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混沌のアリス  作者: 里羽
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【第四十七話:甘い香りと海の民】

今回からまた新たな学年が始まります。

ルクシアの空は、また新しい季節を迎えていた。

 春と夏の境目、草花が芽吹き、陽射しが柔らかくも強さを帯び始める時期だ。学園の庭では彩り豊かな花々が咲き、学生たちの制服の袖も軽やかになっている。


 その中で、アデル=セリオルは汗を滲ませながら剣を振っていた。訓練場に響く金属音は、彼の日常の一部であり、変わらぬ決意の証でもあった。

 光と闇、そして混沌。その制御は未だ容易ではない。だが彼は立ち止まらない。卒業を控えるこの年、いっそう強くならなければならないと自覚していた。


「やってるわね、アデル」


 背後から澄んだ声が響いた。振り返れば、漆黒の髪を揺らし、真紅の瞳を持つ少女――リリス=ブラッドが歩いてくる。軽やかな足取りだが、その表情はどこか柔らかい。


「ああ、リリス。訓練は欠かせないからな。俺はもっと魔力制御を高めないといけないし」


「訓練も大事だけど、たまには息抜きも必要じゃない? ずっと訓練ばっかりだと、息が詰まるわよ」


「それは……そうだけど」


 アデルは苦笑いを浮かべた。言葉に反論はできなかった。リリスは唇に小さな笑みを乗せ、両手を腰に当てる。


「前に街の方に、美味しいデザートが食べられるお店を見つけたの。今からちょっと行かない?」


「今からか? うーん……でもな」


「ほら! たまにはいいでしょ。レオンさんだって、たまに息抜きするくらい許してくれるでしょ」


 アデルはしばらく黙り、剣を鞘に納めると、肩で息をしながら笑った。


「それもそうか。まぁ、しばらく街の方に行ってなかったし……ちょっと行ってみるか」


「決まりね! じゃあ早速いきましょ!」


 二人は肩を並べ、学園の門を抜けてルナーシュの街へと歩き出した。



 ルナーシュの街。去年、星の徒の襲撃で甚大な被害を受けた場所だ。瓦礫の山と化した区画も多かったが、今はその影をほとんど残していない。魔法による復興の力と、人々の逞しさが街を再び彩りに満ちたものへと変えていた。


「ここらへんもすっかり元に戻ったんだな」


「そうね。魔法の力とはいえ、復旧には時間がかかったみたいだけど」


「ああ……それでもまた、この景色が見られて良かった」


「そうね」


 並んで歩く二人の耳に、子供たちの笑い声が届く。広場では追いかけっこをする子どもたち、露店では威勢のいい声で客を呼ぶ商人たち。香ばしい焼き菓子や、香辛料の匂いが風に乗って漂う。


 リリスは指を伸ばしてある方向を示した。


「その店よ。そこの《シュガームーン》っていう店」


 店の入口からは、甘く香ばしい匂いが漂ってきた。砂糖とバターが溶け合った香り、焼きたてのパン生地の匂い、果実の酸味がほんのり混じる。


「いい匂いだな」


「でしょ? さ、入りましょ」


 二人が扉を押すと、ベルの音が軽やかに鳴った。店内は暖かな木調でまとめられ、壁には花の絵が掛けられている。窓際には陽が差し込み、客の笑顔とデザートの艶やかさを照らしていた。


 席につき、二人はメニューを開いた。色鮮やかな挿絵が食欲を刺激する。


「……ふわとろパンケーキ? なんだこれ」


「異世界人が考案したメニューらしいわよ。王都の方で流行ってるって」


「へぇ……リリスはどうする?」


「もちろんこのベリーベリーふわトロパンケーキよ! 一番人気らしいからね」


「じゃあ俺は普通のやつでいいかな」


 注文を済ませ、二人はしばらく窓の外を眺めた。人々の往来、笑顔。静かなひととき――そこへ。


「あら? アデルさんとリリスさんじゃありませんか?」


 振り向くと、金髪を巻き上げた少女が立っていた。気品ある仕草で扇子を口元に添える――レティシア:グランヴェールだ。


「レティシア、こんにちは」


「ええ、ご機嫌よう。お二人とも仲がいいですわね」


「そ、そんなことないわよ!」


 リリスは少し頬を赤らめながら否定する。アデルは苦笑を浮かべて肩をすくめた。


「良かったらご一緒しても?」


「ああ、構わないさ」


「ええ、もちろんよ」


 レティシアは優雅に席に腰を下ろし、同じく注文を済ませた。


「お久しぶりですわね。お二人とも」


「そうね。レティシアはどうしていたの?」


「ワタクシはあの事件のあと、家に帰っておりましたの。お父様が、あまりにもうるさく“帰れ”と」


「そうだったのか……。今更になるけど、リナの件……すまなかった。謝ってどうにかなるものでもないとは思うけど」


「いいえ。謝ることではありませんわ。……リナさんのこと、ワタクシも残念でなりません。でも、貴族たるもの、いつまでも落ち込んでいられません。前を向くことがリナさんへの手向けだと考えておりますの」


 リリスは瞳を伏せ、そして真っ直ぐレティシアを見た。


「あなたは強いわね」


「そんなことありませんわ。でも……リナさんやリリスさんのおかげで、少しは変われた気がしますの」


「……ありがとう」


「お互い様ですわ」


 二人は微笑みを交わした。ちょうどその時、香ばしい香りと共に皿が運ばれてきた。


「わぁ! 美味しそう!」


「まぁ……ワタクシの家でも、これほどのものは中々出てきませんわね」


「そういうものか? とりあえず食べようぜ!」


「もう! アデルってばちょっとは感動しなさいよ!」


「うおっ! これ、めちゃくちゃ美味いぞ!」


 リリスは呆れたようにため息をつき、レティシアは口元を押さえて小さく笑った。甘さと温もりに満ちた昼下がり。三人の笑顔が重なった。



 店を出て、石畳の道を歩く。アデルは満足げにお腹をさすった。


「いやー、美味かったな。まさかあんなに美味いとは思わなかった」


「だから言ったでしょ。まったく、食べるまでアデルは興味なさそうなんだから」


「いや、そういうわけじゃ……」


「アデルさんは、ああいうお店は縁がなさそうですものね」


「まぁ、アデルだし仕方ないわよ」


「おいおい、言い過ぎだろ!」


 三人の軽口が、街並みに溶けていった。だが、路地の奥から荒い声が響いた。


「おい、テメェ! ぶつかっておいてなんの詫びもねぇのか!」


 悲鳴混じりの声も続く。アデルたちは足を止め、声のする方へ向かった。


 そこで繰り広げられていたのは――一人の旅人とチンピラの口論だった。


 石畳の広場を抜けた先、細い路地に差しかかったときだった。

 怒号と悲鳴が、冷たい空気を震わせる。


「おいテメェ! ぶつかっておいてなんの詫びもねぇのか!」


「す、すみません……急いでいたもので……!」


「そんなもん関係ねぇ! 俺はいま、むしゃくしゃしてんだ! 詫びいれてもらわねぇと気が収まらねえ!」


 リリスが眉をひそめ、声のする方へ足を速めた。路地の奥では、旅装をまとった若い人物が壁際に押しやられ、粗暴な男に胸ぐらを掴まれていた。通行人は遠巻きに見ているだけで、誰も止めに入ろうとはしない。


「そ、そんな! どうすればいいんですか?」


「決まってんだろ! テメェの有り金全部よこしやがれ! 嫌なら……その体で払ってもらおうじゃねぇか!」


「む、無理です……謝りますから……!」


「はぁ? そんな口先だけで許されると思ってんのか!」


 荒く息を吐きながら男は拳を振り上げた。その瞬間――。


「……じゃあ、なにで許されるのよ?」


 冷たい声が響いた。リリスだった。

 彼女は一歩、前へ踏み出し、その深紅の瞳でチンピラを射抜く。


「なっ……誰だ、テメェ?」


「ただの通りすがり。でもね、そういう輩は大嫌いなの」


 背後からアデルも歩み出る。片手は剣の柄に自然と伸びていた。


「そういうわけだ。俺たちはお前みたいなクズを放っておく気はない」


「けっ……学生風情が、調子に乗るんじゃねぇ!」


 チンピラは両手を広げ、電撃の魔法陣を展開した。


「《雷環衝撃(サンダー・サークル)》!」


 紫電が弾け、火花が路地を照らす。しかし、その瞬間――。


「無駄ですわ!」


 レティシアが一歩前に出て、氷の魔法陣を展開する。

 彼女の周囲に冷気が舞い、氷の壁が形を取った。


「《凍てつく守り(アイス・ウォール)》!」


 雷光が壁に弾かれ、霜の粒となって散る。チンピラは目を剥き、さらに叫んだ。


「くそっ、ならこれでどうだ!」


 だがレティシアは怯まず、扇子を閉じるように指を揃えて詠唱した。


「あなたのような人間にはこれがお似合いですわ。《氷鎖縛結(アイス・ホールド)》!」


 瞬間、氷の鎖がチンピラの手足を絡め取り、瞬く間に氷塊となって動きを封じた。地面に転がった男は、必死に身を捩ったがどうにもならない。


「ひっ……助けてくれ!」


「このまま警備兵に引き渡そう。俺たちが手を下すまでもない」


 アデルが短く言い、通報の魔法陣を展開する。間もなく、駆けつけた警備兵がチンピラを引き取り、礼を述べて去って行った。


「全く……ああいう輩は相変わらずだな」


「そうね。減っている気がしないわ」


 リリスが小さく息を吐いた。

 そのとき――。


「あ、あの……ありがとうございます!」


 後ろから声がした。さきほど助けられた旅人だった。フードの奥から覗く瞳が、緊張と安堵を交錯させている。


「気にすることはありませんわ」

 レティシアが胸を張る。「庶民を助けるのも、貴族の務めですもの」


「またそれ……」リリスが呆れたように肩をすくめる。

「でもまぁ、今回は本当にいいことしたんだから、良しとするわ」


 アデルが一歩近づき、優しく尋ねた。


「君、大丈夫か? 急いでたみたいだけど」


「あっ……はい、大丈夫です。……あの、皆さんは……もしかしてルクシアの学生の方ですか?」


「ええ。そうよ」リリスが頷く。


 旅人は少し迷うようにして、深く頭を下げた。


「やっぱり……そうでしたか。あの……ご迷惑でなければ、ルクシアまでご一緒してもいいですか? 学園長にどうしてもお話と、依頼があって……」


「ルクシアに? 学園長に?」

 アデルは腕を組み、視線を仲間に投げた。

「……どうする? 星の徒の件もあったばかりだし、部外者を連れて入るのは……」


「でも困っているみたいだし、またさっきみたいなことがあったら?」

 リリスが小声で返す。


「ワタクシは連れて行ってもいいと思いますわ」

 レティシアは迷いなく言った。


「なんで?」


「貴族の勘、というものですわ!」


 呆れ顔になるアデルとリリス。その時、旅人が一歩前に出た。


「あの……怪しいと思われるなら、これでどうでしょうか」


 そう言って、深く被っていたフードを外した。

 現れたのは、青い髪を持つ美しい女性。その髪は波のように揺れ、瞳は海を映すような碧。だが、その雰囲気は人間のものではなかった。


「……君は、人間じゃないのか?」


「はい……。私の名前はセレナ:アクアリス。セイレーンのアクアリスの長として参りました」


「セイレーン……!?」

 リリスが目を丸くする。

「じゃあ……あなたは、女王様……?」


 レティシアは扇子を落としそうになり、がっくりとうなだれた。


「……またワタクシ、とんでもない失礼を……」


 アデルは驚きと共に、一抹の不穏な予感を覚えていた。

 突然現れたセイレーンの女王。その訪問は偶然か、それとも必然か――。


 街の喧騒の中で、確かに運命の歯車が、新たに音を立てて回り始めていた。



――三学年の始まりは、穏やかに見えた。

だが、その裏側で、大きな波が動き出していた。

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