【幕間:堕ちた男、そして誕生】
内容を修正しました。
星野の人物像を全体的に変更しました。
朝のチャイムが鳴り、講義室にざわめきが戻る。
椅子が引かれる音、ノートを閉じる乾いた音、誰かが小さく伸びをする気配。
「……終わったか」
小さく呟きながら、星野光一はペンを置いた。
ノートには几帳面な文字が並び、余白には補足のメモが整然と書き込まれている。
前列では、熱心そうな学生が教授を囲み、専門的な質問を投げかけていた。
後方ではすでに鞄を肩に掛け、スマートフォンを操作しながら立ち上がる者もいる。
二十二歳。
大学では成績は安定している。
試験もレポートも、要点を押さえれば評価は取れる。
教授からの評価も悪くない。
ゼミの誘いを受けたことも、一度や二度ではなかった。
――それでも。
(講義を受けただけじゃ、金は増えない)
星野は、周囲より少し遅れて立ち上がると、静かに教室を後にした。
廊下に出ると、昼前の光が窓から差し込み、床に白く反射している。
午後は空きコマ。
だが、休憩に使える時間ではない。
そのままキャンパスを抜け、駅とは逆方向へ足を向ける。
人通りが減り、看板の色もくすんでいく。
飲食店の裏口。
鉄扉を開けた瞬間、油と洗剤の混じった匂いが鼻を突いた。
「お疲れっす」
「おう、早いな。助かるよ」
軽く頭を下げ、ロッカーからエプロンを取り出す。
鏡に映った自分は、どこにでもいる大学生の顔をしていた。
皿洗い。
仕込みの手伝い。
床掃除。
単純で、繰り返しの作業。
頭を使う余地はほとんどない。
(時給は……悪くない。でも)
水の流れる音を聞きながら、星野は自然と数字を思い浮かべる。
家賃。
光熱費。
食費。
学費。
(……今月も、ギリギリだな)
無駄遣いはしていない。
服も最低限。
外食も控えている。
それでも、余裕は生まれない。
(バイトを増やせば、講義に出られなくなる。
講義を優先すれば、金が足りない)
誰かが冗談を言って笑っている声が聞こえる。
それを横目に、星野は黙々と手を動かし続けた。
「真面目にやってれば報われる、ね……」
理屈は分かっている。
社会は努力だけで回っているわけじゃない。
それでも――
自分は“分かっている側”だと思っていた。
(なのに、なんでこんなに余裕がない)
夜。
店を出ると、街はまだ人で溢れていた。
スーツ姿で電話をしながら歩く社会人。
楽しそうに笑い合う学生たち。
ブランド物を身につけ、堂々と歩く人間。
星野は、彼らを羨ましいとは思わなかった。
――ただ、冷めた目で見ていた。
(仕組みも理解せず、流されて生きてるだけなのに)
自分の方が、考えている。
自分の方が、合理的だ。
そのとき、すれ違いざまに聞こえてきた会話が、耳に引っかかった。
「この前の強盗、まだ捕まってないらしいよ」
「警察も手間取ってるって」
「夜、怖いよねぇ」
足が、自然と止まる。
(……強盗)
頭の中で条件が並び始める。
成功率。
リスク。
リターン。
(……理屈だけで見れば、効率はいい)
善悪は、最初から計算に含まれていない。
社会のルールを、どう使うか。
それだけの話だった。
◇
数日後の夜。
星野は、街灯の少ない路地裏を歩いていた。
狙いは、小さな中古ブランド店。
「……想定通りだ」
裏口の鍵は静かに外れ、店内へ滑り込む。
金庫の前でしゃがみ込み、耳を当てる。
その瞬間。
「――誰だ!」
背後に立っていたのは、店主の老人だった。
目を見開き、震える手でこちらを指差している。
「……動かないでください。抵抗しなければ――」
「やめてくれ……頼む……」
老人が一歩踏み出した。
その動きが、星野の思考を断ち切った。
――計画が崩れる。
その恐怖だけが、身体を動かした。
刃が突き出され、
次の瞬間、老人は床に倒れていた。
「……あ……?」
赤が、じわりと広がる。
老人の口が、何かを言おうとして動き――止まった。
「……違う……想定外だ……」
だが、もう取り消せない。
警報音が鳴り響く。
「くそ……!」
星野はバッグを掴み、裏口から飛び出した。
◇
サイレン。
赤色灯。
街全体が、自分を追い立ててくるように感じられた。
「止まれ!」
背後から飛ぶ怒号に、星野は歯を食いしばる。
路地を抜け、フェンスを越え、ただ前だけを見て走る。
肺が焼けるように痛む。
足が、徐々に重くなる。
(冷静に……まだ……)
だが、逃げ道は思ったよりも早く尽きた。
視界の先に広がるのは、夜の線路。
遮断機は上がり、遠くで微かに警笛の音が聞こえる。
「そっちは行き止まりだ!」
警察の声が、背後から迫る。
振り返る暇はなかった。
考えるより先に、身体が動いた。
砂利を踏みしめ、線路内へ飛び降りる。
足元が不安定になり、バランスを崩しかける。
(……まずい)
その瞬間。
――轟音。
闇を裂くように、白い光が迫ってくる。
警笛が、至近距離で鳴り響いた。
「……っ」
逃げようとした足が、砂利に取られた。
世界が、スローモーションになる。
迫る鉄の塊。
風圧。
耳を潰すような音。
(……ここまで、か)
理屈も、計算も、
すべてが、どうでもよくなった。
次の瞬間、
衝撃が全身を打ち砕いた。
◇
――次に目を覚ましたとき。
冷たい土の感触。
見知らぬ空。
風の音。
「……ここは……?」
身体を起こす。
手を見る。
「……誰だ……?」
声も、身体も、まるで別人だった。
周囲には森が広がり、遠くで獣の唸り声が聞こえる。
やがて、人と魔物の争いを目にし、その結末を見届ける。
理解が、ゆっくりと追いついていく。
「……なるほど……」
死体から装備を剥ぎ取りながら、静かに呟く。
「世界が変わった、のか?」
ここには、警察も、過去も、社会の評価もない。
あるのは、力と知恵だけ。
「……名前も、捨てよう」
少し考え、口にする。
「シリウス……それでいい」
知性が、この世界でこそ価値を持つ。
そう、確信していた。
「ここなら……俺は、正しく生きられる」
森の奥へ、一歩踏み出す。
アデルと出会う十七年前。
一人の知性が、罪と合理性を携え、
異世界で歩き始めた瞬間だった。




