【第四十九話:街の喧騒、影の手】
アクアリスへ向けて旅立ったアデルたち。
彼らの足はまず、港町を目指していた。
道は緩やかに続く丘陵地帯。まだ春先の空気はひんやりとしているが、歩けば頬を撫でる風は心地よく、旅の始まりを告げるように鳥の声が遠くから響いていた。
「ところで――セイレーンの都って、どんなところなんだ?」
アデルが背中の荷を直しながら問いかける。
「うーん……話には聞いたことあるけど、海の中にある海底都市ってことくらいしか、あたしも知らないわ」
リリスが首を傾げる。
その横でセレナが小さく頷いた。フードの陰から覗く青い髪が、風に揺れた。
「そうですね。アクアリスは海底に築かれた私たちセイレーンの都です。周りには豊富な海底資源がありますから、私たちはそれを利用して暮らしているんです。たまに人間との取引もしますが、多くはありません」
「海底都市……そこに私たちも行くんですよね?」
マリアが確かめるように口にする。
「ええ。……あっ、大丈夫です。私の力で、皆さんは水中でも自由に動けるようにできますから」
セレナは慌てて付け加えた。
「それなら良かった!」
アデルが胸を撫で下ろす。
「海底都市って聞いたときは、どうやって行くんだって正直不安だったんだ」
「ねえ、セレナ。セイレーンの魔力汚染って、いつ頃から起こっているの?」
リリスの問いに、セレナは目を伏せ、少し考えるように間を置いた。
「……時期としては、昨年の終わり頃からですね」
「そっか……」
リリスは唇を引き結ぶ。
「それにしても、バゼレーンまでどのくらいかかるのかしら」
「うーん……王都を横切るルートでも、三、四日ってところだな」
アデルが旅程を思い浮かべる。
「セレナは、学園まではどうやって来たの?」
マリアが訊ねると、セレナは小さく苦笑した。
「実は……私たちだけが通れる秘密の通路があるんです。でも、一方通行なんです。ですから帰りは……結局、歩いたり泳いだりするしかありませんね」
「なるほど。まぁ、長旅であることに変わりはないか」
アデルは肩を竦める。
そのとき。
「……そう言ってると、魔物って出るのよね」
リリスがぼそりと呟いた。
「きます!」
マリアが鋭く声を上げる。
「セレナ、後ろに下がって!」
「は、はい!」
次の瞬間、近くの丘の上から地響きのような雄叫びが轟いた。
振り返れば、丘の向こうから土煙を上げながらオークとゴブリンの群れが押し寄せてくる。
その数――ざっと見ても、オーク十数体、ゴブリン三十体を優に超える。
「多いな……」
アデルは冷や汗をかきつつも口角を上げた。
「まぁ、あの程度を倒せないようじゃ、この先やっていけないよな」
「無駄口はいいから、戦闘準備!」
リリスが叫ぶ。
「よし、行くぞ!――《身体強化》!」
アデルの身体に光が走る。
「《覇竜の爪》!」
マリアの槍から竜の咆哮のような風圧が生まれ、前方にいたゴブリン七、八体を一気に吹き飛ばした。
その隙にアデルが双剣を構え、敵陣に飛び込む。
「はっ!」
鋭い連撃が繰り出され、オークの巨体を四体まとめて切り伏せた。
「じゃあ残りは――《炎爆陣》!」
リリスの詠唱とともに、紅蓮の魔力が爆ぜ、オークを含めた群れ全体を焼き尽くす。
炎の熱が収まると、生き残った魔物たちは恐怖に駆られ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「ふぅ……まぁ、大したことはなかったな」
アデルが双剣を収める。
「そうね。……まぁ、あたしたちも成長してるってことじゃない?」
リリスが小さく笑った。
「だな。――えーと、セレナ? あれ? セレナー?」
「こっちです!」
マリアが声を上げる。
その視線の先。物陰で小さく身を縮め、震えているセレナの姿があった。
「あ、あの……セレナ? 大丈夫か?」
アデルが慎重に声をかける。
「!!……あっ、す、すみません! だ、大丈夫です!」
セレナは慌てて立ち上がったが、その顔色は青ざめていた。
リリスが目を細める。
「セレナって、もしかして……すごい怖がりなの?」
「……はい。実は……名ばかりの女王というのは、父の代理という意味もあります。でも……私自身、こんなに臆病で……みんなを守れる自信なんて、なくて……」
声が小さく、震えている。
アデルは少しだけ考え、柔らかい声で言った。
「……じゃあさ。今回の件で、セレナがみんなのために頑張ってるって姿を見せたらいいんじゃないか? そしたらきっと、自分でも自信がつくと思う」
「そ、そうでしょうか……でも、今は私しかいませんから……やるしかないですよね」
「そうですよ。きっと上手くいきます」
マリアが優しく笑った。
「私たちも協力しますから」
「……ありがとうございます。みなさん」
セレナの瞳が、少しだけ潤んで光った。
「よし。そうと決まったら――バゼレーンまで急ぎましょ! また魔物が来たら厄介だから」
リリスが声を張る。
こうして一行は再び歩みを速め、港町バゼレーンを目指した。
◇
――交易都市。
港を抱えるこの街は、東西南北からの交易船が行き交い、市場は常に人であふれている。道端には露店がずらりと並び、香辛料の香り、焼き魚の匂い、甘い果実酒の香りが入り混じって漂っていた。
表面上は平和だが、裏通りを覗けば、ならず者の溜まり場や怪しい店も少なくない。良くも悪くも、人と物と金が絶えず流れる街――それがバゼレーンだった。
「やっと着いたなぁ……!」
アデルが大きく伸びをする。
「旅は楽しいけど、移動はやっぱり疲れるな」
「でも、ようやく街に着いたわね。今日はさすがにここで一泊よね?」
リリスが呆れ混じりに笑う。
「はい。皆さんもお疲れでしょうから、アクアリスへ向かうのは明日にしましょう」
セレナも同意する。
「では、私が宿を探してきます」
マリアが軽く手を挙げる。
「アデルたちは街を散策してきてはどうですか?」
「いいのか、マリア?」
「はい。こう見えても竜族ですから。体力には自信があります」
「あぁ、そうだったな。じゃあ……悪いけど頼む」
「任せてください。それでは――中央広場で合流しましょう」
マリアは軽やかに足を運び、宿探しへと向かった。
「よろしくね~。……あたしはもうクタクタよ~」
リリスが肩をぐるぐる回す。
「すごい人ですね……」
セレナはフードを深く被り、少し圧倒されているようだった。
「セレナも、バゼレーンは初めてなのか?」
「はい。実は私……あまりアクアリス以外に出たことがないんです」
「そうなの?」
「ええ……だから、ルクシアに行ったときも慌ててしまって……」
「なるほどな」
アデルは苦笑する。
「じゃあ、マリアが戻るまでに少し見て回るか」
「そうね。せっかくだからセレナも楽しんだら?」
「……いいんでしょうか? 皆が苦しんでいるのに」
「いいのいいの。出発は明日なんだから、楽しまなきゃ損でしょ」
リリスが片目をつむって笑う。
「で、では……せっかくなので」
セレナの声がほんの少し弾んだ。
「よし、行こうぜ!」
三人は市場へと足を踏み入れる。
見たことのない果物、奇妙な形の魚、香り高い料理の数々。大道芸人の炎の演舞に、珍しい魔道具を並べる露店――。セレナの瞳が、驚きと喜びで次々と輝きを増していく。
「セレナ? 楽しんでるか?」
「はい! すごいです! こんなに楽しいのは初めてかも!」
「それならよかった。でも、アクアリスにも楽しいことはあるだろ?」
「そうですが……やっぱり、水の中とは全然違います」
「ねぇ、アデル! これ、めちゃくちゃ美味しいわよ!」
遠くからリリスの声が飛んできた。
「行こう、セレナ!」
「はいっ!」
二人は並んで駆け出し、リリスのいる屋台へと向かう。
――その様子を、物陰からひとつの影が見ていた。
「アクアリス? 水の中?……ふん。あのフードの女……いい獲物かもしれねぇな」
暗がりに潜む男の目が、獲物を狙う獣のようにぎらついていた。
◇
その夜。
港町バゼレーンの喧騒はすでに遠のき、通りを照らすランプの灯が細い筋を落としていた。昼間は市場の声で満ちていた広場も、今は犬の遠吠えと波の音しか響かない。
マリアが探してきた宿は港近くの石造りの三階建てで、外壁には長い年月の潮風が刻んだ跡が残っている。木の扉をくぐると暖炉があり、まだ微かに薪の香りが漂っていた。
三人と一人は、それぞれの部屋に割り振られた。
マリアとリリスは同じ部屋。アデルは一人部屋。そしてセレナも、客人として個室が与えられた。
「ねえ、セレナを一人にして良かったのかな?」
寝台に腰かけながら、リリスが隣のマリアに小声で話しかける。
「でも、さすがにセイレーンの女王を三人部屋にするわけにはいかないですよ」
マリアは布団を整えながら穏やかに返す。
「セレナは“いい”って言ってたけど?」
「それでもです。いまはこうして親しく話していますけど……都に行ったら、リリスも気をつけてくださいね」
「うっ……まぁ、そうね。気をつけておくわ」
リリスはため息をつきながらも、どこか心に引っかかるものを感じていた。
◇
セレナの部屋。
窓辺にはランプが置かれ、淡い灯が壁に揺れている。窓の外からは、潮の匂いと夜風が入り込んでいた。
「今日は……楽しかったな」
セレナは小さく呟き、ベッドの端に腰を下ろした。
「今回のことがなければ……もっと楽しめたのかな。でも……そしたらアデルさん達と会えてなかったのかもしれない」
指先で自分の青い髪を弄びながら、セレナは笑みを浮かべる。
そして立ち上がり、窓の外を覗いた。遠くに見える港の明かりが、波に揺れて瞬いている。
「……みんな、待っててね。必ず……なんとかするから」
そう言って視線を窓から外した、その瞬間だった。
――ぬるり。
外の闇から、冷たい腕がすっと伸びてきた。
「えっ――」
セレナの声が途切れる。
腕は彼女の手首を掴み、ぐいと引き寄せる。
「!!」
反射的に抵抗しようとしたが、すぐに背後から複数の気配が覆い被さった。
「こいつは……やっぱりセイレーン族か。こりゃいい……よし、撤収だ」
低い声。
数名の侵入者は素早く魔法陣を展開し、セレナの身体を光の鎖で拘束した。彼女の声は封じられ、必死の抵抗も空しく、そのまま窓から外へと連れ去られていった。
窓に残ったのは、夜風とわずかな魔力の痕跡だけだった。
◇
同じ頃。
アデルはベッドの上で目を開けていた。
「……なんだ? 寝付けねぇ」
心臓がやけに騒がしい。胸の奥でざわめく感覚に、彼は眉を寄せる。
「……セレナ?」
気になって声をかけてみるが、返事はない。
「もう寝たか……? ……俺も寝るか」
そう呟いて布団に潜ろうとしたとき――。
――カタン。
小さな物音が、耳に届いた。
「……?」
アデルは身を起こし、耳を澄ます。
「セレナ? 大丈夫か?」
廊下に出たその声に、リリスとマリアが扉を開けて顔を出した。
「どうしたの、アデル?」
「セレナの部屋の様子がおかしいんだ」
「どいてください」
マリアが前に出て、躊躇なく扉を押し開ける。
――そこに、セレナの姿はなかった。
「どういうこと!? セレナはどこに行ったの!?」
リリスの声が震える。
「……魔法の痕跡だ」
アデルは床に残る淡い光を指さす。
「間違いない、ここで魔法が使われた」
「セレナは……何者かに攫われた。そう見るのが正しいかもしれません」
マリアの声は低く、確信に満ちていた。
「くそっ……!」
アデルは拳を握りしめる。
「追うぞ! セレナを探すんだ! 痕跡を追えば見つけられるはずだ!」
「ええ! さっさと行くわよ!」
リリスも目を鋭くした。
――セレナが攫われた。
その事実が、三人の胸を大きく揺さぶっていた。




