【第五十二話:深海の獣】
洞窟の奥へ、奥へ。
アデルたちは淡く光る珊瑚の間を抜け、岩肌に沿って降りていった。水はひんやりと肌にまとわりつくのに、セレナの《水空魔気》が身体を薄い膜のように包み、呼吸も言葉も地上と変わらない。息を吸うたび、潮の塩気が喉の奥でかすかに弾け、耳には遠い潮鳴りが途切れなく続いた。
壁際の結晶――アクアルビーが、ところどころ黒ずんだ赤を帯びている。健康な結晶は透明感のある紅だとセレナは言っていた。だが、目の前のそれは、まるで血に濁りが混じったような、重たい光を抱えている。
「セレナ、前に来た時もこんな状態だったのか?」
アデルの問いに、セレナは短く首を振った。青い髪が水の中でふわりと揺れ、その表情には緊張が滲む。
「いえ……以前来た時は、このような濁りはありませんでした。発生源ということで封鎖し、出入りは止めていたはずですが……」
「となると――」リリスが目を細める。「発生源から遠ざけた“あと”で、誰かがここに潜り込んで何かを仕掛けた。そう考えるのが自然ね」
「皆さん、油断しないでください」マリアの声は落ち着いているが、その槍先は僅かに震える水流すら捉えている。「この奥、明らかに大きな魔力を感じます」
道は傾斜を増し、視界の底がぼんやりと赤く染まり始めた。
やがて――水の色が、どす黒く変わる。呼吸膜越しでも伝わるざらついた感覚。魔力の粒が水に混じり、肌を逆なでするようにまとわりついてくる。
「この奥か……」アデルが剣の柄に触れ、集中を高める。「――!! なんだこれは!?」
視界が開けた先に、それはあった。
洞窟の大空洞の中央――地脈から生えたように、巨大なアクアルビーが聳え立っている。岩盤を突き破り、灯台の光柱のように赤黒い輝きを発していた。
「こんな大きさ……見たことありません」セレナの声が震える。「以前は、こんなもの、なかったはずなのに……」
「これが元凶か?」アデルが身を乗り出しかけた、その時だった。
「違います。何か――下から来ます!」マリアが即座に制した。
次の瞬間、床の裂け目から複数の影が閃いた。
ぬめりを帯びた太い触手。無数の吸盤が並び、そこに宿った魔力が不気味に瞬く。一本、二本……いや数えることに意味はなかった。水を裂き、岩を砕き、触手の群れがアデルたちめがけて一斉に突き上がる。
「離れろ!」
アデルは剣で一撃、二撃と叩き落とし、身を翻す。水は重い。だが、身に馴染んだ動きで水抵抗を受け流し、仲間との距離を一瞬で測る。
「セレナは後ろから! 汚染の広がりを抑えてくれ!」
「わ、わかりました!」
触手の群れをかき分けるように、巨体が姿を現した。
洞窟の天井に影が走り、空洞全体がその影に飲み込まれそうになる。丸い胴、皺の走る皮膚、そして赤黒い光を灯した巨大な瞳。
「……クラーケン!」セレナが呟く。「御伽話で伝わる、古の怪物……」
「御伽話?」アデルは触手を切り払いながら問い返した。
「はい。昔、アクアリスを襲い、セイレーンと人間が協力して倒した、と。亡骸は深海の底、誰も届かぬ場所へ葬られた、と伝わっています」
「つまり、こいつが――その伝説の……」
「感心してる暇はないわよ!」リリスが低く笑う。「相手は、こっちをやる気満々!」
触手が唸り、襲いかかる。一本一本が身体強化を何重にも重ねたように硬い。剣圧が弾かれ、刃が痺れるほどだ。
「っ、硬っ! ほんとにタコかよ!」
「なら、焼く!」リリスが唇を舐め、赤い瞳を細めた。すでに髪は紅く染まり、手には大鎌を持っている――ヴァンパイアモード。
「《紅ニ染マル月》!」
水中だというのに、紅の月が昇ったような熱が周囲に満ち、触手が次々と切り裂かれていった。切り裂かれた箇所は焦げた臭いが膜越しにわずかに伝わり、泡がぶくぶくと立ち昇った。
「やったわ!」
「待て、リリス! あれを見ろ!」
アデルが指さした先――吹き飛んだはずの触手が、みるみるうちに再生していく。裂けた肉がつなぎ合わされ、吸盤がまた列を成す。
「嘘でしょ……再生持ち!?」
クラーケンの瞳がぎらりと光り、巨大な口器が開いた。次の瞬間――
――水が、削れた。
音より早く、白い線が走る。触手の先端が水圧を凝縮し、まっすぐに放った水圧の槍――レーザーのような一撃が、洞窟の壁を貫通して遥か上方へ抜ける。海面のさらに上、海上を走っていた船影が、粉々に砕け散った。
「な、なんて威力だ……!」
「動きそのものは鈍いけれど、姿勢を取られると厄介です」マリアが冷静に状況を読む。「このままだと、私たちの魔力が先に尽きます」
(再生を上回る破壊で押し切る? いや、あの水圧砲が連発されたら一気に崩れる。なら――)
アデルは背後に目を走らせ、セレナの顔を見た。彼女の指先は震えている。けれど、その瞳は逃げていない。
「セレナ!」
「は、はい!」
「さっき言ってた御伽話――セイレーンと人間が“協力して”クラーケンを倒した。どうやってだ?」
「た、たしか……セイレーンの魔法と人間の魔法を合わせ、クラーケンの魔力を封じたあとで、強力な一撃で……!」
「二重魔法、君は使えるか?」
「わ、私が……? そんな大それた――」
セレナの言葉を、アデルは強く、しかし優しく遮った。
「できる。君ならできる。ここに来るまで、君はずっと――“女王として、みんなのために何ができるか”だけを考えて動いた。名ばかりなんかじゃない。君は立派な、アクアリスの女王だ」
セレナの喉が小さく鳴る。
震える指先が、ぎゅっと握られた。
「……やってみます。私、やってみます!」
「頼む!」
「ここは時間を稼ぐ!」リリスが前に出る。「マリア!」
「はい!」
炎と竜気が絡み合い、赤く、緑に、海の中へ渦が咲く。触手の雨を切り払い、姿勢を崩す一瞬を作っていく。
「行くぞ、セレナ!」
「はい!」
二人の声が重なった。
「――《二重魔法》!」
海が震える。アデルの光と闇が剣に宿り、セレナの青が水に満ちる。
その二つが噛み合う瞬間、冷たい水は潮目を変え、どろりと重たかった流れが澄んだ刃に変わった。
「《海王神の奔流》!」
青白い奔流が放たれる。
ただの水流ではない。魔力そのものに触れ、絡みつき、ほどき魔力を――“霧散”させる。
渦はクラーケンの全身を縛る縄となり、触手の動きを次々と止めていく。再生の芽は塩に溶ける砂糖のように消え、赤黒い光がひとつ、またひとつと弱まる。
「今です!」セレナが叫ぶ。
「了解!」リリスとマリアが飛び込む。
「《二重魔法》――《紅竜紅蓮槍》!!」
竜の咆哮が水を震わせ、紅蓮の螺旋がクラーケンの胴へ穿ち込まれる。
“封じ”と“破壊”が、教本の挿絵のような美しさで完璧に連なった。
クラーケンの巨体が、どくり、と痙攣した。
赤黒い瞳から光が失せ、触手に力がなくなる。
最後に水圧の白い線が暴発のように走ったが、射線は奥の岩に逸れ、静かに消えた。
巨体が音もなく沈む。
汚れた水が、少しずつ透明へ戻っていく。
アクアルビーの黒い濁りも、ゆっくりと薄れていった。
「……やった、のか」
アデルは肩で息をしながら、剣を下ろす。体の芯まで冷えていた緊張が、ほどけていく。
「セレナ、すごかったわ」リリスが微笑む。「二重魔法を、初めてでここまで……戦闘もいけるじゃない」
「いえ私なんて全然、すごくなんてないです……」セレナは慌てて首を振る。けれど、その瞳には涙が滲んでいた。水中で涙の粒は形にならないが、声の震えが正直だ。「皆さんがいなかったら、私は……怖くて、足がすくんで……」
「怖がって当然だ。俺たちだって怖い」
アデルは笑う。「でも、ちゃんと前を向いた。それで十分だよ」
海は静かだった。
空洞を満たしていた嫌なざわめきは、もうない。斜面に張りついていた汚れも、潮に洗われるように剝がれ落ち、元の色を取り戻しつつあった。
「魔力汚染は、クラーケンが撒く歪みが核だった、と見てよさそうですね」マリアが結晶を覗き込む。「いまは歪みが解けて、流れが澄み始めている。時間はかかるでしょうけど、街にも良い変化が出るはずです」
「決まりね!」リリスが腰に手を当てる。「観光――」
「の前に、報告」アデルが即答し、リリスがむくれる。
「ちょっとくらい、いいじゃない」
「気持ちはわかるけどな」アデルは苦笑する。「でも、まずは王様と人たちに知らせよう。皆、待ってる」
「……ふふ。アデルさん、やっぱり真面目ですね」
セレナの笑顔は、さっきまでよりずっと強かった。
四人は洞窟を後にした。
水路に入り込んだ光が、帰り道をやさしく照らしていた。
◇
――だが、その少し後。
静まり返った採掘場の影のさらに奥、黒い水の揺れに沿って、ひとつの影が現れていた。
「なるほど。あれが、アデル:セリオル」
長衣の裾が水の動きに合わせてわずかに揺れる。
“彼”――アルタイルは、表情のない顔で先ほどまでの戦闘痕を見渡した。倒れたクラーケン、薄れていく歪み、澄み返る水。
「クラーケンを倒すとは。予想より適応が早い」
声色には感情がない。事実を、ただ並べる。
水底の砂が触れるたび、砂粒が光を受けて瞬く。
「アクアリスの回収は未完。だが、いま動くのは得策ではない」
「禁術という手もあるが……」
彼は短く首を横に振った。
「やめておこう。ここは様子見だ」
表情はない。だが、どこかに“確信”だけがある。
「シリウスへの報告は、後にする。ベガの進捗も確認が必要だ」
アルタイルは影に溶けるように姿を消した。
残るのは、静かな海だけ。
◇
バゼレーン近くの浜辺。
潮風が頬を撫で、波が砂をさらっていく。薄雲の向こうの太陽が白く、昼の熱を柔らげていた。
「本当に、もう帰られるのですか?」
セレナが名残惜しそうに言う。水から上がった彼女は再び人の姿になり、髪は滴る水で光っている。
「ああ。任務は終わったしな」アデルは肩に荷物を担ぎ直した。「俺たち、遊びに来たわけじゃないから」
「なんでよー」リリスが頬を膨らませる。「一日くらい観光しても、バチ当たらないわよ!」
「学園長からの直々の依頼だって、忘れてないだろ」
「うっ……それは……」
「また今度、観光に来ればいいじゃないですか」マリアが笑う。「今回は“下見”。次は“本番”」
「はぁ……そうね。残念だけど、今回はアデルに従うわ」
「セレナ、いろいろ助かった。ありがとう」
「いえ。助けられたのは私の方です」セレナは胸に手を当て、深く頭を下げた。「あの、もし、また近くに来られることがあれば――これを使ってください」
差し出されたのは、小さな銀のベルだった。
貝殻のような細工が施され、振ると鈴より澄んだ音が一つだけ鳴る。音はすぐ消えるのに、不思議と耳の奥に残った。
「ベル?」
「はい。《セイレーンのベル》です。この辺りで鳴らすと、私のもとに知らせが届きます。また皆さんをアクアリスにお連れできますから」
「こんな大事なもの、いいのか?」
「もちろん。アデルさん達は、私たちの恩人です。またいつでも遊びに来てください」
「……わかった。ありがとう、セレナ」
そう言い終える前に――
「アデル! あれ!」
リリスが急に声を上げ、海岸の岩場を指さした。
砂の上に、人が倒れている。薄い青色の髪。肌は透けるように白い。見慣れない装備が腰に巻かれ、薄い金具が陽光を鈍く反射していた。
「人だ!」アデルは駆け寄り、肩を支える。「大丈夫ですか!」
反応はない。だが、呼吸は浅く早い。脈は弱いが確かにある。
「見たことのない装備ですね……」マリアがしゃがみ込み、具合を確かめる。「いまは医者に見せるのが先決です」
「もし急ぐのでしたら――」セレナが一歩進み出る。「一方通行になりますが、セイレーンの秘密の通路があります。《水の道》で、ルクシア近くまで一気に戻れます」
「助かる!」アデルはセレナを見て頷いた。「いまはこの人を助ける」
「ありがとう、セレナ!」リリスが笑って手を振る。「また絶対来るから!」
「本当にお世話になりました」マリアも頭を下げる。「とても素敵な場所でした」
セレナが両手をかざすと、砂浜に細い水の筋が走った。
筋は瞬く間に大きくなり、透明な水路が地面に描かれる。水面は鏡のように滑らかで、覗き込めば見知らぬ街道が底に映った。
「《水の道》!」
水路が淡く光り、風もないのに波紋がひとつ、ふたつと広がる。
「行こう」アデルは青髪の女性を背負い、リリスとマリアに目で合図した。
三人は、光る水路へと躊躇なく飛び込む。水は冷たくなく、柔らかい絹のような感触で全身を包んだ。
――ひと息で、景色が変わる。
セレナは水路の前にしばらく立ち尽くし、静かに笑った。
潮風に、青い髪が揺れる。
「アデルさん……またいつか。次にお会いする時までに、私もきっと、もっと“女王らしく”なっていますから」
小さく、誰にも聞こえない声でそう誓い、彼女は振り返ってアクアリスへの道を歩き出した。




