【第五十一話:蒼海に沈む都、赤い宝石】
朝の光が港町バゼレーンを照らしていた。昨日の夜、街を震わせた《ブラックフェンリル》の襲撃から一夜。宿の窓から差し込む光は柔らかいはずなのに、どこか鋭さを帯びて見えるのは気のせいだろうか。
「ふぁーあ……おはよう」
欠伸を噛み殺しながら、リリスが部屋の扉を開けて出てきた。黒髪を手で整えながら、まだ眠たそうに目をこすっている。
「なんだかずいぶんと眠そうだな」
すでに廊下に出ていたアデルが肩をすくめた。昨日の緊張感が残っているのに、この余裕。リリスは呆れたように笑う。
「そりゃあね。昨日の夜あんなことがあったんだもの。すぐ眠れる方がおかしいでしょ」
「それにしても、リリスは朝は弱いですね」
マリアが横から真面目に指摘する。その姿勢は背筋が伸びていて、寝不足など感じさせない。竜族の血ゆえか、多少の疲労など気にならないのかもしれなかった。
「まぁ、ヴァンパイアってのもあるのかもね」
リリスが苦笑しつつ肩をすくめると、ちょうど部屋の奥からセレナが出てきた。深い青の髪が朝日に透けて、波のようにきらめく。
「皆さん、おはようございます。昨日は……本当にありがとうございました」
少し緊張した面持ちで、けれども感謝の気持ちは隠さずに告げた。
「気にしなくていいって!」
アデルは笑って、軽く拳を握るように振ってみせる。
「それよりも、今日はいよいよセイレーンの都に行くんだろ?」
セレナは真剣に頷いた。
「はい。アクアリスに行くには、バゼレーンから少し離れた入り江に行く必要があります。……もう出発できますか?」
「もちろんよ!」
リリスの瞳にわずかな期待が光る。
「早くアクアリスに行ってみたいわね」
「で、では……私について来てください」
セレナが前に立ち、歩き出す。四人は宿を出て、人波を抜けながら街を後にした。
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◇ 隠された入り江
バゼレーンからしばらく歩くと、街の喧騒は背後に遠ざかっていった。海風が頬を撫で、潮の匂いが濃くなる。崖沿いの細い道を抜け、やがて岩山に口を開けた洞窟へと辿り着く。
「ここを抜けると……入り江に着きます」
セレナの声は澄んでいて、不思議と岩肌に反響しながらも耳に心地よかった。
洞窟を抜けると、そこは人の気配がまるでない静かな海辺だった。白い砂浜、波に削られた岩、そして凪いだ海。
「セレナ、こんなところからアクアリスに行けるのか?」
アデルが首を傾げると、セレナは自信ありげに微笑む。
「はい、大丈夫です。この洞窟には古い魔法がかけられていて……知る者しか見つけられない場所なんです」
「なるほど、だから街の人にも気づかれないのね」
マリアが頷き、リリスも感心したように海を見渡す。
「それじゃあ……皆さん、改めてよろしくお願いします」
セレナは両手を組み、静かに詠唱を始めた。
「《水空魔気》!」
淡い蒼光が彼女の体を包み、次の瞬間、その光は三人の体にも広がった。薄い膜のようなものが皮膚を覆い、ひやりとした感触が残る。
「これで、水中でも呼吸できるはずです」
「へぇ……すげぇな。息苦しくない」
アデルは胸いっぱいに息を吸い込み、驚き混じりの声を漏らした。
「よし、リリス、マリア。行けるか?」
「ええ、問題ないわ」
「私も準備はできています」
リリスとマリアが頷き、四人は海へと身を投じた。
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◇ 海中の世界
冷たい水に触れた瞬間、体を包む魔法が柔らかく反応し、呼吸は不思議と苦しくなかった。むしろ肺に流れ込む水が空気のように変わり、体が軽くなる感覚さえあった。
「なんだか……水の中なのに喋れるし、息もできる。不思議ね」
リリスが目を見開いて呟く。
「落ち着かないな……でも、慣れれば悪くない」
アデルは周囲を見回す。透明度の高い海の中は光が揺らめき、魚の群れが彼らの周囲を舞っていた。
「私は気持ちがいいくらいですよ」
マリアの声は楽しげだった。竜族の血が水をも拒まないのか、その泳ぎは自然で、鱗のような光沢を帯びた髪が流れる。
「皆さん、こっちです」
セレナが振り返り、指先に小さな光を灯す。その姿はすでにセイレーンの姿へと変化していた。人の脚は透明なヒレに変わり、背中には小さな鰭がのぞく。水を切る動きは滑らかで、まるで潮流と一体化しているかのようだった。
「すげぇ……本当に人魚みたいだ」
アデルの呟きに、リリスが小声で「人魚そのものじゃないの」と突っ込む。
しばらく進むと、暗い水の中に光が見え始めた。
「……あれが、アクアリスです」
セレナの声に導かれ、三人は目を凝らす。
海底に広がるのは、光り輝く壮大な都市だった。
夜空に星を散りばめたように、建築物が青白い光を放ち、珊瑚の塔や透明なドームが並ぶ。海藻や珊瑚が建築に融合し、まるで自然と人工が調和しているかのようだ。
「すごい……!」
リリスの声には感嘆がこもっていた。
「ああ……これほど壮観だとは思わなかった」
アデルは胸を打たれる。どこか懐かしくも、異世界の景色を目の当たりにしているようだった。
「まるで夜の街を空から見下ろしているみたいです」
マリアが静かに言う。
「気に入っていただけて嬉しいです」
セレナが振り返り、微笑んだ。その横顔は、この都を背負う者としての決意に満ちていた。
⸻
◇ 王の間へ
アクアリスの中央にそびえる城は、透明な結晶のような建物だった。外壁には海藻と珊瑚が絡みつき、淡い光を宿す。
「父上、ただいま戻りました」
セレナの声が響く。王の間には荘厳な水の流れが満ち、玉座に座すのは白銀の髪を持つ老王――ネレウスだった。
「よくぞ戻った、セレナ」
声には威厳と同時に、深い疲労が滲んでいた。
アデルが前に進み、膝をつく。
「初めまして。アデル・セリオルと申します。セレナ女王より依頼の件、承りました。今しばらくご辛抱ください」
「よい……お前たちのような若者に頼ることになるとは、私も歳を取ったものだ」
ネレウスの瞳は深い海のように澄んでいた。
「魔力汚染……どのような状態なのですか?」
アデルの問いに、王はゆっくりと答える。
「民と同じだ。魔力の制御が乱れ、魔法は使えぬ。動くことさえ困難になってきておる」
アデルの脳裏に、街の光景が浮かぶ。先ほど通ってきた街のあちこちで、力尽きて横たわるセイレーンの民の姿――その数は少なくなかった。
「……最初に症状が出たのはどこからですか?」
「北にある海底鉱石の採掘場。そこから数日のうちに、街全体へ広がった」
「たった数日で……?」
マリアが驚きの声を漏らす。
「普通なら汚染源に近づかない限り発症しないはず……」
「とにかく、その採掘場を調べるしかなさそうだな」
アデルの声に、リリスが頷く。
「でも私たちまで汚染されたらどうするの?」
「その点は大丈夫です」
セレナが一歩前に出た。
「私の魔法で、皆さんを汚染から守ることができます。ただ……視界に捉えている人だけです。それに、すでに発症している人を治すことはできません」
「……十分だ」
アデルはきっぱりと答えた。
「じゃあ悪いけど、セレナ女王にも一緒に来てもらう必要がある」
「はい。そのつもりです」
セレナの瞳に恐れはなく、覚悟があった。
「すまぬが、娘を頼んだぞ。人間の子らよ」
ネレウス王の言葉に、アデルは深く頭を垂れる。
「必ず」
そう言い切る彼の背には、仲間たちの視線と、使命の重みが宿っていた。
⸻
こうしてアデルたちは、アクアリスの謎――魔力汚染の源を探るため、海底鉱山へ向けて歩を進めるのだった。
◇
アクアリスの城を後にしたアデルたちは、セレナの案内で北の海へと向かっていた。
王ネレウスの言葉によれば、魔力汚染は海底鉱石の採掘場から始まったという。そこを調査することが、今回の最初の使命だった。
しばらく泳ぐと、周囲の水の色が変わり始めた。
透き通っていた海の青は、いつの間にか濁りを含み、墨を流したように黒ずんでいく。
「……水が重い感じがする」
アデルが低く呟く。膜の魔法で守られているはずなのに、体の奥へじわじわと不快感が染み込んでくる。
リリスも顔をしかめ、手を伸ばして水をすくった。
「これが……魔力汚染。目に見えなくても、肌でわかるくらい強い」
「……ごめんなさい。ここから先は、どうしても汚染の影響が強くなります。私の魔法てわ防いでいるのもいつまで保つか。」
セレナの声がわずかに震えた。彼女にとっては慣れ親しんだ海が、いまや恐怖の場所に変わってしまったのだ。
アデルは剣の柄に触れ、仲間を見渡す。
「気を抜くな。――行くぞ」
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さらに北へ進むと、やがて暗がりの中に光が見えてきた。
岩盤を穿つように築かれた大空洞。その中に、赤い光を帯びた結晶が突き出している。
「……あれが《アクアルビー》の採掘場」
アデルが指さした先、岩の裂け目から滲むように赤黒い輝きが広がっていた。
「綺麗……というより、禍々しいわね」
リリスが目を細める。結晶は本来、美しく澄んだ赤を放つはずだ。だが目の前のアクアルビーはどす黒く濁り、血に似た光を発していた。
「……おかしいな。魔力が逆流してるみたいだ」
アデルは眉をひそめ、剣を抜いた。剣身に宿す魔力がざらつき、抵抗を覚える。
「この感じ……ただの鉱石じゃない。何かに“侵されてる”感じがします。」
マリアの声が硬くなる。竜族の感覚が、危険を告げていた。
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採掘場に近づくと、さらに異様な光景が広がっていた。
洞窟の入口には放置された採掘具が転がり、壁には焦げ跡のような黒い染みが残されている。まるで何かが暴発したかのように。
そして、奥からは低いうなり声のようなものが響いていた。
「……魔物?」
アデルが剣を構える。
「気をつけてください。汚染された魔力に長く触れていた生き物は……魔物化することがあります」
セレナの説明が終わるより早く、暗闇から影が飛び出した。
全身が赤黒く変色した魚型の魔物――いや、もとは水性生物だったのかもしれない。かつての面影はなく、鰭は裂け、瞳は濁りきっている。
「うそ……魚達が……!」
セレナの声が震える。
「来るぞ!」
アデルが叫び、仲間たちが一斉に構えた。
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戦闘が始まった。
赤黒い魔物が水を切り裂いて襲いかかり、リリスの炎が水中でも赤く揺らめいて迎え撃つ。マリアは竜気を槍にまとわせ、渦を巻く水流ごと敵を突き飛ばす。
「《光刃閃》!」
アデルの剣が光を放ち、闇に染まった魔物の身体を切り裂いた。
だが数は多く、奥から次々と影が現れる。
「くそっ、きりがない!」
リリスが歯を食いしばり、呪文を紡ぐ。
「《炎爆陣》!」
炎が水を押しのけるように炸裂し、周囲の魔物を一掃する。
「はぁ……はぁ……」
リリスの肩が大きく上下する。水中で炎を扱う負担は大きい。
その横で、セレナが両手を胸の前で組み、必死に魔法を紡いでいた。
「《浄化の潮》!」
柔らかな水流が広がり、周囲に漂う黒い霧を押し流していく。完全ではないが、わずかに空気が澄んだ。
「セレナ……!」
アデルがその姿を見て、力強く頷いた。
⸻
魔物を倒しきったとき、洞窟の奥から再び低いうなり声が響いた。
今度は先ほどまでの群れとは明らかに違う、巨大な気配だった。
「……奥にいますね。この汚染の元凶のようなものが」
マリアが槍を構える。
アデルは剣を握り直し、仲間を振り返った。
「行こう。――この奥に、答えがある」
四人は視線を交わし、濁った坑道の闇へと足を踏み入れていった。




