彼方のあの場所
とある極東の島国でのことである。
二年前まで非合法組織が支配していたとは思えないほど、その国は平和だった。
最後の組織に無人航空機が突っ込んだ事件。犠牲者は一人も出ず、人々はようやく戻って来た平和な生活を過ごし、穏やかな風を浴びている。
子供たちは親が付いていなくても学校に通えるようになった。
誰かを一人で留守番させることも許されるようになっていた。
戦争の残した火は、もう国のどこにも見当たらなかった。
今日も主婦の井戸端会議と、犬の散歩をする中年男性と、スケートボードの上で笑顔を浮かべる少年たちが町を行き交っている。大学生になった少年は友人を連れてゲームセンターに向かっていた。
退屈で尊い、平和な日常。
誰がそれを取り戻したか、なんて、彼らは知りもしない。
______それを知る者たちの墓地では、一人の女性が手を合わせていた。
小柄な、茶髪の若い女性だった。
横並びになっている三つの墓石には、彼女が持ってきたと思われる白い花が添えられていた。まだ新しい、目だった汚れも欠けも無い墓石だ。
その墓地には他に誰も居ない。
女性は黙って合掌しながら、涼しい風に髪を揺られている。
花びらが一枚、どこかに散って流れた。
「墓参りか、依崎」
そこに、男性の声が言った。
低く、揺らぎが無く、明らかに非合法組織に怯えて過ごしてきた一般人ではなかった。
女性は声の主を見た。突然かけられた声にも動じずに。
「…………局長」
女性はかつての上司に、懐かしいとはまた違った視線を向け、すぐにまた墓石に向き直った。
男性_____元、非合法特別対策局局長は、黒い外套を揺らして墓石に歩み寄った。
「もう依崎じゃありませんよ。澪村です」
墓石を見詰めたまま、女性は淡々と言った。
「すまんな」
元局長は二つ隣りの墓石に手を合わせた。
再び静寂が降りた。
非合法特別対策局の局員たちの墓。いままでの犠牲者分が並んでいるので、特定の個人の墓を見つけるだけでも時間がかかる。
しかしその三つの墓地だけは新しく、目立っていた。
「……華奈兎の」
不意に、女性が呟いた。
雫が落ちるような、か細い声だった。
「華奈兎の名前、あいつ、教えてくれなかったんです。永ちゃんも、志名さんも」
女性は譫言のように言った。
局長はそれを黙って聞いていた。
女性____澪村の足元には、一つの酒瓶と桶が置かれている。酒はブランデーだった。
澪村が膝を付いている二つ隣、男性が手を合わせている反対側の墓石からは、微かにアルコールの匂いが漂っている。
澪村の正面の墓石には、「玖鴎」の文字が。酒のかかったものには「曽賀谷」が、その中間の石には「志名」の文字が刻まれている。
最後の作戦で犠牲になった、あの三人の墓だ。
野次馬が来る前に、三人の死体は回収された。その後は局員のみが参加する葬式が開かれ、無事に彼らの死体は火葬されて今は地中に埋まっている。
しかし、想定していたよりも骨と灰の量は少なかった。志名の右腕は見つかったが、永は下半身と左腕を潰されていた。華奈兎はというと、四肢全てが消し飛んでいた。
あの三人の死を嘆く人は予想していたよりも多かった。葬式ではちらほらとすすり泣く声が聞こえて来たことを鮮明に覚えている。
局長は見る限り、大した変化は無かった。十数年局に勤めている身だ、人の死にはとっくに慣れてしまっているのだろう。
澪村は顔を上げた。
「局長なら、三人の名前を知っていますよね? もう呼ぶ相手なんて居ませんけど、折角なので教えてください」
どこか空虚な瞳だった。
局長は一度、三人の墓に目を向けた。
そして澪村の背後を歩き、墓石を順に眺めて行った。
「『清宣音真翠』」
玖鷗、と記された墓を通り過ぎながら、局長は小さく呟くように言った。
そして志名の墓を見た。
「『廻蒐久郎』」
最後は、曽賀谷の墓だった。
「『凪織藍晶』」
局長はそのまま、振り返らずに墓地を去って行った。
澪村は華奈兎の墓を見詰めていた。
「それがあいつらの本名だ」
最後に局長はそう言って、墓地の門を出た。
墓には、石と澪村だけが残された。
「だってさ、真翠。あんた意外と難しい名前してんだね」
澪村は小さく独り言ちた。
その表情は微笑んでいた。
「私の名前はね、咲夢だよ。伝えられたら良かったのに、本当、クソ合理主義はさあ」
まあ、仕方のないこともあるだろう。
何せ局に入った時、真翠は五歳、廻蒐と藍晶は六歳くらいから局員だったことになるのだから。碌な倫理観が育つわけも無い。
不思議と涙は出て来ない。
澪村は酒瓶と桶を持って立ち上がった。
「じゃあね、真翠、廻蒐さん、藍晶ちゃん」
君たちが取り戻してくれた平和な日々、君たちの名前を背負って生きるからね。
時間が過ぎて、夢が叶って、好きな人が出来て、子供が出来て、私は幸せになっていれてる。
幽霊になったのか、天国か地獄に行ったのか_____はたまた、誰かに生まれ変わったのか、私には何一つ分からないけど。
「ありがとう」
・・・
一つの風が吹いた。
セノカはふと、足を止めた。
何か懐かしい気配がする。
(…………琴弥)
かつて、自分を友人だと言って絡んできた人物の名前が思い浮かんだ。
何故今、それを思い出したのか。
持ち前の思考力では分からなかった。
「……セノカさん?」
突然止んだ足音に、シャノンは振り返った。
どこか、遥か彼方、遠い場所を眺めるセノカが立っている。
夕日が金髪を黄金色に照らしている。
やがて、セノカはまた歩き出した。
もう、前世のことなど遠い過去だ。琴弥も関係の無い、平穏な日々を過ごすだけの一般人。
しかし今も、あいつと同じような「友人」に囲まれている。
性格こそ違えど、彼女らもしつこさはよく似ている。
もしかしたら、琴弥よりもずっと短い付き合いになるかもしれない。
前世と同じだ。自分とは別の世界の住人なのだから、一定以上に踏みこむ必要など無い。
琴弥がそれを聞けば怒るだろう。
それでも、自分に出来る判断はそれだけだ。
だから、
_______すまない。




