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混沌のアリス  作者: 里羽
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【第四十六話:転移者】

都内のマンションの一室。十畳ほどのリビングに、小さなダイニングテーブルと、勉強机。観葉植物の鉢と、壁にかかった家族写真。夕日に染まった街の光がカーテンの隙間から差し込み、机の上のシャープペンを細く照らしていた。


「行ってきます。お母さん、お父さん」


 鏡優奈かがみゆうな、高校二年生の十七歳。返事は、もちろん返ってこない。写真の中で微笑む二人に向かって、彼女はいつものように声をかけ、靴紐をきゅっと結んだ。


 父と母を亡くして一年。優奈は一人で暮らしていた。生活は国の補助金でなんとか回っている。炊飯器、電子レンジ、ノートPC、スマートフォン。科学が発達したこの世界では、便利なものに囲まれていても、空いた椅子の数だけ部屋が少し広く感じる。


 マンションを出ると、風が頬を撫でた。大通りには自動運転の車が滑り、空には配送ドローンが点のように瞬いている。学校へ向かう足取りは軽い。交差点の角を曲がると、同じ制服の生徒たちが何人も歩いていた。


「優奈、おはようー!」


「おはよう。……ねぇ今日ってテストの日だっけ? 勉強してないんだけどー」


「えー、絶対ウソ。優奈、毎回点いいじゃん」


「そんなことないってば。昨日は動画見てたし」


 他愛ない会話。笑い声に混じって、信号の電子音が規則正しく鳴る。世界は平和だ。授業が終われば、体育館の端で剣道の稽古。素振り、足運び、面打ち。汗で額の前髪が貼り付き、竹刀の柄に手の皮が少し痛む。この世界には銃も機械もあるのに、竹刀を振ると、少し心が落ち着く気がする。


 ただ――この世界には、一つだけ絶対のルールがある。


 夜になったら、外に出てはならない。


 ――「鬼」が出るからだ。


 人を“食べる”敵。日没後、街の外れや人気のない場所に現れ、遅れた者を狩る。政府は「日没後外出禁止令」を敷き、各所に退避ルームを設け、見回りドローンが巡回する。けれど、間に合わなければ……


 その日も、いつもと同じはずだった。六時間目が終わり、部活で汗を流し、友人と別れて校門を出る。いつも通り、駅までの道を歩いて、帰る……はずだった。


「あっ」


 ふと、足が止まった。通学バッグの中をがさがさ探る。


「ない……どうしよう。お母さんのブレスレット、学校に置いてきちゃった……」


 細い銀鎖のブレスレット。母の遺品だ。朝、机の引き出しから出して、カバンに入れた記憶がある。


「明日でも……いや、学校じゃなかったら困るし」


 空はまだ明るい。ビルの間を白い雲が流れていく。日没まで、あと一時間半はある。優奈はぐっと頷いた。


「よし、取りに戻ろう。大丈夫、間に合う」


 回れ右をして、小走りに学校へ戻る。


 職員室で許可をもらい、教室のロッカーへ。教科書の間に挟まっていた銀色が、蛍光灯にちらりと光る。


「あった……よかった。なかったら、どうしようかと思った」


 指先でそっとなぞる。冷たい金属の感触が、少しだけ心を落ち着かせた。


 窓の向こうの空は、さっきより色が濃い。オレンジと藍色の境目が、校舎の屋上のラインに沿って広がっている。


「急がなきゃ」


 優奈は走り出した。校門を出て、駅へ向かう坂を駆け下りる。夕方の風は涼しく、頬をすべる。信号が青になり、人の波に合わせて横断歩道を渡る。



 駅に着く。電光掲示板に目をやる。目当ての方面が――ない。


「あれ?」


 まさか、とホームの駅員に駆け寄る。


「あの、すみません。上野まで帰りたいんですけど、電車って――」


「申し訳ありません。当駅から上野方面は、本日運休です。先の駅で漏電が発生しまして。本日中の復旧は難しい見込みです」


「えっ、そんな。家が上野で……どうしても帰りたいんです」


「重ねて申し訳ありません。安全のため、明日以降のご利用をお願いします」


 駅員は他の客の対応に追われて離れていく。改札の上には注意喚起の黄色いテロップ。「夜間の外出は避けてください」「近隣の退避ルームをご利用ください」。優奈は唇を噛んだ。


「どうしよう……歩きだと二時間以上……」


 スマホの地図を開く。赤い“日没アラート”が画面上部に点滅している。近くのバス停を検索し、最寄りの路線に駆ける。



 夕暮れのバスは混雑していた。部活帰りの学生、仕事帰りのスーツの人、買い物袋を下げた老人。車内アナウンスが流れる。


「本日はご乗車ありがとうございます。先ほどの漏電の影響により、上野方面への直通運行はございません。途中の停留所止まりとなります。ご了承ください」


「えっ……」


 車内がざわつく。優奈は吊り革を握り直した。せめて行けるところまで――。


 バスを降りたとき、空はもう群青に溶けていた。街灯が一本、また一本と灯っていく。ここから家まで徒歩で三十分。アラートが、再び震えた。


(退避ルーム……近くにあったはず。けど、あと少しで帰れる)


「大丈夫。急げばなんとかなる」


 自分に言い聞かせる。歩幅を広げて、早足から小走りへ。



 家まで、あと十数分。ビルの影が濃くなり、路地の奥は黒く沈む。街頭アナウンスがスピーカーから流れる。「日没です。屋内へ避難してください。屋外での滞在は危険です」


「……まずい。完全に夜」


 胸がぎゅっと縮む。けれど、角を曲がれば、馴染みのコンビニが見える。そこを抜ければ住宅街――。


 そのときだった。背後で、何かが擦れる音がした。湿ったものがアスファルトを這うような、低い音。空気の温度がすっと下がる。


「……え?」


 振り向く。目が暗闇に慣れるまでの数秒が、やけに長い。


 街灯の薄い光の輪の外。そこに、それは“いた”。


 人の背丈より少し高い。痩せているのに、骨格は人間のそれとは違う。節の多い関節、長い腕、獣のような足。皮膚は灰色で、ところどころ黒い斑。顔は、人の面影が崩れて固まったように歪んでいる。目の部分は空洞のように黒く、そこから冷たい息が漏れた。


 ――鬼。


 この世界の夜の脅威。人を食うもの。人の声を真似、足音を真似、匂いで追う。鬼が入れないのは住居には入れないということだが、外にいる人には容赦がない。


「嘘……まだ時間、そんなに経ってないのに」


 足が固まる。喉が乾いて声が出ない。心臓の音だけが耳の中で大きく響く。


(逃げなきゃ。逃げなきゃ!)


 身体がやっと動いた。踵を返し、暗い路地へ駆け込む。角を二つ折れ、フェンスを回り込み、荷捌き場を抜ける。息が焼ける。背後でコンクリートを叩くような足音が、一定のリズムでついてくる。


 前方に、シャッターが閉まった廃ビルが見えた。ガラスが割れ、入口の一部が空いている。優奈は迷う暇なく飛び込んだ。埃の匂いが鼻を刺す。月明かりが床の破片に反射して、ぼんやり光る。


(鬼狩りの人たちが来るまで、時間を稼ぐ……隠れて、息を殺して)


 物陰に身を滑り込ませる。耳を澄ます。外の足音が、止まった。


「……ココ」


 低く、湿った声がした。


(見つかった……!?)


「ココニ……イタカ」


 空気が震える。鬼には、人の気配を嗅ぎ取る力がある。唯一の救いは、鬼は“生活の匂い”が染みついた人の住居には入れない――ということだった。けれど、ここは廃ビル。もう、“住居”じゃない。


「……ぁ」


 喉が、音を結ばない。体が震える。出口へ、少しでも遠くへ。這うように床を滑って――。


 長い腕が、影から伸びた。


 つかまれた。


「いやっ……!」


 抵抗する暇もなく、壁に叩きつけられる。背中に鈍い痛み。頭の中で白い火花が散る。鬼の顔が近づく。空洞のような目が、こちらを覗き込む。


 次の瞬間、左腕に焼けるような痛みが走った。


「――っっ!!」


 視界が反転する。血の匂い。温かいものが滴り落ち、床に音を立てる。鬼が喉を鳴らして飲み込む音が、近い。


(痛い、痛い、痛い――!)


 世界が不鮮明になる。身体が軽くなっていく。右腕に重さ。次の瞬間、その重さが消えた。


 目の前で、なにかが“噛み切られる”影が揺れた。


(わたし、死ぬ……? お父さんとお母さんみたいに……もっと早く帰ればよかった……退避ルームに入れば良かった……)


 後悔が波のように押し寄せる。涙が勝手に零れた。身体がいうことをきかない。鬼の口が、大きく開く。


「……ウマイ……トコロハ……サイゴニ」


 笑っている。引き裂かれた口の端が吊り上がる。


 その時だった。突然、光が満ちた。眩しさではない。体温を奪う冷たい白。優奈の身体が、薄い膜で包まれたように感じた。


(なに、これ……)


 耳の奥で、無機質な声が鳴った。


――対象の転移、開始。


――対象の身体に損傷を確認。補填のため、周辺存在から代替素材を調達。


ナンダ…コレハ…!!


(だ、れ……?いまのは鬼の声…?)


――損傷部位の補修、完了。対象の座標を固定。転位先へ、転送。


 光が、弾ける。音も光も、遠ざかる。床も壁も、夜も、消えた。


 意識が、暗く沈んだ。



(……わたし、どうなったの)


 波の音がした。ユウナは、まぶたの裏に光を感じて目を細める。ざざぁ、と砂を撫でる水音。塩の匂い。体の下の感触は、硬くて、少し温かい。


 ゆっくり目を開けると、そこは砂浜だった。白に近い薄いベージュの砂が、遠くまで続いている。目の前には青い海。水平線の上には、大きな月が浮かんでいた。


「……ここ、どこ」


 起き上がろうとして、はっとした。両腕が――ある。手のひらも、指も、ちゃんとある。血も、傷もない。けれど、手首から肘にかけて、薄い模様が走っている。銀の糸みたいな細い線が、肌の下でうっすら光った気がした。


(夢? 違う。……生きてる)


 振り返ると、潮風に髪をなびかせた老人が立っていた。背は高くないが、背筋は伸びている。日焼けした肌と、海で鍛えられたような筋肉。手には木の杖。


「お主、大丈夫か?どこから来た?」


「あ、あの……わたし、自分でも何がなんだか……わからなくて」


 声が震える。老人はしげしげとユウナを見つめ、頷いた。


「ふむ……その服装……転移者てんいしゃか」


「て、転移者?」


「別の『世界』から来た者のことじゃ」


 さらりと言われた言葉が、すぐには飲み込めない。夜の路地、鬼、光、血――。


「家に帰ろうとして……途中で、鬼に襲われて。それで……」


「鬼、とな。ふむ、だいぶ混乱しておるの。よければワシの家へ来なさい。水もあるし、何か食わせてやれる。話も、できる」


 見知らぬ場所、見知らぬ空、見知らぬ月。頼れる人は目前の老人だけだ。ユウナは、小さく頭を下げた。


「……お願いします。少しだけ、お世話になります」


「うむ。ついて参れ」


 砂浜の端に小道があり、草の間を縫うように伸びていた。木々は見たことのない葉の形をしていて、どこか甘い香りがする。鳥の声も、海辺のものとは少し違う。足元には白い貝殻がいくつも転がっていた。


 やがて、浜を見下ろす丘の上に、小さな家が見えた。白い漆喰の壁、青い屋根。丸い窓。軒先には干された網と、見慣れない魚の骨。庭には香草らしき植物が揺れている。


「ここがワシの家じゃ」


 扉を開けると、木の匂いがした。壁には海図のような布が貼られ、棚には巻物や貝殻、石が並んでいる。天井からは乾燥させたハーブの束が吊るされていた。


「座りなさい。水を持ってくる」


「あ、ありがとうございます」


 椅子に腰を下ろすと、全身がふっと力を抜いた。さっきまでの緊張が、どっと押し寄せる。老人が置いた木のコップを両手で包む。冷たくて、塩気のない水。喉を通るたび、身体の芯に沁みた。


「さて……話せる範囲で、話してみなさい」


 ユウナは途切れ途切れに、さっきまでのことを話した。学校、電車の運休、バス、夜、鬼。逃げたこと、捕まったこと、光、声、そして――目が覚めたらここだったこと。


 老人は、途中で口を挟まずに最後まで聞いた。頷き、眉を寄せ、ときどき「ふむ」と相槌を打つ。


「なるほどの。だいたい見えてきた」


 杖の柄で床をとん、と軽く叩く。


「ここは“ジャロク”。《アルヴ=レグナ》の海に浮かぶ島国じゃ。お主がいた世界とは、別の世界じゃ。転移者てんいしゃが来ることは、年に一度あるかないか。珍しいが、まったくない話ではない」


「じゃあ……帰れる、んですか?」


 思わず身を乗り出す。老人は、やわらかく目を細めた。


「それは……ワシにはわからん。戻れた者がいたという話は聞いたことはない。」


 胸がきゅっと痛む。遠くの波音が、急に遠くなった気がした。


「それと、気になっておることがもう一つ」


 老人の視線が、ユウナの両腕へ落ちた。ユウナも、そっと目をやる。さっき砂浜で気づいた、薄い銀の模様。


「……さっきまで私、両腕が無くなってたはずなんです。でも気が付いたらこの状態で。」


「ふむ。転移の際に、お主になにかあったのは確かなようじゃな。それがなにを意味するのかは分からんがお主には大事なことであろう」


 窓から差す月の光が、ユウナの腕に落ちる。たしかに、細い線が、魚の骨みたいにうすく光った。


「怖がることはない。おかしなことがあれば、そのとき考えればよい。いまは……生きている。それで十分じゃろう」


 ユウナは、ゆっくりと息を吐いた。肩の力が少し抜ける。


「腹は減っておるか?簡単なものしか出せぬが、食べなさい」


 出されたのは、白身魚のスープと、白い米。スープは香草の香りがして、優しい塩気だった。米はすこしパサついているが甘みを感じた。


「おいしい……」


「よい顔つきになった。名を聞いていなかったな」


「……鏡優奈です。ユウナって呼ばれてます」


「ユウナか。ワシはハサンと言う。ここいらの連中は、ただの“じい”と呼ぶがな」


「ハサンさん。ありがとうございます」


 食事が終わる頃には、瞼が重くなっていた。体が“休め”と言っている。


「奥に寝台がある。今日はそこを使いなさい。話の続きは、明日でよい」


「……はい」


 立ち上がると、少しふらついた。ハサンがすぐに肩を支える。手のひらは温かく、魚の匂いが少しした。寝台に横になると、藁と布の匂いが鼻をくすぐる。天井は木の梁がむき出しで、そこに干したハーブが影を落としていた。


(お父さん。お母さん。わたし、どこか知らないところに、来ちゃった。でも――生きてる)


 まぶたが落ちる。波の音が遠くなり、眠りが静かに降りてきた。



 翌朝。窓を開けると、潮の香りが一気に入ってくる。空は高く、月は薄くなり、太陽が白く輝いていた。浜では子どもが貝殻を拾い、遠くでは小舟が沖へ向かっている。


「よく眠れたか」


「はい。……少し怖い夢も見たけど、大丈夫です」


「それならよい」


 朝食を取りながら、ハサンが地図のような布を広げる。島々の位置、潮の流れ、風の向きが記されている。並んだ文字は読めないはずなのに、不思議と意味がわかった。こちらの言葉も、自然と理解できている。転移者?だからだろうか。


「この地域の名は“ミルナ”。ジャロクの南東端じゃ。ユウナのような転移者を見たことがある者は少ない。変な目で見られたら、ワシの名を出すといい」


「ありがとうございます」


「それとな。ユウナ」


 ハサンが少し真面目な顔になる。


「服を用意しておいた、後ほど着替えるといい。その服では転移者とわかってしまう。転移者はなにかと利用されたりすることが多いからの……それから戦う手段が必要じゃな。」


「戦い、ですか?」


 頭の中に、恐怖が蘇る、鬼に喰われたあの瞬間の光景が。


「すまんの、じゃがこの世界じゃ魔物と呼ばれるものどもが跋扈しておる。身を守る為に戦いの術は必要じゃな……ユウナ、お主はなにか得意なことはないのかの?」


「えーと、ほんの少し、ですけど、剣道をやってます。」


「剣道とな、ふむ。ワシは剣の道場を開いておる。弟子は少ないがそれなりの剣術を教えられるはずじゃが。どうじゃ?ワシの道場で学んでみる気はあるか?」


 ユウナは、自分の両手を見た。薄い銀の線。握る、開く。力は、ある。重心を落とし、すっと立ってみる。剣道の“構え”の癖が、体の芯に残っている。


「……行ってみたいです」


「では、午後に顔を出してみるとするかの」


 ハサンは笑い、食器を片付けはじめた。ユウナも手伝う。器の形が少し歪で、指に馴染む。水桶から柄杓で水を汲み、布で拭う。こういう作業は、気持ちを落ち着ける。


 家を出る前、ユウナはブレスレットを手に取った。昨夜、ロッカーから拾い上げた母の形見。見た目は、元のまま。金具のところに、ごく小さな傷があり、元の世界のまま。


「では、行くかの?」


 ハサンが振り返り、出発を促す。


「はい、よろしくお願いします!」


 二人は丘を下り、砂浜を横切り、島の中心へ続く細い道を歩いた。道の脇には市場があり、見たことのない果物や魚が並ぶ。色とりどりの布をまとった人々が、言葉を交わし、笑い、働いている。耳に入る響きは、やはり不思議と理解できた。


 世界は変わった。けれど、空気は甘く、風は優しく、陽は温かい。


 ユウナ――。

 彼女がこの世界に来たのは、アデルがルクシアに入学した年の春。

 物語は、別々に走り出した。それが後にどのように関わりを持つかは誰も知らない。


 ただ、彼女は歩き出した。

 夜を越えて辿り着いた砂浜から、まっすぐに。

 両の手で、もう一度、明日を掴みに。

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