清く虚の忌火
構成員の押し寄せる勢いは止まらない。余裕のある体力を最小限に利用し、着実に敵の総数を減らす。
駆け、刀を振ると長い黒髪が舞った。美しい死神の足元には無数の頭が転がっている。
αの構成員の七割以上が既に死体となっていた。
絶叫を上げる暇はなく、最後に何も残すことなく構成員の薄汚れた命が刈り取られていく。その現実離れした光景を作り出す非人間的な女性は何の感情も露にせず、ただ生存者を感知しては喉元を切り裂いていた。
完全な殲滅はすぐそこにあった。
その時。
階を上がっていたD-1082の身に明らかな異変が起き始めた。
耳鳴りが酷く、殆どの音が搔き消されて聞こえなくなっている。
頭痛は激しさを増し、脳を引っ掻き回されるような感覚が脈打つごとに広がっていく。
呼吸は浅く、肺の痛みが強まる。
三一階層から三二階層への階段の中間、D-1082は壁に手を付き、体を支えた。
D-1082は激しく咳き込んだ。
機関銃から発射される無数の弾丸を弾き、力の入らなくなった足で一段を蹴り、確実に首を刎ねる。
動いた拍子に痛みが急激に全身へ広がる。
突然、D-1082が踊り場に膝をついた。
視界が真っ赤に染まる。
同時に大量の吐血が黒い床を汚した。
D-1082の左の白目は血よりどす黒い赤に変わっていた。
黒い手袋と背広の袖の隙間から覗く手首が視界に入った時、赤黒い脈が左半身に浮き上がっていることに気づいた。
血管の全てを内側から刻まれるような激痛は時間が経つごとに増していく。
意識が今にでも飛びそうだ。
体を叱咤し、刀を握り締めて立ち上がる。
血色の視界には何も映ってない。
D-1082は走り出し、殆どを勘に頼って刀を振るい、拳銃を発砲した。
刃には肉を断つ感触が、発砲先からは血飛沫がかかった。
殺せている。
それでも動きは衰える。背広の下の防弾ベストに何度も弾丸がめり込んだ。圧力が骨を軋ませ、鈍い痛みが激痛に加わる。
左が赤いひびに覆われた怪物の女を視認する度に、敵が息を呑む気配があった。
試しに笑いを浮かべてみると、何人かが腰を抜かした。
三八階。
D-1082は先刻と比べれば亀よりも遅いが、常人の何倍もの速度で広間を走り、刀を振るった。気配と、耳鳴りを通過する微かな銃声は即死の致命傷を避けるには十分な情報だった。
激痛が幾度となく全身を貫く。
銃弾が肩を貫き、脚に喰い込んだ。
走り、武器を持ち上げるごとに肩の傷が裂け、脚の肉が抉れた。
通った後には赤い斑点が落ちていた。
人外の姿と、重傷を負っても尚動き続けるD-1082に構成員は青ざめた。
狂ったような笑みを貼り付け、返り血を浴びるその姿はまさに悪魔のそれだ。I-0759を見ていれば、表面上の模倣は実に容易い業だった。血まみれの醜い獣が、そこに借り物の狂気を乗せていた。
飛びそうな意識を何とか持ちこたえ、頭痛で鈍る思考力を巡らせる。
時に幻覚が邪魔をした。貴重な残弾を虚空に散らし、拳銃はすぐに役目を果たした。
刃こぼれが酷い。碌に喉を切断できなくなり、隙が何度も生まれる。
しかし、恐怖で動きの落ちた構成員は殺しやすかった。
窓は清々しく、鮮やかな晴天を映していた。
残りはすぐに一人になった。
心細さで震え、銃を下ろして命乞いの姿勢を取る元軍人の口に銀色の刃が突っ込まれた。刃が抜かれた穴からごぷ、血を吐き出し、その構成員は絶命した。
階層の殲滅、完了。
D-1082は一つ、冷たい溜息を吐いた。
あと四階層が残っている。だが今の自分にこれ以上駆け上がる体力は無い。
終わりだ。
夢遊病患者の足取りで、D-1082はふらふらと窓に近づいた。
硝子に赤いひびを走らせた怪物の姿が反射した。怪物自身にはそんなものは見えていなかった。
今日も晴天が美しい。
それだけが妙にはっきりと分かった。
今この瞬間も、何も知らない人々は平和に家族や友人と過ごしている。
戦争が無ければ、殆どの人々にそれが約束されていた筈だ。戦争が奪ってしまった幸福を取り戻すことが局、そして自分の役目。それだけを考えて生きていれば問題ない。他人に向ける情も、自分に向ける嫌悪も、全てが必要ない。
N-924はあの屈託のない笑顔を失うことは無かった。自分を友人と呼んで馴れ馴れしく接してきた。最初の頃は正直鬱陶しかった。しかしそのような人間と話した経験が以前は無かった自分にとって、気分は新鮮だった。
窓の向こうの平凡な街並みは、一生関わることのない異世界だ。
平和な人生とやらに、執着など無かった。
「動くな!」
背後から男の声がする。くぐもってよく聞き取れない。
降伏を促しているらしい。どちらにしろ自分は動けないので、抵抗しようと従おうと結果は変わらないのだが。
後ろの構成員はまだ何か言っている。聞く必要もないので適当に流す。
あと何分なのだろうか。
人は死に際に、それらしい言葉を残すものだとN-924が言っていた。漫画と映画の観すぎだろうが、死までの無駄な時間を潰すには確かに有効かもしれない。
自分も何か言うべきか。
話す体力くらいならまだ余っている。
「お前達をこの手で直に殺せないのが無念…………」
____いや、大して思えんな。
「復讐が出来て満足…………」
____はて、私の目的は復讐だっただろうか。
ああ、そうだ。ようやく自分らしい言葉が見つかった。
「あの人との約束を…………」
____違う。私の勝手な使命感と言った方が正しい。
何だ、結局何も無いではないか。
これでは自分の今までに何の意味も無かったようになってしまう。
無駄に命乞いでもすれば、何かが残るだろうか。
未練も無いと分かっているのに、か?
「____私が殺した者たちは、何か生命に意味を持つからこそ命を乞うのだろう。ならば私は無意味なのか?」
誰に向けた問いなのかは分からない。神? それとも自身に?
____ああ、そうだ、ずっと意味など持ち合わせていなかった。
答えたのは自分だった。
…………残りはあと二分も無いだろう。
今まで何度も死の淵を彷徨った。発作の時。任務中。一番古いのは、確かあの頃だ。
____あの頃の記憶は、鮮明ながらも朧気だ。
今回ばかりは本当に死ぬ間際だ。どのような走馬灯が見えることやら。
構成員は警戒しているのか近づいて来ない。当たり前だ。敵は刀と拳銃を持って生きているし、発言から考えて自分たちに気づいている。更に死体の山を見れば迂闊に近づくことの危険性は明らかだ。
D-1082は窓の外を眺め続けている。
言い残す言葉が尽きてしまった。このまま待っていればいいだろう。
紅い瞳は、ただ見えない景色を見詰めるだけになった。
そこで突然、景色に異変が起こった。
日の光が何かに反射している。
白いその光は、視界にかかる紅い濃霧を貫いた。
(あれは…………)
痛みで霞んでいた思考がその光で晴れた。
血の零れる唇が弧の形を描いた。
・・・
局の拠点に、一つの報せが届いた。
「緊急事態です!!」
秘書が叫んで走り込んできた。
N-924を始めとした局員が、普段の秘書の冷静さとの差異に彼を凝視した。
秘書は息を切らしていた。
そしてかすれ声で言った。
「無人航空機がシステムジャックにより暴走!」
N-924は心臓が冷えていくのを感じていた。
嫌な予感がする。
「A-91拠点に衝突します!!」
気づいたときには、N-924は走り出していた。
止める友人の声など聞こえなかった。
・・・
「ようやくだ」
D-1082が言った。
突然愉快な声色で話し始めた侵入者に構成員の肩が跳ねた。
「意味のない人生、思えばこれが唯一の目的だ」
黒髪が隠す表情は読み取ることが出来ない。
窓の向こうの白い光は大きくなっていく。
接近している。
何か嫌な気配に、構成員は一歩後ろに下がった。
動かず、窓の外を眺めていたD-1082はその時突然振り向いた。
「とくと見よ、罪人」
長い、絹糸のような黒髪が舞った。
構成員の顔色が一気に青ざめた。
赤い、ひびのような脈が美しかった筈の白い顔の左半分に広がっていた。左目は赤く、紅い瞳の輪郭を溶かし、双眸からは血の涙が流れ落ちている。手負いの鬼女は、空虚な笑みを口元に浮かべていた。
構成員の一人が窓の向こうに何かを見た。
次の瞬間、ひゅ、と息を吸い込んだ。
青黒い硝子。白い体。分厚い一対の、鋼の翼。
機械の白い鳥。
航空機。
中には乗客が居た。座席に並べられた、木箱の数々、無生物の乗客。
無人航空機が窓のすぐそこまで迫っていた。構成員は絶対的な死の未来に、行動を停止していた。
美しい晴天と、迫る航空機を背後に、D-1082は背広から“ある物”を取り出した。
薄い直方体の、一本の線状の何かが飛び出した物体。
声高らかに、D-1082は宣言するように言った。
「これが、我が生の最高潮、そして」
D-1082はその物体の表面の凸___円い釦に指を置いた。
「_____________終幕だ」
D-1082が釦を押し込んだ。
航空機の翼が、βとγを切り裂き、αを頭で突いた。
拠点が傾き、破片が地面に降り注いだ。
βでは、崩れかかった床の上でF-6133が目を伏せた。
γの床の上で、体制を崩したI-0759が悲しげに笑った。
N-924は黒い車内で、ハンドルを握り締め虚空を睨んでいた。
崩壊は続く。
航空機の中心辺りで、一つの爆弾が起動した。遠距離起動型の高性能爆弾だ。
爆弾から光が漏れた。炎が巻き起こった。
爆発は周囲の木箱を吹き飛ばし、中身の爆薬に着火した。
全ての木箱と、航空機が起爆した。
轟音が響く。
爆炎が空気を飲み込む。
振動と暴風が崩れかかった拠点の壁と柱を吹き飛ばす。爆発の発生源付近は完全に原型を失い、消し飛ばされる。
D-1082の姿が、朱の光の中に消えた。
最後の呟きは、爆発の中に吸い込まれて焼失した。
「すまない」




