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混沌のアリス  作者: 里羽
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【幕間:王の威厳、父の想い】

ルクシアから戻った翌日、リリスは荷をひとまとめにすると、学園の寮を後にした。二年生としての授業と実習はすべて終わり、結果も出そろったところだ。三年に上がる前に、一度だけ故郷へ顔を出しておきたい――そう思ったのは、アデルの家から帰って数日したあとだった。


馬車の荷台から顔を覗かせると、季節の境い目の空がゆっくり流れていく。畑の黄、川面の銀、遠い丘の青。視界が切り替わるたびに、胸の奥に沈んだものが、すこしずつ形を変える。リナの墓前で泣き明かしたあの日から、まだ日数は経っていない。目を閉じれば、今もあの声が胸の内側で小さく響く。


(大丈夫。あのとき今日だけは弱音を吐いていい、ってそう決めたの。だから、もう俯かない――顔を上げるの)


 馬車が進んで行くと城壁が現れた。昼なお薄暗い空の下、黒曜石のごとく冷たい輝きを放つ城壁が、眼前に立ちはだかる。城壁の向こうには尖塔を持つ高層建築が連なり、血のように赤い灯火が霞んだ霧の中でぼんやりと滲んでいる。彼女の生まれ育った都――エクリシアだ。。


 城門前の広場に差しかかると、衛兵が一礼した。


「姫様、ご帰城の手配は伺っております。お帰りなさい。」


 軽く会釈を返し、リリスは城内へと歩を進める。石壁の内側に入ると、空気の温度が少し下がった。長い回廊、磨かれた床。壁には王家の系譜を描いたタペストリーが並び、夜の都エクリシアでは昼でも月の光が調和する。城は、いつもと同じ匂いがした。安心と緊張が同居する、凛とした匂い。


 案内役はいらない。子どものころから走り回った空間だ。けれど、中庭の角を曲がったところで、思わず足を止めた。


「……おかえりなさい、姫様」


 低い声が緑の茂みからした。振り向くと、剪定ばさみを持った男が、茂みの向こうで手を上げた。金に近い琥珀色の瞳――オーラムだ。


「じい!あなたどうして?」


「あの人間が姫様を連れ出した後ワシも王の許しが出てまた庭師として働いています。」


 あのとき――アデルたちを城に案内してくれた、軽妙で頼もしいガイド。今は、かつての上下服に戻り、手には土の匂いがある。背後の生け垣は、彼の仕事ぶりを誇るように端正だ。


「案内役は、お役御免?」


「それはひとときの暇つぶしです。庭は待ってはくれません。冬の枝を落とし、春の芽を守るのがワシの本職。姫様もご存じでしょう。」


 はさみの刃が、月の光に照らされ小さく鳴った。切り落とされた細枝が籠に落ちる。


「この前は助かったわ。あなたがいなかったら、アデル達、きっと面倒なことになってた」


「礼を言うのはワシの方だ。あの人間、アデルと言ったか。……彼には姫様を連れ出してくれた礼を言わねば。」


 オーラムは少しだけ視線を落とした。庭のあちこちに新しい薔薇の苗が植えられている。白、薄桃、深紅。その一株を指で示す。


「これは“月露つきつゆ”。夜明け前がいちばん香る。そして花が開くのは一年で一晩だけ。」


「……綺麗でしょうね」


「花はその一瞬の為に全てをかけています、あの人間もあの瞬間はあなたのために全てをかけておられたのではないですかな」


リリスの顔が少し赤くなる。


「なっ!いきなり何言うのよ!アデルは別にいつもああいうやつなのよ」


「左様ですか」


オーラムが微笑み、ひと呼吸。リリスの肩から、緊張がほんの少し抜ける。オーラムは、彼女の顔色を測るように目を細めた。


「少し疲れていますかな?」


「まぁここまでは長旅だからね」


「ではお父上と食事をしてください。……食堂で恐らくはお待ちになっているはずです。」


「ありがとう」


「それと――」


 オーラムは、剪定したての小さな枝を差し出した。銀色に近い葉と、まだ固い蕾がひとつ。


「あなたの部屋の窓辺に挿しておくといいです。春になればきっといい香りがするはずです。」


「……わかった」


 短い挨拶を終え、リリスは謁見の間へ向かった。石段を上る足に、庭の土の匂いが寄り添う。心を落ち着かせる匂いだった。



 食事を取るためリリスは、部屋へと足を踏み入れる。部屋は緋の絨毯の両脇には季節の花が飾られ、天蓋の帷も軽い生地へと替えられている。渦巻く金の装飾の奥、ひとつの椅子にヴァンパイアが腰掛けていた。


 白銀の長髪、真紅と漆黒のマント。瞳は濃い真紅色。立ち上がる様子に無駄はなく、歳を重ねても背は真っ直ぐだ。ヴァンパイアの王であるヴァルター=ヴァレンタイン。


「よく帰った、リリーナ、息災であったか?」


 柔らかい声だった。リリスは顔を下げお辞儀をし、礼を取る。ヴァルターは手を軽く振った。


「形式はよい。顔を、上げなさい」


「……はい、ただいま帰りました、お父様。」


「学園の生活はどうだ…?」


「……すごく楽しいです、いままで見たことない景色や仲間達と立場など関係なく過ごせる日々、知らない料理や魔法、街の人々……私には新鮮です。」


「ふむ、ならば良い、だが不穏な奴等の噂などいまだ消えぬ」


 王は対面の椅子を指差した。


「座りなさい。昔話は、立ったままでは長すぎる」


 緊張が少し解け、リリスは腰を下ろす。王は、彼女の視線の高さまで目線を落とした。


「まずは食事にしよう、話なら食事をしながらでもできる。」


 そう父の言葉に緊張が解けていくのを感じた。自身の父だがヴァンパイアの王、そのため幼い頃からリリスは父親の前でも少なからず気を張っているようだった。


「はい、いただきます。お父様もお変わりなく」


リリスは従者が運んできた料理見る。


 従者が次々に銀の蓋を外すと、芳しい湯気が部屋いっぱいに広がった。

 赤ワインで煮込んだ牛肉の香ばしい匂い、蒸した根菜の甘みを引き立てるハーブの香り、焼きたての黒パンの香りが鼻をくすぐる。深紅のソースがかけられたロースト肉の断面は柔らかく、肉汁がじんわりと皿に広がっていた。


「……今日は随分と豪勢ね」


 リリスが小さく笑みを浮かべると、ヴァルターはわずかに目を細めた。


「娘が久しぶりに帰るのだ。当然のことだ」


 短い言葉の中に、さりげない温もりが含まれている。リリスは胸が少し熱くなるのを感じた。


 スープ皿に注がれたのは、茸と野菜をじっくり煮込んだポタージュ。口に運ぶと、舌に広がる濃厚な旨みとほんのりとした甘み。幼い頃、風邪をひいたときに出された味を思い出し、思わず目を細める。


「……この味、変わってない。子どもの頃、よく飲んでました」


「覚えているか。あれはお前の母が好んでいた味付けだ。……人間の料理を真似たものだがな」


 ヴァルターの表情に、一瞬だけ懐かしさの影がよぎる。リリスはその横顔を見ながら、そっと黒パンをちぎり、ポタージュに浸して口に運んだ。外は香ばしく、中はふんわりと柔らかい。温かなスープが染みて、身体の芯までほぐれる。


「やっぱり、美味しい……」


 その呟きに、ヴァルターの口元がわずかにほころぶ。


「気に入っているなら、次も同じものを用意させよう」


「ふふっ、嬉しい。……でも毎回だと太っちゃうかも」


 思わず冗談を口にすると、ヴァルターは驚いたように一瞬目を瞬かせ、それから低く喉を鳴らした。笑ったのだと気づき、リリスは胸が温かくなった。


 メインの皿に運ばれたのは、血の赤に似たソースを纏った鹿肉のロースト。付け合わせの葡萄のコンポートが甘酸っぱく、肉の濃厚さを引き立てる。ナイフを入れると、驚くほど柔らかく切れ、口に含むと芳醇な香りが広がった。


「どうだ」


「……お父様の好みの味ね。しっかりしてて、でも深い」


「ふむ。血の一滴のように濃くあれ、というのが我が家の料理人の口癖だ」


 硬い言葉の端に、どこか誇らしげな響きが混じる。リリスは頷き、口の中の旨味をゆっくり味わった。


 食後、銀盆に乗って運ばれてきたのは、薄紅色の果実を使ったタルトと、香ばしいハーブティー。甘酸っぱい香りがふわりと広がる。リリスはフォークで小さく切り分け、口に含んだ。果汁の甘さと生地の香ばしさが一瞬で広がり、思わず頬が緩む。


「美味しい……。こういうのは学園にはなかなか無いわ」


「そうか。なら、帰るたびに楽しみにするといい」


 ヴァルターの声は柔らかく、さっきまでの威厳ある響きよりもずっと父親らしい音色になっていた。

 リリスはカップを両手で包み込み、温もりを胸に沁み込ませながら、そっと笑った。


「……帰ってきて良かった」


「私もだ。お前が無事に戻ったことが、何よりの料理の味を深くする」


 テーブルの上に、静かな温もりが流れた。父と娘の距離は、料理の香りと味を通して、少しずつ和らぎ、確かに近づいていた。



 リリスは自室に戻ると、窓辺のカーテンを引き、夜の街を見下ろした。

 エクリシアの街並みは、いつもと変わらぬ薄紅の灯りに染められている。尖塔の先端にかかる月は雲間から顔を覗かせ、濃い霧が石畳をうっすらと覆っていた。昼でも夜のようなこの都では、街の光そのものが生きているように感じられる。


 目を閉じれば、食堂での温かいひとときが蘇る。父が差し出してくれたグラス、苦味を抑えた赤ワインの芳醇な香り。焼き上げられた肉の表面から立ち上る香ばしさ、口の中でほどける柔らかさ。濃厚なソースと、添えられた香草の爽やかさ。その全てが、ただ「食事」以上のものに思えた。――父が自分を案じ、少しでも安心させようとしてくれていたことが、ようやく胸に落ちてくる。


(……お父様も、本当は心配してくれているのね。王としての顔の奥に、ちゃんと“父”としての想いがある……)


 思い返せば、幼い頃はただ威厳に押されて距離を置いてしまっていた。

 けれど今日の食卓は違った。王としてではなく娘が帰ってきたことを喜ぶ父親の顔であった。


 リリスは両手を胸の前で組み、小さく息を吐いた。

 視線を街へ戻すと、広場に灯された赤いランタンの列が目に入る。人々が行き交い、時折馬車の車輪が石畳を擦る音が響いた。誰もがこの都の夜を生きている――冷たさの中に確かな温もりを抱きながら。


(私も、ここに生まれて……そして、あの学園で仲間に出会った。二つの居場所を持てるなんて、少し贅沢なのかもしれないわね)


 窓を軽く開けると、ひんやりとした夜気が流れ込み、頬を撫でた。庭師オーラムが渡してくれた小枝を、窓辺の水差しに挿す。銀色の葉が月明かりに淡く揺れ、固い蕾はまだ眠っているようだった。


「……春になったら、咲くのよね。私も……負けないで、前を向かなくちゃ」


 彼女は窓を閉じ、ベッドに身を横たえた。天蓋の布から落ちる影がやわらかく揺れ、まるで母の手のひらのように彼女を包む。胸の奥に残っていた冷たいしこりが、少しずつ解けていく。


(お父様……きっと、また笑って話せる日が来る。アデルや皆を連れて来られたなら……)


 瞼が重くなり、意識がゆっくりと沈む。

 エクリシアの街は今日も静かに、赤い灯りとともに息づいていた。

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