何も見えなかった。

 ただ音がしていた。何かが壊れる音、割れる音。怒鳴り声、叫び声。

 そして、血の匂いがした。


 永遠にも一瞬にも思える時が過ぎ、照明が灯された。部屋を物色するためだろう。

 動き回る男たちの足元、折り重なるように両親が倒れていた。床は、両親は、真っ赤に染まっていた。


 進藤は他の男たちが部屋を出たあとも、一人最後まで残っていた。進藤は倒れている両親の側で、立ち尽くしていた。

 母様に押し込まれた時、ぶつかった拍子に中の箱が倒れ、中身が飛び出ていた。その中にあった古い包丁が、私の手にずっと当たっていた。

 私はそれを手に押し入れから飛び出し、立ち尽くしたままだった進藤の背中へと、それを突き立てた。


 振り返った進藤は、恐ろしい顔で私を睨み付けた。叫び声を上げそうになった私の口を塞ぐと、私を担ぎ上げもう一度押し入れに押し込み、そこから立ち去った。


「……もう一人は嫌……。嫌だ……」


 突き刺さったままのナイフを両手で掴む。力を込め、進藤の胸からそれを引き抜いた。

 刹那吹き出す血が、私の視界を、私の顔を、私の身体全部を真っ赤に染め上げる。

 赤。赤。朱――。


 その時、視界の端を白色が過った。

 窓の外でちらちらと雪が降っていた。雨はいつの間にか止み、雪へと変わっていた。

 窓を開けると、小さな白い粒が部屋へと舞い込んでくる。


「綺麗……」


 真っ暗の中、無垢な白が、はらはらと舞い落ちる。赤く濡れた手の平にも、白い雪がはらりはらり。

 夜闇に浮かび舞う雪は、まるで白い花のよう。


「……ああ、そうか。進藤様は、最初から気付いていたのですね」


 いや、気付いて、じゃなくて、わかっていてここに来ていたのか。

 私が自分達が殺した夫婦の娘だと、最初から。


 たまたまその娘が売られた店に来て、たまたまその娘を気に入る。そして、通い続け、身請けまでしようとする。

 そんな偶然、ある訳などなかったのだ。


「……そんなことに気付けなかったなんて、私は馬鹿ですね」


 ああ、そうだった。

 私は抜けていると、よく両親から言われていたんだった。そんなことすら、今まで忘れていた。

 目をつぶる。

 瞼の裏、そんな私をいつも優しく見守ってくれていた、父様と母様の顔が浮かぶ。


「父様、母様……。私も……雪も、もうそっちに行ってもいいですか……?」


 私はきっと、地獄に落ちるのだろう。だけど、この地獄()以上の地獄などあるものか。


 目を閉じ、血でぬるんだ刃を、首に当てた。

 首に当たる感触に、手が震え、歯はがちがちと音を鳴らす。

 あんなに死にたいと願っていたのに、私は死ぬのが怖いのか。人を殺しておきながら、死にたくないとでも言うつもりか。

 震えが治まるよう、奥歯をきつく噛み締める。


――ああ、誰か私の首を落としてくれたらいいのに。


 ぼとりと首から落ちる椿のように。

 きっと、それ以上に私に似合う死に方はないだろう。

 柄を両手で強く握り直し、力一杯引き抜いた。




 目の前が霞んでいく。

 目の前の世界が、赤から白へと色を変えていく。

 空から舞い落ちる雪が、地面へと降り積むように。

 この世のすべてを、真っ白へと染め上げていくように。


「――椿」


 進藤が私を呼んだ。

 進藤は、私へと手を伸ばす。

 その手は、今度こそ私の頬に触れた。

 私は、その手に自分の手を重ね、頬を擦り寄せた。






                  ―END―


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