藍晶石の劈開、永久に咲く女郎花
局の拠点内には訓練場がある。
教官との実践訓練、射撃訓練、体術訓練、等々。
D-1082とF-6133は体術訓練場で拳を交わし合っていた。局員用の黒背広ではなく通気性と吸水性に優れた私服を着ている。
F-6133の蹴りが空気を割いてD-1082に飛ぶ。頭を下げて攻撃を躱し、次はF-6133の胴体を白い握り拳が狙う。直撃の寸前で手を滑り込ませ、衝撃を緩和して後ろに飛ぶと、そこには既にD-1082が回り込んでいた。背後から放たれた蹴りを回転で避け、素早く拳を繰り出す。しかしそれも回避され、腕を掴まれる。D-1082はもう片方の肘で額を殴ろうとする。F-6133はすぐさま腕を引き抜き、頭の位置をずらす。D-1082の攻撃が空振り、一瞬の隙が生まれた。その隙を突いて脇腹に蹴りを入れようとするも、相手の体は高く飛び上がり攻撃範囲から外れていた。着地時を狙ってF-6133が拳を打ち出す。D-1082は回転蹴りを放つ。旋風が巻き起こった。
そこで戦闘終了の報告音が鳴った。
二人が力を解いた。
「時間だ」D-1082が床に降り立ち、黒髪が舞った。「帰るぞ」
「明日も頼む」
F-6133が汗を拭った。
「明日は飲み会だ」
「行くのか?」F-6133はほんの僅かに目を見開いた。
「そこまで非情ではない」
「そうか」
D-1082が扉を開き、退室した。
F-6133は部屋の隅に置かれていた水筒とタオルを手に取り、後を追うように開け放たれた扉から出た。自動点灯式の電灯が消え、訓練場は暗闇に溶け込んだ。
「俺はあいつの部屋に行く。お前は」
「来ない」
食い気味だった。F-6133は気を悪くする様子は見せず、無表情のまま頷いた。
「毎日のように訪ねる必要はあるのか?」
「一日中誰とも会わないのが哀れなだけだ」
「どうせ明日の飲み会には来るだろう」
「そういう問題ではない」
D-1082は疑わし気に相手を睨んだ。
「本当に哀れなだけには見えないが」
数秒の間があった。F-6133が目を逸らす。「……正直なところ、体調を憂いている」
「兄か、貴様は」
・・・
湯を浴びた後、F-6133は自宅の隣のインターフォンを押した。
拠点の地上に建つ団地は局員寮だ。各部屋の戸の横にある名前は全て偽名であり、情報を持たない者から見れば何も怪しいことはない、世間に公開されている通りの団地そのものだった。
F-6133の自宅には「志名雅菊」の字が記されている。
彼が立つ部屋の持ち主は「曽賀谷永」である。
「はーい」
くぐもった、若い男性の声が応えた。
間もなくして、黒く平坦な扉が開いた。
「ああ、菊さん。こんばんはー」
「体調はどうだ」
「いつも通り。元気ではないけど、何とも無いよ」
長身で痩せている体躯に反した、生命力を感じさせる挙動。青白い肌。黒曜石を彷彿とさせる美しく黒い瞳は無邪気さと優しさをたたえている。
くすんだ鳶色の髪が揺れた。
それは紛れもなくI-0759、本人だった。
「今日は華奈兎さん、居ないんだ」
「断られてしまった」
「予想外れちゃったなー」
朗らかな笑顔は、普段見せるそれとは全く別人だ。残虐さと不気味さは微塵も持ち合わせていない。
二重人格。
正式名称は「解離性人格障害」。I-0759、と言うより目の前の青年が持つ特徴の一つである欠陥。
彼に任務中の記憶は無い。任務後に自宅を訪ねると、現れるのはI-0759ではなく、「曽賀谷永」という名の青年だけだ。本名で無い筈の名は、彼の人格を明確に二つに分け隔てている。
勿論、「雅菊」、「華奈兎」、「永」は存在しない人間だ。
しかし、局員でないときのI-0759はそれを知らない。彼にも本名があり、それを自覚してもいるが、局と彼の事情で「永」を名乗って生きている。
全ての局員がそれを知っている。何人かの悪意を持った人間が、彼の殺人を永に暴こうとした。そのまた全てが、翌日に姿を消し、今も見つかっていない。最も疑わしい人物は何事も無かったかのように現在も仕事を続けている。
もう一つの人格___I-0759は、局員に忠告した。
「彼に局のことは喋らないように」
意味深な笑みとともに、「彼の平穏を崩すような発言をしたときは……」と、良く聞こえる呟きを一つ残した。
人格の主導権は局員I-0759が握っている。そしてどちらの記憶をも有している。
局員としての仕事のことを口に出したとき、自分が無事である確率は限りなく低い。だからF-6133たちは細心の注意を払って彼と接している。
「明日の夜、飲み会があるらしい」
「へえ、何かめでたいことでもあったの?」
「何も。主催者のきまぐれだ」
「賑やかだなあ」
鈴を転がした笑い声が空気に緩やかな波を起こす。
永が戸を広く開き、手で室内を示した。
「こんな所じゃ何だし、入りなよ」
「ありがとう」
F-6133は靴を脱いで、揃えた。
玄関に靴臭さは無く、良く整理されている。
「珈琲か紅茶、入れようか?」
「珈琲で」
永は居間の中に消えた。I-0759のときは突然気配もなく目の前から去っているが、永のときは気配が駄々洩れでF-6133は反射的に隙を突き攻撃したくなる。長年殺しを続けてきた癖だ。
「菊さん、ブラックしか無い。オレはブラックでも飲めるけど、菊さんは甘いのが好きだよね?」
「構わん」
改めて言われると気恥ずかしくなる。
F-6133は居間のソファに腰かけた。
机の上には、トランプのカードが散乱し、数冊の書物が積み重ねられている。一冊だけが本の山から外れ、栞が挟まれている。大方、趣味である奇術の練習と読書でもしていたのだろう。邪魔してしまったことが申し訳ない。
積まれた書物の一冊を手に取る。意外なことに近代作品だった。
文字を目で追っていると、黒い袖から伸びた青白い手が横から差し出された。
「どーぞ」
真っ黒な液体が、白い陶器の中で波紋を立てていた。
そっと口に運ぶと、濃い苦みが広がった。
「お味は?」
「美味い」
「それは何より」
永がF-6133の隣に腰を下ろした。
トランプを回収し、立体状に纏める。書物はそのままだった。
「飲み会か。皆と会うのは久し振りだ」どこか切なげに永が言った。
「そうだったか?」
「そうだよ! 何故かいつも日暮れに目が覚めるんだもの」
「……成程」
永は珈琲を啜り、黒い瞳に憂いを浮かべた。
その光景が、至って普通の青年であるのにF-6133は妖怪の類を発見するほど珍しいものに見えた。
「オレも、皆と長く会いたいから」
永が小さく言葉を零した。
至極当たり前の事に違いない。しかし過去の彼ともう一人の自分がそれを許さなかった。局に入った以上、二つの人格、それも一つに残酷な殺人者を宿す永は、友人と呼ぶ局員と平凡な時間を共にすることが今まで滅多に出来ていない。
F-6133は言葉に詰まった。
最終任務が終われば、局は解体される。局員たちは用意された偽りの経歴を与えられ、新しい職に就き、平和な人生を送る。遂行する三人以外は、それがほぼ確実に約束されている。三人も、任務が失敗するなどとは思っていない。
本来ならば、他の局員とおなじように平和に暮らす筈だった。
だが、それが許されるには、三人は殺しすぎた。
何より、時間が無かった。
I-0759は言っていた。
「どんなに情が移っても、そのことは言わないで下さい」
F-6133は目を合わせなかった。不思議そうに顔を覗き込む永が、「菊さん?」と呼び掛けた。
「…………お前は、……」F-6133が言おうとした。
言葉の先は無かった。
永が首を傾げ、何やら重い空気を誤魔化すように微笑んでいる。
「どうした?」
「……いや」無表情でF-6133はようやく永に顔を向けた。「会えるといいな」
「? うん。……ところで……」
永はトランプの束を手に取り、悪戯っぽい表情を浮かべた。
登場人物プロフィールその2
F-6133
本名 ** **
偽名 志名 雅菊
年齢 21歳
身長 187cm
体重 64kg
好きなもの・・・漬け物、甘味、動物
嫌いなもの・・・自分、運任せ
好きな言葉・・・世界平和
恋愛的な好み・・・恋愛……単語としての意味は知っている
特技・・・肉弾戦
最近あった良いこと・・・歩いていたら猫が寄って来た




