【第四十七話:甘い香りと海の民】
今回からまた新たな学年が始まります。
ルクシアの空は、また新しい季節を迎えていた。
春と夏の境目、草花が芽吹き、陽射しが柔らかくも強さを帯び始める時期だ。学園の庭では彩り豊かな花々が咲き、学生たちの制服の袖も軽やかになっている。
その中で、アデル=セリオルは汗を滲ませながら剣を振っていた。訓練場に響く金属音は、彼の日常の一部であり、変わらぬ決意の証でもあった。
光と闇、そして混沌。その制御は未だ容易ではない。だが彼は立ち止まらない。卒業を控えるこの年、いっそう強くならなければならないと自覚していた。
「やってるわね、アデル」
背後から澄んだ声が響いた。振り返れば、漆黒の髪を揺らし、真紅の瞳を持つ少女――リリス=ブラッドが歩いてくる。軽やかな足取りだが、その表情はどこか柔らかい。
「ああ、リリス。訓練は欠かせないからな。俺はもっと魔力制御を高めないといけないし」
「訓練も大事だけど、たまには息抜きも必要じゃない? ずっと訓練ばっかりだと、息が詰まるわよ」
「それは……そうだけど」
アデルは苦笑いを浮かべた。言葉に反論はできなかった。リリスは唇に小さな笑みを乗せ、両手を腰に当てる。
「前に街の方に、美味しいデザートが食べられるお店を見つけたの。今からちょっと行かない?」
「今からか? うーん……でもな」
「ほら! たまにはいいでしょ。レオンさんだって、たまに息抜きするくらい許してくれるでしょ」
アデルはしばらく黙り、剣を鞘に納めると、肩で息をしながら笑った。
「それもそうか。まぁ、しばらく街の方に行ってなかったし……ちょっと行ってみるか」
「決まりね! じゃあ早速いきましょ!」
二人は肩を並べ、学園の門を抜けてルナーシュの街へと歩き出した。
◇
ルナーシュの街。去年、星の徒の襲撃で甚大な被害を受けた場所だ。瓦礫の山と化した区画も多かったが、今はその影をほとんど残していない。魔法による復興の力と、人々の逞しさが街を再び彩りに満ちたものへと変えていた。
「ここらへんもすっかり元に戻ったんだな」
「そうね。魔法の力とはいえ、復旧には時間がかかったみたいだけど」
「ああ……それでもまた、この景色が見られて良かった」
「そうね」
並んで歩く二人の耳に、子供たちの笑い声が届く。広場では追いかけっこをする子どもたち、露店では威勢のいい声で客を呼ぶ商人たち。香ばしい焼き菓子や、香辛料の匂いが風に乗って漂う。
リリスは指を伸ばしてある方向を示した。
「その店よ。そこの《シュガームーン》っていう店」
店の入口からは、甘く香ばしい匂いが漂ってきた。砂糖とバターが溶け合った香り、焼きたてのパン生地の匂い、果実の酸味がほんのり混じる。
「いい匂いだな」
「でしょ? さ、入りましょ」
二人が扉を押すと、ベルの音が軽やかに鳴った。店内は暖かな木調でまとめられ、壁には花の絵が掛けられている。窓際には陽が差し込み、客の笑顔とデザートの艶やかさを照らしていた。
席につき、二人はメニューを開いた。色鮮やかな挿絵が食欲を刺激する。
「……ふわとろパンケーキ? なんだこれ」
「異世界人が考案したメニューらしいわよ。王都の方で流行ってるって」
「へぇ……リリスはどうする?」
「もちろんこのベリーベリーふわトロパンケーキよ! 一番人気らしいからね」
「じゃあ俺は普通のやつでいいかな」
注文を済ませ、二人はしばらく窓の外を眺めた。人々の往来、笑顔。静かなひととき――そこへ。
「あら? アデルさんとリリスさんじゃありませんか?」
振り向くと、金髪を巻き上げた少女が立っていた。気品ある仕草で扇子を口元に添える――レティシア:グランヴェールだ。
「レティシア、こんにちは」
「ええ、ご機嫌よう。お二人とも仲がいいですわね」
「そ、そんなことないわよ!」
リリスは少し頬を赤らめながら否定する。アデルは苦笑を浮かべて肩をすくめた。
「良かったらご一緒しても?」
「ああ、構わないさ」
「ええ、もちろんよ」
レティシアは優雅に席に腰を下ろし、同じく注文を済ませた。
「お久しぶりですわね。お二人とも」
「そうね。レティシアはどうしていたの?」
「ワタクシはあの事件のあと、家に帰っておりましたの。お父様が、あまりにもうるさく“帰れ”と」
「そうだったのか……。今更になるけど、リナの件……すまなかった。謝ってどうにかなるものでもないとは思うけど」
「いいえ。謝ることではありませんわ。……リナさんのこと、ワタクシも残念でなりません。でも、貴族たるもの、いつまでも落ち込んでいられません。前を向くことがリナさんへの手向けだと考えておりますの」
リリスは瞳を伏せ、そして真っ直ぐレティシアを見た。
「あなたは強いわね」
「そんなことありませんわ。でも……リナさんやリリスさんのおかげで、少しは変われた気がしますの」
「……ありがとう」
「お互い様ですわ」
二人は微笑みを交わした。ちょうどその時、香ばしい香りと共に皿が運ばれてきた。
「わぁ! 美味しそう!」
「まぁ……ワタクシの家でも、これほどのものは中々出てきませんわね」
「そういうものか? とりあえず食べようぜ!」
「もう! アデルってばちょっとは感動しなさいよ!」
「うおっ! これ、めちゃくちゃ美味いぞ!」
リリスは呆れたようにため息をつき、レティシアは口元を押さえて小さく笑った。甘さと温もりに満ちた昼下がり。三人の笑顔が重なった。
◇
店を出て、石畳の道を歩く。アデルは満足げにお腹をさすった。
「いやー、美味かったな。まさかあんなに美味いとは思わなかった」
「だから言ったでしょ。まったく、食べるまでアデルは興味なさそうなんだから」
「いや、そういうわけじゃ……」
「アデルさんは、ああいうお店は縁がなさそうですものね」
「まぁ、アデルだし仕方ないわよ」
「おいおい、言い過ぎだろ!」
三人の軽口が、街並みに溶けていった。だが、路地の奥から荒い声が響いた。
「おい、テメェ! ぶつかっておいてなんの詫びもねぇのか!」
悲鳴混じりの声も続く。アデルたちは足を止め、声のする方へ向かった。
そこで繰り広げられていたのは――一人の旅人とチンピラの口論だった。
石畳の広場を抜けた先、細い路地に差しかかったときだった。
怒号と悲鳴が、冷たい空気を震わせる。
「おいテメェ! ぶつかっておいてなんの詫びもねぇのか!」
「す、すみません……急いでいたもので……!」
「そんなもん関係ねぇ! 俺はいま、むしゃくしゃしてんだ! 詫びいれてもらわねぇと気が収まらねえ!」
リリスが眉をひそめ、声のする方へ足を速めた。路地の奥では、旅装をまとった若い人物が壁際に押しやられ、粗暴な男に胸ぐらを掴まれていた。通行人は遠巻きに見ているだけで、誰も止めに入ろうとはしない。
「そ、そんな! どうすればいいんですか?」
「決まってんだろ! テメェの有り金全部よこしやがれ! 嫌なら……その体で払ってもらおうじゃねぇか!」
「む、無理です……謝りますから……!」
「はぁ? そんな口先だけで許されると思ってんのか!」
荒く息を吐きながら男は拳を振り上げた。その瞬間――。
「……じゃあ、なにで許されるのよ?」
冷たい声が響いた。リリスだった。
彼女は一歩、前へ踏み出し、その深紅の瞳でチンピラを射抜く。
「なっ……誰だ、テメェ?」
「ただの通りすがり。でもね、そういう輩は大嫌いなの」
背後からアデルも歩み出る。片手は剣の柄に自然と伸びていた。
「そういうわけだ。俺たちはお前みたいなクズを放っておく気はない」
「けっ……学生風情が、調子に乗るんじゃねぇ!」
チンピラは両手を広げ、電撃の魔法陣を展開した。
「《雷環衝撃》!」
紫電が弾け、火花が路地を照らす。しかし、その瞬間――。
「無駄ですわ!」
レティシアが一歩前に出て、氷の魔法陣を展開する。
彼女の周囲に冷気が舞い、氷の壁が形を取った。
「《凍てつく守り(アイス・ウォール)》!」
雷光が壁に弾かれ、霜の粒となって散る。チンピラは目を剥き、さらに叫んだ。
「くそっ、ならこれでどうだ!」
だがレティシアは怯まず、扇子を閉じるように指を揃えて詠唱した。
「あなたのような人間にはこれがお似合いですわ。《氷鎖縛結》!」
瞬間、氷の鎖がチンピラの手足を絡め取り、瞬く間に氷塊となって動きを封じた。地面に転がった男は、必死に身を捩ったがどうにもならない。
「ひっ……助けてくれ!」
「このまま警備兵に引き渡そう。俺たちが手を下すまでもない」
アデルが短く言い、通報の魔法陣を展開する。間もなく、駆けつけた警備兵がチンピラを引き取り、礼を述べて去って行った。
「全く……ああいう輩は相変わらずだな」
「そうね。減っている気がしないわ」
リリスが小さく息を吐いた。
そのとき――。
「あ、あの……ありがとうございます!」
後ろから声がした。さきほど助けられた旅人だった。フードの奥から覗く瞳が、緊張と安堵を交錯させている。
「気にすることはありませんわ」
レティシアが胸を張る。「庶民を助けるのも、貴族の務めですもの」
「またそれ……」リリスが呆れたように肩をすくめる。
「でもまぁ、今回は本当にいいことしたんだから、良しとするわ」
アデルが一歩近づき、優しく尋ねた。
「君、大丈夫か? 急いでたみたいだけど」
「あっ……はい、大丈夫です。……あの、皆さんは……もしかしてルクシアの学生の方ですか?」
「ええ。そうよ」リリスが頷く。
旅人は少し迷うようにして、深く頭を下げた。
「やっぱり……そうでしたか。あの……ご迷惑でなければ、ルクシアまでご一緒してもいいですか? 学園長にどうしてもお話と、依頼があって……」
「ルクシアに? 学園長に?」
アデルは腕を組み、視線を仲間に投げた。
「……どうする? 星の徒の件もあったばかりだし、部外者を連れて入るのは……」
「でも困っているみたいだし、またさっきみたいなことがあったら?」
リリスが小声で返す。
「ワタクシは連れて行ってもいいと思いますわ」
レティシアは迷いなく言った。
「なんで?」
「貴族の勘、というものですわ!」
呆れ顔になるアデルとリリス。その時、旅人が一歩前に出た。
「あの……怪しいと思われるなら、これでどうでしょうか」
そう言って、深く被っていたフードを外した。
現れたのは、青い髪を持つ美しい女性。その髪は波のように揺れ、瞳は海を映すような碧。だが、その雰囲気は人間のものではなかった。
「……君は、人間じゃないのか?」
「はい……。私の名前はセレナ:アクアリス。セイレーンの都の長として参りました」
「セイレーン……!?」
リリスが目を丸くする。
「じゃあ……あなたは、女王様……?」
レティシアは扇子を落としそうになり、がっくりとうなだれた。
「……またワタクシ、とんでもない失礼を……」
アデルは驚きと共に、一抹の不穏な予感を覚えていた。
突然現れたセイレーンの女王。その訪問は偶然か、それとも必然か――。
街の喧騒の中で、確かに運命の歯車が、新たに音を立てて回り始めていた。
◇
――三学年の始まりは、穏やかに見えた。
だが、その裏側で、大きな波が動き出していた。




