【第六話:夜に揺れるもの】
夜の帳が下りた魔導学園ルクシア。
講義が終わった後の校舎は静まり返り、魔導灯だけが淡い光を灯していた。
その一角――訓練場と呼ばれる、魔力実験用の無人演習場。
誰にも気づかれぬよう、その場に立つ影があった。
リリス:ブラッド。
黒髪を夜風に揺らしながら、彼女は黙然と標的を見据える。頬をかすめる風すら、集中を妨げる要素に感じるほど、彼女は研ぎ澄まされていた。
「……っ」
彼女が小さく息を吸うと同時に、周囲の魔力が揺れる。髪が静かに紅に染まっていく。
月光の下、その変化はまるで幻のように見える。だが、確かに彼女の中で何かが目を覚まし、渦巻いていた。
放たれた魔力は、赤き弧を描いて空間を裂き、模擬標的を消し飛ばす。
爆音ではなく、鋭い風切り音とともに焼け焦げた空気が鼻を刺す。
「まだ……足りない……」
その呟きには、自分に対する苛立ちと焦燥が混ざっていた。
リリスは静かに目を伏せたまま、しばらく言葉を探すように唇を閉じていた。
静寂のなか、魔導灯の淡い光が彼女の横顔を照らす。
(弱さを抱えているのは、きっと皆同じ。
でもあたしは――止まりたくない)
指先に残る魔力の熱を感じながら、彼女はそっと拳を握る。
揺るがぬ意思が、その目に宿っていた。
「……もっと強くならなきゃ」
その声に混じる決意と怒りが、また紅の魔力を引き寄せる。
だがその瞬間、背後で砂利を踏む微かな音が響いた。
「……訓練か?」
その声に、リリスは素早く振り返る。だが、驚きは見せなかった。
ただ淡々と、目を細めてその男の名を呼ぶ。
「……覗きとは趣味が悪いわね、アデルくん?」
「いや、こっちが驚いたよ。夜に訓練場に誰かいるなんて思ってなかったからさ」
アデル:セリオルは、遠巻きに彼女を見つめていた。
赤く染まりかけていた髪は、すでに黒へ戻っている。そのことをアデルが気づくことはなかった。
「さっき魔法使ってたろ?使ってたのはなんて魔法なんだ?」
「……なんの魔法でもいいでしょ?あんたには内緒よ」
リリスの声音がわずかに冷たく素っ気なくなる。
「ふぅ、、さっきのは《風》と《炎》を扱う魔法よ。まだ未完成の魔法だからあまり話したくない、それだけよ」
言葉こそ明かしたが、その内心では別の警戒心が芽生えていた。
(あんたにだけは、知られたくない。私がどんな魔法を使ってるか、私がどんな存在なのかを……)
「なるほどな。けど、夜まで鍛錬してるなんてすごいな」
「……弱い自分が嫌なのよ。あんたも同じじゃない?」
アデルは静かに頷く。
「俺も、自分の力に振り回されたくないだけさ。
だから、剣を振るって心を落ち着ける。夜の静けさは、ちょうどいい」
「ふぅん……少しは見直したわ」
リリスはその場に腰を下ろす。アデルも少し離れた位置に座り、互いに視線は交わさない。
「言っておくけど、私は全部を話すつもりはないわよ?」
「別にいいよ。誰だって言えないことくらいある」
「……変な奴」
会話が途切れ、夜風が二人の間を優しく通り抜けていった。
「そういえば、アスラって子。なにかあるの?」
リリスが口を開いた。まるで何気ない話題のように見せかけて、その瞳は真剣だった。
「アスラ? ああ……なんか、敵意っていうか、変な執着を向けられてる感じがしてさ。でも、正直よくわからない」
「……あの目、ただの対抗心だけじゃない」
「うん。でも俺、ああいう真剣な目は嫌いじゃない」
その言葉に、リリスは一瞬だけ表情を揺らした。
(あたしの目も……真剣に、見えるのかしら)
「……そう」
それきり、リリスは言葉を閉ざす。
その夜、アデルの夢に現れたのは、紅い月と巨大な鎌を振るう黒き影。
ただの夢――そう思いたかったが、胸の奥に残るざわめきが、それが夢では済まされないと告げていた。
《彼女は、牙を隠している》
誰が、とは言わない。アスラかもしれない。リリスかもしれない。
もしかすれば、自分自身かもしれない。
けれど――
(それでも、俺は信じる)
少年の祈りのような決意が、夜の帳の中で静かに響いていた。
◇
午後の柔らかな陽が、学園の石畳の小道を穏やかに照らしていた。
《魔導学園ルクシア》の中庭。
噴水の水音が一定のリズムで響き、木々の間を抜ける風が若葉を優しく揺らしている。
その中で、アデル:セリオルはひとり、ベンチに腰掛けていた。
手元には魔導地理学の教本が開かれていたが、そのページには何度も行き来した跡が残っている。
アデルの視線は紙面にはなく、ぼんやりと青空の彼方を眺めていた。
(……気づけば、俺、本当に“この世界”のこと、知らないな)
学園での生活にも慣れ、仲間たちとの距離も少しずつ縮まりつつある。
だがその分、自分がどれだけ狭い世界の中で生きてきたのかを、アデルは痛感していた。
リーフェルという小さな村を出て、ルクシアに来た。
それだけでも大冒険だったはずなのに――。
(俺の知らない景色が、この先にどれだけあるんだろう)
思考に沈んでいたとき、視界の端にひらりと黒髪が舞った。
「なーに難しい顔してるの、アデル?」
その声に顔を上げると、リリス:ブラッドがにやりと笑って立っていた。
黒髪が風に揺れ、午後の日差しの中で艶やかにきらめいている。
「いや……この教本を見てて思ったんだけどさ。俺って、学園の外のこと、あまりにも知らなすぎるなって」
「ふふーん、じゃあ教えてあげよう! このリリス様が、世界の地理を特別にね!」
リリスは得意げに胸を張る。
アデルは教本を閉じ、少しだけ眉を下げた。
(こういう時のリリスって、やたらと自信満々なんだよな……)
「はぁ……どうぞ、ご自由に」
「もーちょっと感謝しなさいよね!」
リリスはふんと鼻を鳴らし、ベンチの隣に腰を下ろすと、語り口を少し改める。
「まず、ここ“ルクシア”があるのは、グラン地域。アルヴ=レグナっていう大陸の中でも比較的平和で、学術や魔法の研究が進んでる地域よ」
「ふーん、そうなんだ」
「もうちょっとちゃんと聞いて!」
睨まれつつも、アデルは笑みをこらえた。
「でね、ルクシアから東に進むと、あなたの故郷リーフェルがあるでしょ? その先には王都があるのよ」
《グランフェリウス》――それはこの国の政治・軍事の中枢が集まる、壮麗なる白城の都。
壮大な城郭と白亜の塔がそびえ立ち、空中にまで延びる魔導路や浮遊都市との接続を備えた高度な魔導都市である。
王族や高位貴族だけでなく、各地から選ばれた叡智と才能を持つ者たちが集い、芸術や文化も深く根ざしている。
祭典の時期には世界中から人々が訪れ、厳格さと華やかさが共存する場所でもある。
「王都か……俺には縁がなさそうだな」
「ま、アデルには確かに縁はなさそうね」
「おい! そこはフォローすべきところだろ!」
「その王都を越えると、山脈があって、それを越えた先に広がるのが大海原。そして有名な交易都市があるの。商人も冒険者も集まる、大きな港町よ」
(流されたな……)
「……なるほどね。そういえば入学の時に知り合ったやつが、バゼレーンの話してたかも」
「さらにその先には海が広がってて、遠くには島国があるって言われてるの。武に秀でた国で、昔は独自の騎士団があったらしいわよ」
アデルは話を聞きながら、心の中に地図を描くように景色を想像していた。
(海の向こうの国か……想像もつかないな。でも、見てみたい)
「じゃあ、南は?」
「南はね、小さな村々を抜けて、《紅霧の境界》って呼ばれる森に入るの。……その奥に、“吸血鬼の都市”があるって噂されてる」
リリスの声が、ほんのわずかに低くなる。
「ヴァンパイア、か」
興味深そうにアデルが覗き込むと、リリスは肩をすくめて笑った。
「ただの噂よ。私も行ったことないし、見た人も少ないっていうし」
その笑みはいつも通り――だが、その奥にかすかな影が差したようにも見えた。
(……どうしたんだ?)
だがアデルは、それを口には出さずに話題を切り替える。
「じゃあ、西は?」
「広大な森があって、その先に《魔族の集落》があるの。オーガ族、獣人、ゴブリンなんかが住んでるわ。今では人間との交流も進んでるけど、すべてが知性ある種族ってわけじゃないから、注意は必要よ」
「なるほどな。仲良くなるのも簡単じゃないか」
「うん、でも、誤解を解いて信頼を築けるかどうかは、その人次第よ。あ、もちろんあなたもね?」
「肝に銘じとくよ」
アデルは苦笑した。
(リリスって、思ったより世界をよく見てるんだな)
「最後に北。関所を抜けた先には洞窟が点在してて、その奥に広がるのが……《帝国領》」
「帝国……」
「今は“閉じられた国”って呼ばれてるわ。ほとんど交流がなくて、情報もほとんど出てこない。要塞のような国だって噂されてる」
その言葉に、アデルは遠いものを見るような目をした。
(知らない世界が、こんなにもある……)
「こうして聞くと、ほんと俺、何も知らないな……」
「そうよ。世界は広いの。あなたが生まれた村の外には、もっとたくさんの場所があるし、もっといろんな人がいる」
リリスはいたずらっぽく微笑みながら言った。
「なあ、他には? 他に面白い場所とか、変わった文化とか」
「ちょっと! なんでも私に頼りすぎじゃない! 少しは自分で調べなさいよね!」
ぷいっと顔をそむけるリリス。アデルは慌てて手を上げた。
「わ、悪い悪い。でもリリスの話、分かりやすくて面白かったし」
「……ほんと?」
「ほんと。ありがとな、リリス」
その言葉に、リリスの頬がほんのり紅く染まる。
「……まったく、もう。しょうがないからまた教えてあげるわよ。そのうちね」
そう言って、リリスは立ち上がる。
その背中を見送りながら、アデルは空を仰いだ。
(この世界には、俺の知らないことがたくさんある)
知ること――それは、自分自身を知ることにもつながる。
(俺の力が何なのか、それを知るためにも……もっと、世界を見てみたい)
静かな決意が、胸に灯る。
リリスの姿が中庭のアーチの向こうに消えていったとき、アデルは立ち上がった。
風が頬を撫で、木々がさやさやと揺れる。
――その音は、まるで“旅の始まり”を囁いているかのようだった。