【第五十話:黒影の街、黒き獣】
静寂を切り裂くように、バゼレーンの夜がざわめき始めていた。灯火が揺れる路地裏を、三つの影が疾駆する。
「くそ……セレナはどこに連れて行かれたんだ!」
焦燥と怒りを滲ませた声が、夜の風に溶けた。アデルの金の瞳が、街の闇を睨みつける。
「アデル、焦ってはダメです。魔力の痕跡を辿れば、きっと――探せるはずです。……リリス?」
「ええ、見つけたわ。こっちよ!」
リリスの瞳が紅く煌めき、感知した微弱な魔力の残滓を頼りに、先導する。彼女の指先が示す方向に、アデルとマリアが続いた。
(セレナ……どうか、無事でいてくれ)
アデルは胸の奥で、何度もその名を呼んでいた。
「……まさか、こんなことになるなんて。もっと、気をつけておくべきだった……」
「ええ……でも、それにしても、街に着いたばかりで彼女の正体がバレるなんて、普通じゃありません。恐らく相手は――」
「諜報に長けた複数の人物。だとすれば、組織的な動き……かしらね」
マリアとリリスが短く目を交わす。
「バゼレーンには治安の悪い区域もあるって聞いてたけど……こんなにも、すぐに思い知ることになるとはね」
「――急ごう!」
アデルの声が切迫した響きを帯びる。
「セレナが、心配だ!」
夜の街並みに、アデルたちの足音だけが残響のように広がっていった。
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◆ ◆ ◆
やがて彼らが辿り着いた先――それは、表向きには倉庫街の一角に過ぎない古びた建物だった。しかし、リリスの魔力感知により、建物の床下に広がる魔力障壁の異質な揺らぎが明らかとなった。
「この下に……何かあるわ」
リリスが囁くように言うと、アデルが壁際の鉄扉を押し開けた。暗がりの中へ身を滑り込ませ、古びた階段を慎重に降りていく。
地下に足を踏み入れた瞬間、そこに広がっていたのは――
違法な交易が行われる地下の闇市だった。
澱んだ空気、獣の皮や魔獣の骨、そして無造作に積まれた魔導器。全てが正規の流通経路を外れ、法の目を逃れるためだけに存在していた。
アデルたちの目の前で、ひときわ異様な光景が広がっていた。
(ここは……)
まるで人の尊厳すら商品として扱う、底知れぬ闇。
そんな場の片隅、鉄柵に囲われた檻の中に、ひときわ目立つ青の髪がうずくまっていた。
「……なんなの、ここ……?」
セレナは怯えたように、膝を抱えていた。
「いやあ、まさかの収穫でしたぜ、カシラ!」
野党の男が、誇らしげに吠えた。
「街中で見つけちまったんですよ、セイレーン族をよ! 最初は信じられなかったが……こいつ、ガチですぜ」
男の足元には、傷ひとつないまま囚われたセレナがいた。腕には拘束用の魔力鎖が巻かれ、声を発しようとしても口が渇いて出ない。
「へえ……」
闇から現れた影は、ぬるりとした不気味な気配を漂わせていた。
カシラ――黒狼の獣人。
片目を潰し、筋肉が膨れた獣の身体。人の理性を欠いた笑みを浮かべるその口元からは、鋭い牙が覗いていた。
「こりゃ上物だな……セイレーン族ときやがるか。なあ、小娘……名前は?」
「……あ、あなた達と話すつもりはないわ」
セレナは震えながらも、真っすぐスレインを睨んだ。
「ほう……なかなか気骨のある嬢ちゃんじゃねえか。でもよォ……」
スレインは獰猛な爪を、まるで玩具を見せるように振りかざす。
「立場ってモンをわからせてやるのも、商品の価値を知るってことだぜ?」
セレナは顔をそむけた。唇を噛み、震えを堪える。
「今夜の目玉商品はこいつで決まりだな! 下手に傷つけんなよ。価値が下がる」
「了解ですぜ、カシラ!」
野党たちが高笑いしながら引き下がる。
(誰か……助けて……アデルさん……)
暗い地下に、セレナのかすかな祈りだけが、残響のように揺れていた。
⸻
◆ ◆ ◆
競りが始まった。
魔導具、希少な魔獣の角、魔晶石、さらには奴隷紛いの人間まで、次々と“商品”が舞台に並べられていく。
「さあて! 次が本日の目玉商品だァ!」
司会の男が甲高い声を上げると、空気がざわめいた。
「これは滅多にお目にかかれませんよぉ……なんとセイレーン族です! 本物の、海の民!」
檻が開き、セレナが引き出される。
ざわ……ざわざわ……
「マジかよ……セイレーン?」
「値段が跳ね上がるぞ……!」
「いや、偽物の可能性もあるか……?」
「ここでそんなことはねぇだろ、買えばこっちのもんだ……!」
低く蠢く声が、場を濁していく。
「それでは、開始金額一千コインから――!」
その瞬間だった。
「《閃光魔弾》!」
突如として放たれた魔法が、眩い閃光を生み出した。競り場が一斉に混乱に包まれる。
「目が……っ!」
「何が起きた!?」
「姫が……いないッ!!」
閃光が収まった時、そこにセレナの姿はなかった。
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「成功、した……!」
細い通路を駆けるアデルたち。
「でも油断できないわ。早くここから離れないと」
リリスの声に、セレナはうつむきながらも、涙を含んだ笑みを浮かべる。
「皆さん、あ、ありがとうございます……私……ごめんなさい……」
「謝るのはこっちだ、セレナ。お前を守れなかった、俺たちの責任だ」
アデルの声に、セレナは言葉を詰まらせた。
だが――
「おいおい……俺らの商品を、どこに連れて行くつもりだ?」
低く響いた声に、三人が振り返る。
そこには、あの黒い獣――スレインが、鉤爪を携えて立ちはだかっていた。
黒い影――スレインが、闇に滲むように立ちはだかる。
「よくやるなぁ? このバゼレーンで俺ら《ブラックフェンリル》のアジトに潜り込んで、姫様を攫ってくとは」
スレインの声には怒りというより、愉悦が滲んでいた。
「ブラックフェンリル……!」
マリアが険しい目で睨みつける。
「あなたたち、裏通りで違法な取引を繰り返す犯罪組織……!」
「ほぉ、よく知ってるじゃねぇか。だったら話が早い。そこのセイレーン族――返してもらうぜ」
「ふざけるな!」
アデルが一歩前に出る。
「セレナは俺たちの仲間だ。お前たちの“商品”なんかじゃない!」
「ヒュウ、正義感たっぷりだな。だがなぁ、ガキ。世界は“需要と供給”で回ってるんだぜ? 金を出すヤツがいる限り、俺たちは生き残る」
「……黙れ!」
アデルが地面を蹴った。その目に宿るのは怒りと――守るという強い意志。
「《光障壁》!」
スレインの鉤爪が瞬時に突き出される。鋭い一撃が光の障壁に激突し、火花が散った。
「チッ、軽い挨拶のつもりだったが、防いだか!」
「こっちも行くぞ! 《聖光解放》!」
アデルの剣に、聖なる光が宿る。刃が黄金に染まり、凛とした気配を放つ。
「リリス、マリア! セレナを頼む! ここは俺が――!」
「……わかったわ。絶対に追いついて来なさいよ!」
リリスは唇を噛みつつも、セレナの肩を抱えて後退した。マリアが即座に護衛の陣形を組む。
「さあて……一対一か。面白ぇじゃねぇか!」
スレインが腕を広げた瞬間、全身に魔力が奔る。
「《大地斬爪》!」
大地を裂くかのような爪撃が、地面を這いながらアデルに迫る。
「くっ……!」
アデルは跳躍し、宙で体勢を整える。
「《魂狩刃》!」
漆黒の魔力が刃となり、斜めに交差するようにスレインへ放たれる。闇の斬撃が空気を切り裂いた。
「おっとぉ……!」
スレインは後方に跳ねて避けるも、片肩をかすめられ、衣服が裂ける。
「テメェ……光と闇を使い分けるだと? なんつー奴だ!」
「お前なんかに負けられないんだ!」
アデルは一息に距離を詰め、剣を構える。
「《アルセリオン・ツヴァイ》――《夜の太陽》!」
彼の手に握られるは、光と闇、双極の刃。
「行くぞ……!」
アデルの魔力が高まる。記憶が蘇る――レオンとの訓練、過去の戦い、仲間の笑顔――すべてが刃に宿る。
「これが俺の剣技だ!《双武斬》!!」
双剣が閃き、光と闇の斬撃が交差する。その軌跡はまるで“月と太陽”が夜空を裂いたかのようだった。
「ぐおおおおおおおっ……!!」
スレインの身体が吹き飛び、壁を穿つように叩きつけられる。地が割れ、塵が舞う。
「……チッ……やるじゃねぇか、坊主……!」
スレインは唸りながらも立ち上がった。身体はボロボロだが、その目だけはなお光を失っていない。
「今回だけは……見逃してやる……次はこうはいかねぇぞ……」
「……アデル。アデルだ」
アデルが名を名乗ると、スレインは笑った。
「覚えたぜ、その名。次会うときは……テメェの命、もらうからな!」
そして彼は、闇に身を溶かすように消えていった。
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「……行ったか」
剣を収め、アデルは深く息を吐いた。震える腕を抑えながらも、ゆっくりと立ち上がる。
「リリスたちと……合流しないと……!」
その足は確かに、仲間の待つ場所へと向かっていた。
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「アデル!」
街外れ、馬車小屋の陰からリリスが駆け寄ってくる。マリアがすぐ後ろに控え、セレナも心配そうに顔をのぞかせていた。
「無事で……よかった……!」
「みんなも……無事か」
アデルの言葉に、全員がほっとした空気を漏らす。
「私のせいで、こんなことに……」
俯くセレナに、アデルは首を振った。
「違うさ。俺たちが……お前を守れなかった。それだけだ」
「ううん……みんなが、助けてくれて……ありがとう……ございます。」
リリスがにっこり笑って肩を抱く。
「今夜はもう、何も起きないで欲しいわね。セレナ、今日は私たちと一緒の部屋で寝なさいな。マリアもいいわよね?」
「ええ。念のため、交代で見守ります。」
「じゃあ、宿に言って部屋の割り振りを変えておくよ」
アデルが頷くと、セレナはようやく安心したように、小さな微笑みを浮かべた。
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こうして、突如として巻き込まれた誘拐事件は幕を閉じた。
だが、その夜の出来事は、セレナだけでなく、アデルたちの胸にも静かな傷を残す。
闇の中にうごめく影――《ブラックフェンリル》。
あの黒き牙が、再び彼らの前に現れるのは、そう遠くない未来のことかもしれない。




