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混沌のアリス  作者: 里羽
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【第五十三話:潮騒の来訪者、薄青の腕紋】

「ふぅー、気持ちいいなー」


 頬を撫でる風は湿り気を含んで優しく、波が船腹を叩くたび、木の板が心地よく軋んだ。日の光は水面で細かく砕け、白い鱗のように跳ねては散る。舳先に腰かけた少女――ユウナは、胸いっぱいに潮の匂いを吸い込むと、両腕をぐっと伸ばした。


 その日、ユウナはジャロクの島を出た。背後には、海に向かって低くひらけた緑の丘と、小さくなった白い家。振り返ると、いつも通りの風景がいつもより遠く見えて、少しだけ胸がきゅっとした。


「ハサンさんが言うには、ルクシアってところが“魔法を勉強する学校”なんだって。そこなら、この腕のことも、何か分かるかも」


 ユウナは右手首から肘にかけて走る薄い銀の線に指を当てた。皮膚の下で光の糸が静かに編まれているような、不思議な紋。もう片方の腕にも、同じものがある。あの夜――鬼に襲われて、光に包まれて、気づいたらここに来ていて――それからずっと、彼女の体に刻まれているもの。昼間はそこまで光らない。だけど魔力を込めると徐々に光を増すような気がする。


 ジャロクでの二年以上。ユウナはハサンに師事して、剣の構え、足運び、呼吸、そして“この世界の魔力”の扱い方を、毎日少しずつ、積み重ねてきた。竹刀ではなく鉄の刃を手に、面ではなく相手の眼を見ること。魔力は体の芯から湧き、それを無理に燃やさず、長い呼吸で回すこと。最初は頭で理解できても体がついてこなかったが、ある日、風の音と自分の呼吸がぴたりと重なってからは、うまくいくことが増えていった。


「髪の色も、いつの間にか変わっちゃったし……わからないこと、だらけだ」


 本来は黒だった髪は、いまや薄い空色。陽の光を受けると、海の反射のように淡く光る。鏡を見るたびに見知らぬ自分が映って、でも、その色にも少しずつ慣れてきた。剣を振るとき、前髪の先がふわりと揺れるのが、少し好きだ。


(腕のことも……元の世界に帰る方法も……ルクシアに行けば、もしかしたら)


 ハサンから譲られた旅装は、布と革を重ねた動きやすいものだ。ユウナにとっては馴染みがあるわけではないが和風な服装に近かった。

魔力が込められた布で作られた服は見た目よりも強硬である。腰には刀いわゆる日本刀のようなもの携えていた。

背には水袋と乾燥肉、硬いパンが入った小さな袋。


「この刀……ハサンさんがなんか不思議な力があるって言ってたけど…魔力を込められるってことなのかな?」


ユウナは刀をしまい舵を固定し、帆のロープを確かめると、ユウナは遠くの水平線を見つめた。



「あ……あれ、かな?」


 海のもやの向こうに、街の輪郭がぼんやり現れた。塔の影、旗の色、人のざわめきまで運んできそうな錯覚。バゼレーン――港の賑わいがこの距離でもわかる。


「よかった。ちゃんと着く――」


 言い終える前に、シュン!と空気を裂く音が右耳の外側を掠めた。何かが見えない速さで通り過ぎ、次の瞬間、世界が軋む。


「え?」


 船の中央、板が交差する継ぎ目がぱきんと音を立てた。遅れて、轟音。船体が粉々に砕け、視界が空と海の青に反転する。ユウナの体は宙を舞い、冷たい水が全身を包む。


「なにがっ――!」


 海は重く、速い。渦に腕を引かれ、足をからめ取られる。口を開けば塩辛い水が流れ込み、喉が焼ける。空は遠く、光が揺れている。伸ばした指先は泡を掴むばかりで、力はあっという間に抜けていった。


「た……助け……て」


 声は水に溶け、波の音に呑まれる。最後に見たのは、船片が陽に光って沈む白い線。ユウナの体は、深いところへ、暗いところへ――沈んでいった。



「――ハッ!」


 飛び起きると、天井があった。木の梁。白い漆喰。窓から、柔らかい光。鼻に入ってきたのは、薬草の匂い。胸は激しく上下し、喉はひどく乾いている。視界はまだ少し揺れていた。


「ここ……は?」


 体を起こすと、布団の感触が背中にやさしい。体のあちこちに巻かれた包帯がきゅっと締まって、痛みはないが、動かすと筋肉が抗議する。掌を開いて握る。指は全部ある。腕の銀の線は、いつも通り、かすかに光っている。


「たしか、バゼレーンへ向かって……船が突然、壊れて……」


 記憶の端がまだ水を滴らせているようで、言葉にすると足元がふらついた。ここはどこだろう。ジャロクの診療所ではない。壁に掛けられた布には、この世界の地図らしいものが描かれている。窓の外に見えた塔の影は、見たことのない尖塔だ。


 ――コン。


 扉が軽く鳴って、誰かが入ってきた。


「目が覚めたみたいだな。大丈夫か?」


 灰色の髪に、金の瞳。簡素な制服の上に紋章のついたマント。声はよく通り、でも尖っていない。


「は、はい。大丈夫……です。あの?」


「悪い。俺はアデル:セリオル。ルクシア魔導学園の生徒だ」


「ルクシア……ここ、ルクシアなんですか?」


「ああ。勝手に連れてきてしまって、悪かった。浜辺で倒れていた君を、応急処置して、そのまま学園の医療棟に運んだんだ。今は治癒魔法と薬草で体勢を整えてる。具合は?」


「ありがとうございます……すみません、私は、ユウナ:カガミです」


 名乗るとき、ほんの少し喉が掠れた。見知らぬ土地で見知らぬ相手に名を告げるのは、まだ緊張する。でも、アデルと名乗った彼の目に、警戒や打算の色は見えない。真っ直ぐで、少し疲れていて、けれど温かい。


「その名前……君は、異世界人なの?」


「そ、そうです」


 肩が反射的にすくむ。ジャロクでは、ハサンの周りの人たちがむやみに詮索はしなかったが、世の中には異世界人を珍しがる人もいれば、怖がる人もいると聞いていた。どう反応されるだろう――。


「そうだったのか。全然わからなかったな」


 アデルは普通の調子で言い、肩を竦めて笑った。


「この学園にも異世界人の先生がいる。体調が回復したら、話してみるといい。きっと力になってくれる」


「異世界人の先生……? はい、あとで、ぜひ」


「うん。じゃあ、目が覚めたこと、皆にも伝えてくる。何かあったら呼んでくれ」


「……助けてくれて、ありがとうございます」


「気にするな。俺と君も歳が近そうだしさ。気軽に話してくれていい」


 アデルはそう言って、気配を乱さずに部屋を出ていった。扉が閉まる音がやわらかい。


「アデルくん、かぁ。ほんとに別の世界の人って感じだな」


 ジャロクは、海と風と魚の匂いに満ちた島で、どこか昔の日本みたいな素朴さがあった。ここは違う。石造りの高さ、漂う魔力の気配、窓から覗く尖塔の屋根の色、行き交う人影の速さ。別世界に来たのだと、身体の深いところがようやく納得する。


「……このあと、どうなるんだろ」


 考えながら、ユウナはもう一度布団に身を沈めた。薬草の香りが、まぶたを静かに閉じさせる。意識は、潮の引くみたいに、すっと遠のいていった。



 夜。医療棟の廊下は、魔法灯が絞られて穏やかだ。ユリ:トキワは静かに扉を閉め、前に立つ二人に目を向けた。黒い髪に紅の瞳の少女――リリス:ブラッド。翡翠色の瞳に落ち着いた気配――マリア:サーペント。


「どうでしたか、先生?」リリスが小声で訊ねる。


「彼女のいた世界は、私の世界と似ているようで、少し違うわ」ユリは微笑み、腕に抱えた記録帳を軽く叩いた。「生活の道具や街の作り、夜の脅威……でも名称や制度は違う。同郷ではないでしょうね。ただ――」


「ただ?」


「よく頑張って生き延びてきた子、という印象よ。自分から多くは話さないけれど、問いかければ姿勢よく向き合ってくれる。信頼を得るまでに、時間はいらないと思う」


「じゃあ、あたし達が話しても大丈夫ですね?」リリスの瞳が少し柔らかくなる。


「ええ。ただし――就寝時間は守ること」


「はい、心配無用です」マリアが胸に手を当てて会釈する。ユリはくすっと笑って、白衣の裾を揺らしながら去っていった。


 コン、コン。部屋の扉を軽く叩く。


「入っていいかしら?」


「ど、どうぞー」


 リリスとマリアが部屋に入ると、ユウナは慌てて上体を起こした。寝癖が前髪を跳ねさせているのが、少し可笑しい。


「あの、今度は……?」


「そんなに身構えなくていいわ」リリスが一歩進み、笑って手を振る。「話しに来ただけ。昼間はアデルに任せちゃったし、改めて顔を見たくてね」


「私も、ご挨拶に」マリアが柔らかく微笑む。「アデルと一緒にあなたを運びましたから、無事で何よりです」


「……じゃあ、あなた達も恩人ってことですね。ありがとうございます」


「気にしないで」リリスは胸を張る。「あたしはリリス:ブラッド。こっちはマリア:サーペント。リリスとマリアでいいわ」


「私は、ユウナ:カガミです。ユウナで……」


「ねぇ、ユウナって、こっちの世界に来た時、ジャロクにいたのよね?」リリスが瞳を輝かせる。


「はい。目が覚めたら、砂浜で。近くにいた人に助けられて……ハサンさんって言うんですけど」


「じゃあさ、ジャロクのこと、教えて!。あたし、名前しか知らなくて」


「え? ジャロクのことを?」


「どうしました?」マリアが首をかしげる。


「いえ……てっきり、元の世界のことを聞かれるのかと。ちょっと意外で」


「元の世界の話も、いつかは聞きたいけどね」リリスは肩をすくめる。「でも、あなたはいま、この世界に居る。いまの話をしてくれた方が、きっと楽しい」


「そうですね」マリアも頷いた。「元の世界の話は、ユリ先生がゆっくり聞いてくださるでしょうし」


 ユウナは胸の奥がすっと軽くなるのを感じた。目の前の二人は、興味本位でなく、彼女自身を見てくれている。


 それから、三人は夜更けまで話した。

 ジャロクの海の色、丘の香り、市場の賑わい。ハサンの口うるささと優しさ。剣術の稽古で手のひらにできた豆。ルクシアの寮の話、食堂の名物、授業の厳しさ、先生の個性。リリスは身振り手振りを混ぜ、マリアは合いの手と質問が絶妙で、ユウナは話しているうちに笑い声が増えていくのが自分でもわかった。


「――あ、いけない。就寝時間」


「ほんとだ。ユリ先生に怒られる」リリスが慌てて立ち上がる。「続きはまた明日!」


「おやすみなさい、ユウナさん」

「うん。おやすみ、リリス、マリア」


 扉が閉じ、静けさが戻る。ユウナは布団に潜りながら、胸の奥に小さな灯りがともるのを感じた。ここにいてもいいのかもしれない――そんな思い。



 翌日。学園長室。高い天窓から柔らかな光が降り、壁の本棚には古い装丁がずらりと並ぶ。エルヴィア:ルーンフェリスは机上の書類を閉じ、アデルに向かって穏やかに頷いた。


「ということで、セイレーンの都の魔力汚染は、クラーケンが引き起こしていました。クラーケンはセイレーンの女王と俺たちで対処。恐らくはこれで源は断てたはずです」アデルがまとめる。


「ご苦労様でした」エルヴィアの金縁の眼鏡が光った。「大変な依頼でしたが、あなた方に任せて正解でしたね」


「ありがとうございます。報告は以上です」

「ええ。少し休みなさい」


 エルヴィアはそこで言葉を区切り、別の書類を手に取った。


「ところで、あなた方が連れ帰った異世界の女性の件ですが」


「ユウナのことですか」


「ええ。彼女の両腕に、魔力の痕跡が鮮やかに残っています。通常の付与や怪我の治癒痕とは違う。初めから体に刻まれていたかのような、奇妙な紋ですね」


「……どういうことです?」アデルが眉を寄せる。


「わかりません」エルヴィアは率直だ。「彼女にとって利益となるのか、害となるのか。現時点では判断できない。解析には時間が要るでしょう。しばらくはルクシアに滞在してもらいたいのです」


「わかりました。ユウナに、俺からも伝えます」


「お願いします。それと――」エルヴィアは別の紙片をアデルに渡した。「アスラ君、グレイスさん、ミーナさんの三人に、別任務を依頼しました」


「三人で、ですか?」


「はい。西の都リュクシスで起きている原因不明の魔力枯渇の調査に向かっています。ですが――」


 エルヴィアの声が少しだけ沈んだ。


「連絡が途絶えています。魔法伝達は定期で行う手筈ですが、こちらからの送信も届いていない」


「……大丈夫なんですか?」アデルの指が僅かに強く紙を握る。


「依頼の期間は二週間。まだ一週間ある。彼らを信じて待ちましょう。ただし、一週間を過ぎても状況が変わらなければ――あなた方のパーティにも、リュクシスへ向かってもらうかもしれません」


「……わかりました。みんなにも伝えておきます」


「心配は理解しますが、冒険者や騎士の道は常に危険と隣り合わせ。過度な心配は、判断を鈍らせます。今は、吉報を待つのが良いでしょう」


「はい。失礼します」


 扉を閉める。廊下に出た瞬間、アデルは深く息を吐いた。胸の中で、小さな棘が動く。アスラの皮肉っぽい口調、グレイスの面倒見の良さ、ミーナの明るい声。顔が順番に浮かび、そして不意に、窓の外を過る雲が影を落とす。


(――信じる。けど、嫌な静けさだ)


 アデルは踵を返し、医療棟へ向かった。まずは、ユウナに学園長の話を伝える。そして――備える。リュクシスに向かうことになるかもしれない。その時、躊躇わずに動けるように。



 医療棟の窓辺。ユウナは椅子に座り、外を眺めていた。石畳を行き交う学生、緑に光る芝、遠くの塔の旗。昨日よりも、色がはっきり見える。


「ユウナ、具合はどうだ?」


 扉から顔を出したアデルに、ユウナは笑って頷いた。


「はい。まだちょっとふらつきますけど、だいぶ元気になりました」


「よかった。学園長からの伝言がある。腕の紋について、調べたいって。しばらくルクシアにいることになる。大丈夫か?」


「はい。……むしろ、ありがたいです。私も、知りたいので」


「それから――」アデルは言葉を選んだ。「同級生の三人が西のリュクシスに行ってて、連絡がない。期限までは時間があるけど、もし戻らなかったら、俺たちはルクシアを離れることになるかもしれない。知らない土地……一人で平気か?」


 ユウナは黙って頷いた。胸の奥に、波が一つ打ち寄せる。ここに来てすぐ、もう次の波が来るのだ。けれど、彼の顔は、不安を見せながらも、前を向いている。


「わかりました。私は一人でも平気です!心配せずに行ってください!それに、もし私にできることがあれば、なんでも言ってください」


「ありがとう」アデルの口元が緩む。「まずは、しっかり食べて、しっかり眠れ。回復が一番の仕事だ」


「はい!」


 窓の外で、風が旗を鳴らした。日差しはまだ柔らかい。けれど、校舎の陰には、見えない気配が確かに潜んでいる。

 遠い西――リュクシス。そして、薄青の腕紋の秘密。

 それぞれの糸が、少しずつ、静かに、結び始めていた。

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