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夢に咲く

 N-924はA-91の拠点、乗用車で侵入出来る限りの場所に停車した。


 乱暴に扉を開け放ち、そのまま外へ走る。目の前は既に瓦礫の海だった。航空機による爆発が、拠点の破片をここまで飛ばしているのだ。周辺の人々の生活圏に住人の気配は無い。A-91を恐れた人々がその場を去ったからだった。


 拠点はほぼ全壊していた。


 火がまだ残っていた。闇雲に走るべきではない。


 この状態では______


 信じたくない予感にN-924は頭を振った。

 一歩を踏み出すごとに、足元で砂利が鳴った。

 誰かの手足と首とが散らばっている。悍ましい光景に気分が悪くなる。


 ____華奈兎はどこにいるだろうか。


 必死になって視線を振った。


 転がる手足はきっと彼女のものじゃない。そう言い聞かせて不安を殺す。


 瓦礫は幾つかの死体を隠していた。捜索には時間がかかった。


 ____彼女が死んでいる筈は無い。


 時が経つごとに息が詰まる。

 友人は見つからない。


 焦りの中、思い出すのは過去の記憶だった。




・・・



「今から会うのは、俺より三年局員歴の長い古株だ」


 三年前、教官にそう言って紹介されたのが始まりだった。


「こいつだぞ、挨拶しておけ」


 立ち止まられたそこには若い女性が居た。


 背が高い、変わった容姿の美しい女性だった。男とも思ったけれど、よく見ると女性らしい儚さがあって少し驚いた。女性はこちらを一瞥して、すぐに画面に向き直った。

 不愛想を体現したような人だった。


 局は何ていうか、癖の強い人が多い。この女性もその同類だろう。


 堅い雰囲気に緊張して、後から恥ずかしくなるくらい裏返った声で挨拶した。


 完全に無視されてしまった。


「悪い奴ではないんだがなあ……」


 教官の言葉は嘘ではないと思った。


 クソ親父は家の財産を賭け事に使って、母と私、偶に病弱な兄と幼い弟に暴力を振るっていた。いつもあいつの顔色を窺っていたから、人の悪意が出る瞬間には人一倍敏感だった。

 あの女性に悪意は無かった。本当にただ面倒だっただけなのだろう。


 先輩があんなだと、これからの仕事も大変そうだ。覚悟を超えて心が折れかけた。


 その翌日から訓練は開始された。

 教官の特訓は辛かった。何度も辞めたいと、気持ちが揺れた。帰って鏡を見るとどこかしらに痣が出来て、夜は倒れるように寝た。


 初会話は、そんな訓練の帰りだった。


 女性は、訓練場の外で何かの資料に目を通していた。


 局に女の人は少ない。話せる人と言えば、お母さんみたいな、確かC-466と言う局員くらいだ。私よりずっと年上だが友人に違いないし、彼女の存在に救われた部分はある。

 他の女性局員も仲が良い。でもその女性が輪に混じっているところを見たことが無かった。C-466曰く、彼女が生きている女性局員全員の先輩らしい。


 何となくの興味で、話しかけてみた。


「先輩」


「…………」


「先輩!」


「…………」


 また完全無視。


 変な競争心が目覚めた。


「先輩、何やってるんです?」


「……」


「せーんーぱーいー」


 顔を覗き込んで呼び掛けてやった。


 本当に綺麗な女性で、一瞬たじろいでしまった。


 もう一度やってやろうと息を吸った時。


「煩い」


 突然女性は口を開いた。


 びっくりするほど冷たい声だった。


 怖いと同時に、答えさせてやったことへの達成感があった。


 私は止めなかった。親父がアレだから私の学生時代、友人が居たことは無かった。友達になろうと誘っても、親父のせいで怖がられて短期間で関わりが絶たれていた。そんな経歴のせいで、多分話せる相手に飢えていたんだと思う。


「何やってるんですって」


「訓練相手を待っているだけだ」


 何を言うにも、女性はえらく淡白だった。

 また話しかけようとしたけど、その時一人の青年がやって来た。


 襟足の長い茶髪の、眉目秀麗な青年で、二人が並ぶと凄く画になった。


 青年の局員コードはF-6133で、偽名を志名雅菊と名乗った。女性と違って素直で、無表情だけど話せば返してくれる優しい人物だった。



・・・



 その人物が、血だまりの上に頭を乗せて倒れていた。


 呼吸が止まるのが分かった。


 片腕の先が無い。しかし今まで見つけた他の死体と違って、しっかり原型を留めている。

 吹き飛んだ腕の他に、目立った外傷は見当たらない。


 頭を打ったのか?


 N-924はF-6133に歩み寄った。


 体に付いたままの手の近くに、局員用の黒い拳銃が落ちていた。


 血は、頭に空いた小さな穴から流れていた。銃口からは硝煙が上がっていた。



・・・



 青年___志名雅菊と女性は、殆ど同じ時期に加入したらしい。


 雅菊の歳は当時十八、私の一つ上だった。意外に若く、そんな彼が教官の三年前に入った古株だという事実に、私は少し引いた。計算すれば加入当時の年齢は一桁である。

 そこで雅菊に、女性について聞いた。


 女性はD-1082、偽名は玖鴎華奈兎。


 私は彼女が、私と同じ十七の少女だったなんて思いもしなかった。


 一度だけ二人の訓練を見た。それは私が一生追いつけない、化け物同士の大乱闘にしか見えなかった。訓練後の二人は全く疲労を表に出さなかった。


 寮の私の部屋は、二人と同じ階にあった。


 華奈兎はさっさと自室に引っ込んだ。そこで雅菊は「一応紹介する」と言って、自分の隣室のインターフォンを鳴らした。私はその部屋の持ち主を知っていた。


 I-0759。曽賀谷永。息を忘れるほど美しい人だったけれど、目が死んでるというか、どこか幽霊のような不気味さを感じた。そんな人物に会うくらいなら正直自室に行きたかったけど、中から現れたのは、全く知らない少年だった。


「初めまして、菊さんの友達?」


 彼は半分ほど開いた扉の奥から顔を覗かせた。


 目には生気があった。元気で、弟みたいな雰囲気を放っていた。


 仕事をしているときの永を女性だと勘違いしていた私は、そのままの認識で話をして彼に怒られた。だが十六だった彼には、仕事以外では普通の、歳相応の明るい少年らしさがあった。


 彼は「華奈兎さんはあんなだけど、根気強く話せば諦めると思うよ」と言っていた。



・・・



 目の前の事実は、あの屈託の無い笑顔を二度と見れないことを示している。


 F-6133の死体付近に、血の斑点が連なっていた。まるで怪我を負った何者かが歩いたような跡だった。それは途中から乾いた筆を擦ったものと同じ、這い進んだ痕跡に変わっていた。


 見覚えのある鳶色の髪と投げ出された細い腕が、瓦礫の隙間から覗いていた。特に大きな、拠点の一部だった塊がそこに落ちていた。

 N-924は動かせる瓦礫をどけた。


 そこには眠るように目を閉じる、血で汚れたI-0759の姿があった。


 胸から下は瓦礫の下になっていた。


 腕を引き、瓦礫の中から出そうとする。


 I-0759の体を引っ張り出す重みは思っていたよりもずっと軽かった。


 隠れているだけと思っていた胸から下の体は、瓦礫に潰されて無くなっていた。



・・・



 恐れられていた少年は朗らかで、彼と話す時だけは日常に戻ったようだった。永は華奈兎とも親しく話していた。


 二重人格者と関わったのは彼が一人目で、それ以外には会ったことが無い。


 雅菊と永の二人は、私が聞けば華奈兎と話す方法を教えてくれた。任務で悩めば励ましてくれた。


 華奈兎がスルーしても、答えるまで話した。華奈兎が避けて来れば探した。

 初対面から三か月が経ち、絡まれるのが面倒になったのか、簡単な返事を返すようになった。


「先輩って普段何食べてるの?」


「胡瓜と白米とささみ」


「他には?」


「偶に胡瓜がトマトに代わる」


 こんな風で。

 不愛想に変わりは無かったが。

 でも会話が出来るのは嬉しかった。


 誕生日を聞き出して、贈り物を渡した。あちらからの返しは期待するだけ無駄である。


 休暇中には買い物に連れ出した。華奈兎は終始無表情だった。


 しかし一年と七か月が経った頃には、心なしか話す量が増えた気がした。あちらから話しかけることは矢張りだったが、此方の会話には何かを返し、用事に誘えば偶にでも素直に付き合うようになっていた。


 友情が築かれている、とは少し違う気がした。多分華奈兎からの見方が、鬱陶しいかつどうでもいい後輩、から、よく喋って来る同い年の人、に変化した程度だろう。

 でも私にとっての華奈兎は、怖い先輩から友人へと明確に変わっていた。何も気にせず話せるし、多少睨まれても怯まずに絡んだ。


 その頃には、私は「華奈兎」、彼女は「琴弥」と呼び合えるまでになった。


 ただ、私は華奈兎の感情から来る笑顔をまだ見たことが無かった。

 共に潜入任務を遂行したとき。政府のお偉いさんとの対面。笑顔を見たのはそんな場面だけ。外面以外は笑わない。

 私は色々な場所に連れ出し、どうにか笑顔を引き出そうとした。笑顔どころか、楽しむ様子すら私には見えなかった。


 諦めるものか、と意気込んでは挫折した。


 この三年間、それが目的の半分となっていた。


 華奈兎は「まあやってみろ」と吐き捨てるように言った。勿論無表情で。



・・・



 ____だから、そんなことがあるわけが無い。


 I-0759の頭が向いていた方向に、視線が釘付けになった。


 それは全体的に黒っぽい色をしていた。


 無意識に一歩ずつ近寄る度に、心臓が痛んだ。



・・・



 三人の最終任務が決まったのは、去年の秋のことだ。


 私がそれを知ったのは、いつもの会話の中で雅菊が軽い口調で話したからだった。


 A-91なんて、裏社会と関わりの無かった私でも名前を聞いただけで震え上がるくらいには有名で絶対的な組織だったのに、それの殲滅役に任命された彼女らは特に何の反応も見せなかった。


 でも安心感は否めなかった。


 華奈兎たちが敵に殺される未来がどうしても想像できない。きっとまた無傷で何事も無く帰ってくる。


 私は何度も華奈兎に、最終任務への心持を尋ねた。かなりしつこかったようで、彼女がまともに答えたのは最初の二回だけだった。


「失敗する心算は無い」


 華奈兎らしい答えだと思った。成功を確信せず、しかし消極的にならない。どう転んでもその言葉の通りになる。私の記憶の中で、華奈兎が嘘を吐いたことは無かった。

 だが決して正直者ではなかった。華奈兎は嘘を吐かない。しかし聞かれたこと以外は答えず、都合の悪いことははぐらかす。潜入任務では、自然な様子で息をするように虚言を吐いていた。


 その時には会ってから二年が過ぎていた。いつまで経っても掴みどころが無く、何を考えて生きているのかが全く持って分からなかった。遠い存在みたいに思っていたけれど、最終任務が終わって局員としての殺伐とした生き方から解放されれば、華奈兎も自分のことを話してくれると夢見ていた。


 私たちは局員である限り、本名を捨てなければならない。私の名前は依崎琴弥じゃないし、彼女も玖鷗華奈兎なんて名前が本名ではない。


 自分の名前を名乗って、家族や華奈兎と一緒に、平和に暮らせる世界が間もなく訪れる。そう思って、しばらく連絡を取っていない家族に対する悲しみを紛らわせた。



・・・



 他の二人とは異なり、そこに血だまりは広がっていない。


 何かが焦げた、不快な臭いが鼻を突いた。


 N-924の視界は色を認識しなかった。自分が呼吸をし、心臓が動いていることすら感覚から除かれていた。


 「それ」の上に影が落ちた。


 未だ火が残るその場所は、不自然なまでに静かだった。



・・・



 最後の冬。


 その日は僅かに雪が降っていた。


 永は寒さで風邪を引いたらしく、雅菊が家に上がって面倒を見ていた。電話越しに、枯れた上に弱った声が詫びの言葉をかけてきた。


「体調は?」


『あんまり良くないぃ……』


「あらあら、辛そうだね……」


『二日は熱が引かないらしい。俺の方に異常は無いが、永が完治するまで見かけても近づくな』


「移っちゃう心配は無いの?」


『俺は体が強い。風邪を引いた記憶は無いから大丈夫だ』


『ごめんねえ、逆にオレは貧弱で……げほっ、華奈兎さんに悪いなあ……ごほっがはっ!』


「お大事に……」


 最後まで、永の咳き込む音が聞こえた。

 永には悪いが、この日には予定があった。


 私はいつものように華奈兎を連れ出し、最寄りの観光名所だった湖に向かった。


 その日は雅菊から教えてもらった、華奈兎の誕生日だった。


 華奈兎の服装があまりにも質素なので、途中で服を購入して着せた。華奈兎は「動きづらい」だの、「目立つから要らない」だのと言っていたけど、そんな小言に一々耳を貸していてはこいつの友人などやっていられるものか。それよりも華奈兎のサイズに合った女物を見つけることに苦労した。


 華奈兎は楽しそうではなかった。それもいつものことだ。


 昼、私は喫茶店でパンケーキを注文した。華奈兎の昼飯はサンドイッチ一つ。馬鹿力のくせに華奈兎は結構な小食だった。出された物は大体完食するから、食べられないわけではないのだろうけど。

 私が昼食を頬張っている間、華奈兎は一瞬で食事を済ませて小難しそうな本を読んでいた。友人同士のコミュニケーションとして「一口要る?」と言ってみても「要らない」で即答。パンケーキは思っていたより多かった。


 重くなった腹をどうにか持ち上げて、車のハンドルを握った。目的地は例の湖だ。


 運転している私の隣で、彼女はぼーっと外を眺めていた。車に乗ると毎回こうだった。


 華奈兎はかなり幼い頃から局に入っている。だから何気ない日常が珍しいのだろうか。切なくなる想像が容易に出来てしまうから、それを指摘する気にはならない。


 会話を試みても毎度の如く続かない。移動中はずっと沈黙の中で正面を見ていた。


 冬にもなれば日が落ちるのは早くなる。

 湖に近づいてきたとき、真っ白だった雲は既に鈍く青白い色を映していた。


 進むにつれて緑は濃くなっていく。

 雪は薄く積もっていた。


 近くの駐車場に車を停めた。雪が降る夕暮れ、他に訪れる人は居なかった。


 鬱蒼とした針葉樹林が私と華奈兎を囲って見下ろしていた。


 ちらりと華奈兎の方を見やると、何を考えてるか分からない無表情のまま、周囲を見回して歩いていた。空気は段々と冷たくなっていった。


 数分歩いたところで、目的地が目の前に広がった。


 小さな湖だった。池と呼ぶには大きい、しかし一丁前に湖畔を名乗る大きさは無く、なんとも中途半端な感じがした。


 水鏡が寒色の雲と、深緑の樹林を反射して淡い翡翠色を放った。雪が湖水に溶け、微かな波紋を立てた。周りでは、背の低い草に雪が積り、歪で美しい花を咲かせていた。


 夢の中に居るような光景だったと思う。


 私は暫くの間魅入っていた。今まで経験したことのない幻想的な景色が、瞳を捕らえて離さなかった。時間が過ぎていくにつれてその拘束は緩まったが、現実に戻るまで三分は経っていたことだろう。


 意識を現実に戻したとき、私は携帯電話にその湖の光を収めた。確認した写真は美しく、しかし肉眼で見るよりも明らかに劣っていた。


 用事が済んだ。おそらく華奈兎はすぐに帰ろうとする。


 私は華奈兎を振り返った。


 そこで視線が止まった。


 湖畔の光景よりも、どちらかと言うとこちらの方が印象深い。



 華奈兎は、まるで長らく会っていない親しい人を見つけたような、動揺と安堵感を湛えた光を瞳に宿していた。私よりもずっと深く、湖の景色に夢中になっていた。



「華奈兎……?」


 多分私の声は掠れていた。冷たい翠の空気と、動揺が喉を焼いた。


 それが目を覚ましたのか、華奈兎の目は普段通りの空虚な色に変わった。


 「帰るぞ」とは言わなかった。



 湖のすぐ傍にあった長椅子に、二人で腰かけた。


 雪の量が心なしか増えた気がする。

 一方、華奈兎の顔は穏やかに見えた。


「ここ、もしかして知ってる場所だった?」


「いや、初めてだ」


 声も少し暖かかった。


 空の色が暗く、濃くなり、時間が経っていくのを視覚で感じた。


 ここに永を連れてこなくて正解だった。私でも寒いのに、こんな場所に彼が来れば一週間は寝込みかねない。


 隣に座る華奈兎は、ここではない遠い場所を見ているようだった。


 笑わせられなかった。しかし、三年かけてようやく成果を出せた。

 体は冷えていたけど、気分は高揚していた。


 永と雅菊は、こんな華奈兎を見たことがあるのだろうか。


 私はまだ、三人の関係がよく分かっていない。


 雅菊と永は、何となく他の二人のことを友人だと思っていそうだ。あの親しい口ぶりや世話の焼き方が、私が想像する「友人」にぴったりと当てはまった。


 I-0759はどうだろう。誰にでも丁寧な口調で話すから、誰を何と見ているのかが読めない。まあ、他の局員からすれば恐怖の対象以外の何物でもないが。


 じゃあ、華奈兎は?

 永以外の誰とも親しく話さず、雅菊のことは信頼していそうだけど「仲が良い」とは違う。私とそれ以外の局員にはすごく冷たい。


 思えば私が三人について知っていることよりも、知らないことのほうが多い。


 華奈兎曰く、局員が自分の情報を漏らすのは死に直結する、らしい。

 ならば何の気概も無く話せるようになるのは、春以降になるのか。数か月は短いようで割と長い。


 雪景色と冷風が手伝って、心臓に冷たい水を注がれる感覚が走った。


「ねえ、最終任務って、あと三か月だったよね」


 白い息が浮き、すぐに消えた。


 華奈兎は目の前の湖から目を離さなかった。


「ああ」


 どこかぼんやりした声色だった。


「華奈兎、前に言ってたじゃない? 局員が自分の情報を漏らしちゃいけないって」


「言った」


「最終任務が終われば、私たちは局員を辞めるのよね」


「そうだな」


 白い花が咲き誇る中で、湖は静かに表面に波紋を立たせるまま、何も変わらなかった。


 雪が積もる澄んだ微かな音だけがその場に漂っていた。


 一人で来れば、どれだけ寂しいことか。だが、今私の隣には華奈兎の偽名を持つ友人が座っている。


 私は長椅子から立ち上がった。


 肩に乗っていた雪が足元に落ちた。


 それでも華奈兎は、私ではなく目の前の湖畔を眺めていた。


「もし任務が終わったら____」


 風が頬を撫でた。


 白い花びらが舞い、鏡面を揺らした。


 _______その時の華奈兎は私の言葉を聞いていたのだろうか。


「またここに来てさ、名前を教え合おう」



「春にあんたが帰ってきたら、きっとね」





・・・



 「それ」が、残った壁に背をもたれかけていた。


 焦げ臭い風が、N-924と「それ」の間を吹き抜けた。


 青い空が、地上に透き通った影を落とした。


 「それ」には手足が無かった。残った四肢の残骸と虚空の境は真っ黒に焼けこげ、炭が地面に模様を描いている。


 「それ」の左目は薄く開いていた。しかしその瞼と睫毛の間からは炭化した眼球が零れ、右目は火傷に覆われて固く閉じられている。


 「それ」の胸には硝子の破片が突き刺さっていた。傷口には赤い血液が焦げ付いている。


 N-924は目前に転がる「それ」___D-1082を呆然と見つめた。


 間違いなく、それはN-924の友人だった。


 黒髪は先が炭化して背中まで短くなっているが、火傷が混じる儚げな美貌は見間違えようが無かった。


 心臓が痛いほど鳴り響いている。

 火花が飛ぶ音も、風が吹く音も何も聞こえない。


 N-924は無理矢理笑顔を作った。


「分かった! フリでしょ! 心配したんだから、やめてよね、こんなおふざけ」


 歩くと砂利と炭が固い音を鳴らした。


 D-1082は答えない。


「ねえ、起きなさいよ」


 答えない。


「頭でも打った?」


 答えない。


「____……医師に診てもらおう」


 答えない。


 また何かを言おうとした。


 言えなかった。息が詰まって、言葉が出なかった。


 視界が歪む。

 目に滲むような痛みが広がった。


 どうにか、気持ちを落ち着かせるための言葉を並べようと声を絞る。


 何を言うべきか、言葉が見つからなかった。


 無意識に、震えた声が零れ出した。


「…………何で?」


 地面に小さな染みが出来た。


 D-1082の表情は、今までに無いほど穏やかだった。しかし笑顔ではなかった。

 涙のように、D-1082の左目から炭が落ちた。


「私、あんたと名前言い合うの待ってたのに」


 倒れる友人は何も返さない。


 ___あの日。


 湖に行ってあの言葉を言った時、華奈兎は今と同じように、何も言葉を返してはくれなかった。


 華奈兎は嘘を吐かない。


 「無理だ」とも、「断る」とも、彼女は言わなかった。


 いつもそうだった。聞かれたことにしか答えない。都合の悪い質問は適当にはぐらかす。


「あんたなんでしょ」双眸から止めどなく涙が溢れる。「航空機を追突させて、最初から死ぬ心算だったんでしょ」


 だから答えなかった。


 自分にそれが知られたら面倒だから。実際、友人の死を了承する心算など無い。

 それが分かっていれば、態々言う奴など居るわけがない。


「あんたやっぱり、自分勝手すぎるのよ」


 N-924は膝を付いた。


 そして、動かない、もう二度と動くことのない友人に手を伸ばした。


 しがみつくように、N-924はD-1082の死体を抱きしめた。もたれかかっていた壁には血痕が固まっていた。


 D-1082は振りほどかない。


 睨みを利かせることもない。


 拒絶する言葉も吐かない。


 冷たい手は消し飛んだ。


 冷たい瞳は焼けた。


 冷たい声を発するための肺は硝子に貫かれた。


 大人しく抱きしめられる友人の頭は、こくりと肩の上に乗った。


 焦げかけの黒背広の上に、水滴が垂れた。


 最近の、何気ない会話が鮮明に思い返される。


『私が局員辞めたら、大きく歌手にでもなっちゃおうかなー』


『……』


『華奈兎はどうするの?』


『どうでもいいだろう』


『良くないっ!』


『その時したいようにするだけだ』


『あんたらしいわ』


『お前が言うか』


 あの時は楽しかった。


 人の命を奪いかねないこの仕事は、直接殺人に関わっていなくても心が潰れそうな罪悪感を抱かせた。


 何人かの局員は、それに耐えられずに自殺したらしい。私も何度も悪夢に魘されては、もう死んで罪から逃げてしまおうかと考えた。


 でも華奈兎の存在が、私を無理矢理()へと引き戻した。


 罪悪感に苛まれて、同僚に想いを零す者を何人も見た。

 華奈兎は全く、そんな姿を見せなかった。


 殺しなんて、実際にやっている華奈兎が一番怖いし辛いに決まっている。なのにそれが忘れられてしまうのは、隙を見せまいと必死に隠しているからなのか。


 ____違う。


 クソ親父に怯える母は、私たちの前では気丈に振る舞おうとしていつも笑っていた。誰かが気持ちを押し殺している様子が私にはすぐに分かった。


 華奈兎は何も思っていなかった。


 徹底的に無駄を省きたがる人だ。自殺した理由は何となく予想がつく。


 これが「成功」なのだ。華奈兎と名乗るこの友人の生においての。


 彼女が望んだ結末。


 何年も経て、ようやく達成された。


 _____喜ばしい筈がない。


 悔しさと、悲哀と、怒りがぐちゃぐちゃに混ざり合った。


 潰れる喉から、絞り出すように叫んだ。


 誰か大勢の足音が近づいてきた。聞き覚えのある声___優しい、C-466の呼び声。


 そんなことは心底どうでもよかった。ただ、腕の中であの友人が黙って倒れ掛かる事実が精神を引き裂いた。


 誰にも届かない、小さな叫びだった。



「……あの眼で睨んでよ。あの声で『うるさい泣くな』って吐き捨ててよ。あの手で振り払ってよ」



 背後でC-466が立ち止まった。


 D-1082を見て、泣く気配がした。


 物言わぬ骸となったD-1082の死体は、矢張りN-924の声に何も返さない。


 いつもよりずっと長く、破れない沈黙が二人の間に降りていた。



 今日も晴天は、どうしても美しい。





「ねえ、華奈兎」



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