ひと時
そこはとある料亭の一室だった。
「本当に来ると思う?」
「さあ。行くとは言ってたけど、ドタキャンしてくるかもね」
「初めてだから分からないわよねえ」
二十人近くの女性がそこに集まり、猪口に酒を注いでいる。
その集団の中に、N-924の姿があった。
「嘘を吐くような奴じゃないから、多分」
「琴弥は仲良いものね」
「最近は一方通行な気がしてる」
琴弥、と呼ばれたN-924の言葉に、集団の数人が笑った。
騒がしい女性たちの隣室では、三十人程の男性の集団が野太い歓声を上げ、同僚の下らない一発芸を眺めている。何人かの内気な者はそうでない中年共に絡まれ、不器用な愛想笑いを浮かべていた。
部屋の隅に、永とF-6133が座って影となっている。
「元気だよね、あの歳で」
「年寄ではないがな」
騒いでいた男の一人が、徳利を持ってやってきた。
酒臭さに二人が口を閉じる。
「何隅っこで座ってんだよ、ほら飲め」
「結構です」
「オレも」
それでもなお、男はその場から離れない。酔いで真っ赤になった顔で、遠ざかる二人を追跡し執拗に酒を勧めて来る。
「男ならこれくらい飲めるだろ」
「飲めなくても男です」
「うんうん」
「そう言わずに」
「要らないですって」
「酒は好きではありません」
「そんなこと言うなよお、ほら、この酒、美味いぜ?」
「しつこい」
F-6133が睨みを利かせ、地の底から響くような声で言った。
男がたじろぐ。
「何だ、つまんねえの。じゃあ永ちゃん」
「ほんとしつけーんだよ、アンタ」ドスの利いた声だった。
F-6133と男は予想外の口調と態度に呆然とした。
そこまでして、男が諦めた。何やら悪態を吐いているが、具体的な内容までは聞き取れない。
「全く、迷惑極まりない。オレお酒飲めないのに」
「……そうだな」
「おや、もしや永ちゃん、下戸かい?」
先程の男が戻ったとほぼ同時に、他数人の局員が押し寄せてきた。
流石にまた酒を勧めて来ることはないが、酒臭い息が波のように漂い、永は顔をしかめ、F-6133はただでさえ固い表情筋を硬直させる。
「酒が飲めないならもっと食べろよ、若いんだから」
「オレが小食なの知ってるだろ!」
「まだ味噌汁しか飲んでねえじゃん」
「それで充分なの!」
呂律の回らない、真っ赤な顔の集団が、信じられないとでも言う風に永を見た。
そもそも永の前には一杯の椀だけが寂しく置かれている。他と同じ豪勢な食事はそこには無い。
「小食すぎない?」
「これ以上食べたら胃がはちきれるから」
「よくこの食事量であんなに動けるよな」
局員が笑った。
他の者が固まった。
F-6133は永から少し距離を置いた。酔いが回りきっていない局員たちの顔が引きつった。
酔っ払いたちは周囲の空気の変化に気づき、鈍った頭で考えた後、青ざめた。
壊れた機械のようなぎこちない動きで永に視線を戻す。
背筋を伸ばした、いかにも育ちの良さそうな人影が視界に映る。
永は笑顔を浮かべていた。
「口に出すなと言いましたよね?」
黒い瞳が細められた瞼の隙間から覗いた。
口を滑らせた局員は即座に土下座の準備をする。他の者は全力で空気になりきっていた。和気藹々とした室内が一転、氷点下の氷山の頂上に変わった。
「そんなに怖がらなくても。酔っていたでしょうし、悪意がないなら大目に見ます」
I-0759は少量の水を飲んで言った。
「すみませんでした」
頭が地面に衝突した衝撃で、机上の徳利が倒れかけた。慌てて他の局員が支える。
「まあ、酔いすぎて変なことを零さないように、ね」
I-0759は美しく笑った。
局員たちはほっと胸を撫でおろす。
「酔い、醒めちまった」
騒がしかった宴会場は、今や葬式に似た空気で満たされている。一人、I-0759だけが穏やかに笑う。
F-6133は表情を緩ませ、刺身を噛んでいる。そして幸せそうに目を伏せた。
土下座をした局員が身を縮まらせて自分の席にとぼとぼと歩いて行った。しつこく絡んできた男は、その局員よりも更に顔色が悪くなっている。
「ほら皆さん、そんなに静かになってどうしたのですか?」
「いえ、何でも……」酒を勧めた男が跳ねた。
「代われないので、早いうちに盛り上がって下さい」
「無茶言うな」
話し声が震えている。
F-6133は素知らぬ顔で漬物を摘まんでいる。
(この沢庵、美味い)
しばしの無言。
正座したまま震えていた局員の何人かが、盛られた食事に手を伸ばし始めた。
徐々に場の雰囲気が戻ってきた。
「あんたは、食べないの?」
「味噌汁だけで結構です」
「そんなだから体格に恵まれないんじゃ……」
「仕方が無いではありませんか。多分生まれつきこうなのです。あと、貴方より身長は高いですし、力も強いですよ?」
I-0759は細い腕を掲げた。力こぶは出来ない。
大柄な男が酒瓶を持ち、足を踏み鳴らして歩いてきた。
「がはは、よく言うもんだ」
大男は机上の皿を乱暴に端へどけた。汁物の水滴が椀から零れ落ちた。
重い音とともに、大男が肘を机上に下ろす。逞しい腕は大木の幹のようであり、年齢を示す白い頭髪は存在感が薄れている。振動に皿が跳ね上がった。
「退屈してたんだ、力比べでもしようや」
大男が勇ましい笑みを浮かべた。
局員の何人かは二人をはやし立て、残りは震えながら周囲を見回している。
I-0759が袖を捲った。骨の形が分かる白い腕が露になった。
「いいでしょう」
「意外だな、断るかと思っていたぞ」
「受け入れなければ諦めないでしょう? もう代わるつもりでしたが、その後から誘われても面倒です」
二人が互いの手を掴んだ。
男の掌に、冷たい感覚が走る。
「開始!」
はやし立てていた局員の一人が叫んだ。
大男が力を込めた。
そして腕が傾いた。男が力をかけた向きとは反対に。
「何っ⁈」
大男が唸る。その手の甲は、既に机に付きかけている。
I-0759は変わらず笑っている。
I-0759が力を強めた。
大男が踏ん張ったのも束の間、呆気なく勝敗が着いた。
「本当に強い……」
「……何が? 手、放してくれない?」
I-0759が言った。
笑顔は無く、困ったように眉尻を下げている。
「…………」
大男はふとした好奇心で腕を起こし、細い腕を倒した。
「うお痛え!」
肘から変な音が鳴った。
I-0759___永が涙目になる。
「何しやがる酒ゴリラ!」
「ははは、すまんすまん」
「肘折れるかと思ったぁ……」永が肘を抑えてF-6133に這い寄る。
F-6133はその頭を撫でた。
「頭撫でないでよ」
「すまない、衝動的に」
永は痛む肘を未だに抑えている。
大男は席に戻り、他の若者に絡みながら酒を飲み始めた。
I-0759が永に代わったことで場の空気が和み、局員たちは清々しい気分で酒を煽った。部屋の隅では腕を抑える永と、無表情で食事を頬張るF-6133が雑談を再開した。
飲酒によって気分が高揚した局員が立ち上がった。
「一発芸します。休日明けの鈴木」
食事と永の会話に集中するF-6133以外の全員が注目する中、その局員は片足に体重をかけ腕を組み、わざとらしく口角と瞼を下げ俯いた。
そして掠れた声で言った。
「ォオハヨウゴザイメァス……」
笑いが起こった。永は音圧に耳を塞いだ。
隣室の女性陣は、煩い笑い声に壁を睨む。「うるっせえんだよ野郎ども‼︎」
既に酔っぱらったN-924が呻き、机に突っ伏した。
「来ないよお……」
「まあまあ、まだ開始からそんなに経ってないでしょうに」
「そーお?」
「あんたが飲みすぎなのよ」
N-924は水を一気に飲み干した。
隣の女が背中をさすり、繰り返される愚痴に適当な相槌を付いている。N-924はだらだらと泣いた。飲み会開始から実に二時間が経っている。
そこでようやく。
「すまん、遅れた」
突然襖が開き、低いとも高いとも言えない声が入った。
その人物に、女性陣は一瞬身構えた。
細身だが平坦な体格に長身と地味な服装が、その人物を男だと勘違いさせたからだった。しかし長い黒髪と儚げな整った顔で警戒を緩めた。
N-924が空気を裂き、飛び掛かって抱き着こうとした。腐っても局員だ。
「華奈兎おおお!」
黒髪の女性___D-1082は迫ってきたN-924の頭を手で押さえた。
「遅いよ!」
「離れろ」
酔った脳を幾分か醒ます冷たい声に、N-924は僅かに冷静さを取り戻した。
それでもしつこくくっついて来ようとするN-924を他の女性局員が引きはがす。そこでようやくN-924は諦め、局員たちに連れられて座布団の上に腰を下ろした。
適当な空席___不運にもN-924の近く___にD-1082が座った。正面には刺身、漬物や汁物等々、豪勢な料理が並んでいる。
「何かあったの?」
隣席の、三つ編みの女性局員が尋ねた。
D-1082は箸を手に取った。
「軟派男に絡まれた」
「あら、貴女が?」
三つ編みの女性局員が目を見張った。しかし確かに、初対面の者が顔を見れば絶世の美女だと思って寄って来るだろう。実際美女だ。
「どうやって撃退したのよ」
D-1082は漬物を一切れ摘まみ上げる。
「志名の声を真似て話した」D-1082は漬物を噛み、飲み込んだ。
「成程ね……」女性局員___C-466は視線を下……D-1082の首と胴の間に落とした。小さい、と表現することすら大げさなまでな。完全な絶壁。
顔だけ見れば本当にただの美女だが、逆に顔を隠して体だけ見れば細身の青年のそれだ。男声で話せば簡単に誤魔化せるに違いない。外見と声の差を疑って体格を確認すれば、身長に反して寂しい胸部が目に入ることだろう。
「なにがあ?」N-924が首を突っ込んできた。「かなとはのまないのお?」
真っ赤な顔色でへらへらと笑っている。正常な距離感を失っているのか、やたらと近づいて来る頭をD-1082は文字通り手で制した。
「飲まない」寄って来る頭を押さえて言った。「お前は弱いくせに飲みすぎだ」
「ええー」
D-1082が水を差し出した。
酔いで狙いが定まらない手でN-924が受け取ろうとするので、C-466が間に入り上からコップを握らせた。
N-924は無駄に豪快に水を飲み干した。
冷水で先ほどよりは目の焦点が合って来た。
「華奈兎お酒飲めるでしょお?」滑舌はましになったが、妙に抑揚があり間延びしている。
「それはそうだが好きではない」
「何でえ? 下戸?」
「酔いが面倒だ」
「堅物ぅ!」
N-924は猪口に日本酒を注いだ。
「一杯でも飲んだらあ? 美味しいよお?」
「要らない。それと、お前はもう飲むな。明日に響くぞ、確実に」
D-1082が胡瓜を箸で掴むと、漬物の皿が空いた。
N-924は不機嫌そうな顔をした。そして猪口に溜まった分を飲み干し、冷水をもう一杯喉に流した。
徳利とコップを机に打ち付けるように置き、そのまま机上で腕を組み、寝息を立て始めた。酔い潰れたらしい。二日酔いは確実だ。
D-1082は呆れたようにその様子を一瞥した。
アルコールの力で気持ちよく馬鹿になっている本人は子供のように熟睡している。やがて小さな寝言が漏れ始めた。
「可愛いわねえ」C-466が微笑んで呟いた。「華奈兎は確かに、堅すぎるんじゃない? 仕事と外面以外、笑ってたことないわよね?」
「そんなことはない」
「あら、そう? でも、この子……琴弥は間抜けだからつい温かい目で見たくなるけど、貴女はあまり年下って感じがしないの。もう少し気を緩めてくれても良いのよ?」
「職業病だから気にするな」
「呆れた」局員が肩をすくめた。「まあきっと、五日後からはそれも治るわ」
C-466は白い外套を引っ張り出し、N-924の背中を覆った。N-924は微かに反応したが、すぐに規則的な呼吸を再開した。
裏の世界に生きているとは思えない、普通の愛らしい寝顔だ。
「この子も私も、貴女のこと待ってるのよ。早く馬鹿みたいな話で一緒に笑いたいって言ってたわ。正直なところ、貴女が心配なの」
「そうか」
「本当に無関心ね。曽賀谷くんと志名くんだって貴女のこと気にかけてるでしょ」
「知らん」
「全く……」
D-1082は同僚をよそに刺身を箸で摘まんだ。
時間が経つごとに酔っ払いも増え、騒がしさが増していく。それでもN-924は眠ったままだ。
普段の畏怖の念が消えたのか、D-1082に局員の何人かが絡んできた。
「あんたはどうなのよお」
「何が」
「終わったらどうすんのよ? いい感じの人いないのお?」
「さあ?」D-1082は目を合わせずに味噌汁を啜った。
碌に話さないD-1082に、女性局員たちは尚もしつこく答えを求める。
「皆、絡みすぎよ」
C-466が優しく諭す。彼女は女性局員のまとめ役で、局員全員から信頼されている優美で気丈な人物だった。しかしD-1082から見れば後輩である。
彼女の言葉に、絡んできた局員は素直に引き下がった。
何事も無かったかのように、D-1082は白米の椀と箸を両手に持っている。
『もしかして、華奈兎さん来た?』壁の向こうから、この場では珍しく呂律のはっきりとした声が通ってきた。
『らしいな』此方も素面のようだ。
もう既に大体の者が酔いつぶれたらしく、男部屋は静かになっている。永とF-6133の声が際立っていた。
女部屋のほうはまだ騒がしさが残るが、何人かは机に伏すなり壁にもたれかかるなり、夢の中に入っている。一番煩い女の声も落ち着いてきたので、すぐに静まるだろう。
黄金色の電灯に、三味線の音色が気だるげに眠気を誘う。
「私はどこで働こうかしら」
「気が早くないか?」
「まあ、そうだけど……、貴女たちが失敗するなんて思ってないから。心配とは言っても、成功の確信はあるの。杞憂ってやつね」C-466は猪口を傾けた。
D-1082の正面の皿はほぼ空になっている。余っているのは非食用の飾りだけ、箸は丁寧に揃えられていた。「いつの間に食べ終えたの」とC-466は低く言った。
「さて」C-466が口元を拭った。「そろそろ撤収しましょうか」
夢の住人と小声で対話するN-924の背中を揺さぶった。余程眠りが深いのか、一向に起きる気配を見せない。「これが伝説の……」など、何やら幸せそうに呟いている。
「最後まで目が覚めないようならば担いでいく」
「助かるわ」
C-466は残り多数の女性局員を見渡した。
「ほら皆、帰るわよー!」
手を叩く音に、何人かは瞼をゆっくりと上げた。残りは僅かに反応し、夢の世界に逆戻りした。起きた者がそうでない者の目を覚まそうとするも、彼女らのしぶとさに諦めて放置していた。
D-1082は瞬く間に帰りの準備を完全に整えた。
そして隣室___男部屋との隔壁___を軽く叩いた。
「撤収だ。起こせる者は起こせ」
『りょうかーい』間延びした声が応えた。
間もなくして『華奈兎さんどうしよ……全然起きない』と助けを求められた。
数分後。
局員の半数以上は撤収直前まで眠っていた。流石にその全員を運ぶことは出来ないため、その大半はF-6133とD-1082によって強制的に叩き起こされた。ある者は連続平手打ちを喰らい、またある者は耳元で叫ばれた。
「あと少し寝かせてくれ……」
局員が鬱陶しげに寝返りを打った。
F-6133はその耳元に顔を寄せる。「起きろ!」
よく通る声が鼓膜を揺さぶった。
「ぎゃあああ!!」局員が爆音に跳び起きた。
耳を塞ぎ、「俺の耳ないなった!」と悲鳴を上げる同僚を無視し、運べるだけの局員を肩に担ぐ。計百キログラムを超える重量を無いもののように担ぎ上げる二人に、局員は距離を置く。
「米俵じゃないんだから……」C-466が苦笑して言った。
「何で俺は担いでくれないんだよ……ねみい」耳を抑えて騒いでいた局員が目を擦る。
「お前の部屋は遠い」
F-6133の肩の上で、寝ながら局員が唸った。
一方のD-1082は肩の上ではなく、脇に抱えていた。二人の内一人はN-924だ。長い腕は人間の胴体を囲むのに十分な幅だった。
事前に金を渡していたD-1082とF-6133は気配を消し、店員に気づかれないよう外に出る。永は金を払い、至って普通に店を出たが、帽子を目深に被り、マスクで顔を隠していた。
料亭の外には、既に暗闇が広がっていた。
閑静な道路。建物の隙間。弱々しい無機質な光。
___何か出そう。
永は身震いし、先を歩く二人に駆け寄った。
「大分騒がしかったね」
「そうだな」
静寂が支配していた路地裏に、一人分の足音と三人分、そして四人分の影が浮かぶ。永が人二人を軽々と担ぎ上げるD-1082とF-6133を不思議そうに見つめた。
街灯の明かりが殆ど届かない道の真ん中で、永は更に二人に寄った。
闇と静けさが居るはずのない人物の気配を朧気に作り出している。それは永だけが感じる、二人には到底感知できない類のモノだった。温かいとも冷たいとも言えないような空気がそれを強調していた。
次の瞬間、体が何か冷たいものにぶつかった。
「離れろ、邪魔だ」D-1082が歩きながら言った。
「ああ、ごめん」
永は軽く頭を下げた。接触するほど近づいていたらしい。とは言え離れる勇気も無いため、永はF-6133の隣に移った。
「どうした」
「何でも?」
「やけに寄って来るが」
「だから何でも?」
「……怖いのか」
「違う!」
叫ぶが永が離れることはない。
帽子とマスクで顔の大半が見えない。F-6133はそれ以上追及しなかった。
幸運にも、料亭は団地からそう遠くない場所にあった。
窓からは疎らに暖色の光が漏れている。不憫な不参加者たちの部屋だった。その中には多忙かつ顔の知れた軍人である局長も含まれる。
その時、D-1082の脇に抱えられていたN-924が目を覚ました。
「あれえ? 何で目の前に寮があるの?」
未だ呂律が怪しい。
D-1082はN-924を腕から下ろした。地に足が付き、ふらつく体をD-1082が肘で支える。腹に固い肘がめり込み、N-924が「ぐえっ」と呻いた。
「琴弥さんおはよう」永が顔を覗かせた。
帽子にマスクという、不審者じみた格好の人物にN-924は肩を震わせた。
女にも見える体格だが声は低く、肌は幽鬼の如く青白い。心霊、の語が頭を過った。
「うわあびっくりした! 何だ、永ちゃんか」
人目が無いことを確認し、永は帽子とマスクを取った。
「正解! どうして皆、オレのこと『ちゃん』付けで呼ぶんだろうね?」
まともに話せる人物の目覚めに、永は輝くような笑顔をいっぱいに浮かべた。
N-924は腹を摩り、とりあえず笑い返した。
「そういうところだよ」
「どういうところ?」ただでさえ大きな眼が更に丸くなった。
N-924の口角が斜めに吊り上がる。
「ねえ華奈兎?」
N-924が振り返った。そこにあるのは空気。
二人はその時、D-1082が居ないことに気が付いた。
「おや?」
視線を振ると、団地の入り口にもう一人の女性局員を抱えたD-1082の、歩いて去る後ろ姿がある。
「あー! あの人もう先に居る!」
「待てこらー!」
「足元に気を付けろ」
速度を緩める様子は無く、D-1082はすたすたと歩いていく。
二人と、F-6133は駆け出し、傲岸不遜な同僚を目指した。
・・・
「ねえ」
玖鴎華奈兎の自室に上がり込み、恋愛小説を読んでいたN-924が口を開いた。
必要最低限の家具のみが置かれた質素な部屋には奇妙な息苦しさと同時に無駄が無い故の安心感が漂う。
「華奈兎は最終任務、どう思う?」
「藪から棒に何だ」近代小説に目を通し、N-924に背を向けたままD-1082が言った。
静寂が部屋に降りる。
「最終任務で“あの組織”に乗り込むんでしょ?」
「そうだな」
「不安じゃないの?」
絞り出すような上ずった、悲鳴のような声でN-924が言った。
「先ほどまで酔って寝ていたにしてはえらく深刻だな」
小説から目を離さずに、D-1082は手元の珈琲を取った。
時計の針の音が静寂を不器用に埋めている。
「楽しい時間が終わると、何だか空しくて……何か不安になるというか…………」
「一刻の気の揺らぎに付き合わせるな」
「ごめんて」
N-924が小さく笑った。
「以前答えた通りだ」
尚もD-1082は字を目で追い、平坦で関心のない声を発していた。
N-924は僅かに目を見開いた。
そして呆れと安心を滲ませて笑った。
「そっか!」
失敗はしない。
例えそれが望まれる結末で無くても。
必ず成功する。
・・・
「貴方は『何故』でしたっけ?」
「……お前か」
I-0759は左目に髪を下ろした。
F-6133が表情を硬くし、視線を落とした。
「罪滅ぼしだ」
I-0759は神話の小説を一つ手に取る。
「へえ」冷めた声色が応えた。
F-6133は閉口した。
十秒、二十秒……空白の時間は会話の終わりを示す。
「聞かないのですか?」
「覚えている」
「ではもう戻りましょうかね」
I-0759は左目にかかった前髪に手をかけようとした。
「待て」
その手を細い手が掴む。
「何です? 痛いので離して下さい」
「そんなに力んでいたか?」F-6133は力を緩めた。
「嘘ですよ」
腕を下ろし、I-0759が笑んだ。
永とは似ても似つかない不気味さを秘めていた。
「永ではなく、お前とも少し話がしたい」
「彼ほど面白い話は出来ませんが」
「どちらでもいい。あと永は『ほど』と言うほど面白くは無い」
「酷いですねえ」
・・・
夢を見た。
「あの人」の夢だった。「あの人」が布団に入っている自分を見て笑う。
どう返すべきかが分からず、黙って「あの人」を見る。
「あの人」が部屋を出ていく。
部屋の中からも外からも、何も聞こえなくなる。
布団を出る。居間の戸を開ける。
___赤い水が広がる____。
「彼奴」の夢だった。
屈託のない笑顔とともに、「彼奴」が手を差し伸べて来る。
自分はその手を取ろうとする。
「彼奴」の手は握り返してくれない。
「彼奴」を見上げる。
手は冷たくなっている。
___手に赤い液体が伝う____。
「彼ら」の夢だった。
自分が「彼ら」と笑顔を交わしている。
胸に温かい悲しみが芽生える。
突然、何も見えなくなる。
見えるくらいの暗さになる。
___赤く汚れた「彼ら」が目の前で倒れる____。
・・・
局は今までにない緊張感で満たされていた。
普段は冷静な局長でさえも、目を泳がせ溜息を吐いている。
手を組んで神に祈る者、ただひたすらに柱を睨む者、友人と不安を吐露し合う者、さまざまだった。
彼らの中で、動揺を見せない者が三人居た。
紅い瞳の女性、D-1082は銃火器と刀の手入れをしている。
茶髪の青年、F-6133は武器を選別している。
黒い瞳の青年、I-0759は見取り図を見下ろし、思考の世界を旅している。
「最終任務」
その言葉が嫌と言うほど心臓を突き上げ、得体の知れない苦痛を局員たちの脳に与え続けている。
今回こそが最大の希望だった。今まで何度も、「あの組織」を殲滅させるための任務は実行されてきた。ある時は局員の半数を突撃させ、またある時は潜入によって情報を人質にしようと企んだ。全てが無駄に終わった。
それに比べて今回の特攻人数は三人。それも軍人でもない若者ばかり。
ただ、化け物相手に真面な判断力は要求されない。
既に五桁を超える遂行任務件数。殲滅した組織は百や二百ではない。そして他者と関わらない故の得体の知れなさ。
実際、彼彼女らは普段と何ら変わらない様子で任務に備えている。
刻一刻と、局員の心臓の痛みは激しくなっていく。
「そこの短刀を取ってくれ」
「これか」D-1082はF-6133に黒い柄と鞘の短刀を投げてよこした。
回りながら飛んできた短刀の柄を掴み、背広の内側に隠す。
I-0759は見取り図を折り畳んだ。武器庫に歩き、指示されたかのように迷いなく武器を手に取る。
短刀、拳銃、煙幕。
最後に、三人はおなじ刀を手に持った。
D-1082が刀の柄を引き、隙間から銀の刃が覗いた。
「華奈兎」
震える声が背後からかかり、D-1082は振り向いた。
そこにはN-924が俯いて立っている。
「きっと成功するよね。心配なことは無いよね」背広の裾をきつく握り、絞り出して言った。
D-1082は友人を名乗っていた女性を見て黙っている。
「華奈兎?」
N-924は隈と涙の跡を残した顔を上げた。
目の前の人物の紅い瞳はどうしても空虚だった。
雑音の無い無機質な室内に重い静寂が満ちる。
D-1082は前に向き直った。
「失敗する心算は無い」
いつものような、冷たく抑揚の少ない口調。安心させる気遣いも、堅い決意の一切も含まない。
その声音が何よりの安心材料だった。
黒背広を纏った、背の高い後ろ姿が遠のく。
背中から何かの感情を感じ取るなんてことも全くなく、静かに友人が自分の元を去っていく。
N-924は握力を解いた。
段々と小さくなる友人に背を向け、自分の持ち場へと歩き出した。
二人は二度と振り返らなかった。
・・・
その組織は戦後すぐに設立された。
一つの区とも呼べる広大な支配領域。立ち並ぶ三つの黒く背の高い王宮。
数多の非合法組織の中で、真に人々の恐怖心を駆り立て、復讐心の対象となるのはそれだった。
国家に恨みを持つ軍人達を中心として、不幸な境遇を歩まされた一般市民が集まり、更に犯罪者が絶好の隠れ家として集結した経緯で、国内最大の組織として膨れ上がったそれ……A-91は、この二九年間、一度も壊滅の兆しを見せていない。
二十年前と十七年前、非合法特別対策局は部隊を派遣した。一度目の局員数は七三、およそ総数の半分だった。二度目はより多くの局員を遣わした。一度目の相手の犠牲者は約十人、二度目は四人。局員はどちらも全滅。精一杯の実績がその有様だ。
そして局が半壊した原因は、A-91に他ならない。
故に今回の任務が三度目の、そして最大の希望だった。
局員数十人でようやく壊滅できる組織を単独で何度も潰してきた。半壊後手すら出せなかった中規模組織を三人がかり、無傷で殲滅した。その三体の怪物が、現在そこに向かっている。
この日を以て全てが終わるかもしれない。
期待と不安が局員の胸の内に渦巻いた。
それを知る由もなく、A-91は目立った対策もせずにただ佇んでいた。
彼らは既にA-91拠点の目前だった。
・・・
運転手の手は震えている。
ずっと恨んできた組織がすぐ近くにある。
家族の仇。しかし戦闘の才に恵まれず、局の専属運転手として働いてきた。
腰にある銃を抜き、今すぐにでもA-91に走って突っ込みたい。復讐心を抑えようと、腕に爪を立てる。
自分の仕事は戦闘班の送迎。むやみに突っ込んで死ぬことじゃない。
後部座席の戸が開く。若いながらも古株の女性上司が降りようとしている。
「殲滅してやるから大人しく帰れ」
一言も発さなかった人物からの突然の忠告に運転手の心臓が跳ね上がった。
振り返った場所にもう姿は無く、冷涼な空気だけが復讐の熱を冷ますように漂っていた。
頭から冷水をかけられる感覚が目を覚ます。
運転手は無言でハンドルを切った。
「準備は?」
「問題ない。確認も取ってある」
登場人物プロフィールその4
N-924
本名 ** **
偽名 依崎 琴弥
年齢 20歳
身長 159cm
体重 秘密
好きな物・・・恋愛小説、スイーツ、猫
嫌いな物・・・DV野郎、虫、ヒトコワ系の怪談
好きな言葉・・・花鳥風月
恋愛的な好み・・・優しくてちょっと小柄な人
特技・・・家事全般
最近あった良いこと・・・お酒が飲めるようになった




