【第四十二話:黄昏の囁き】
――闇。
けれど夜の闇ではない。音も重さも方向もなく、ただ平らで、ひんやりとしている。そこに、輪郭だけの自分が浮かんでいた。息を吸っている感覚はあるのに、胸は上下しない。手を握れば手の形はわかるのに、温度がない。
「ここは……俺の“内側”の世界か……? 俺はどうなった? みんなは……リリスは……?」
焦りが胸の中心に集まり、氷砂糖みたいに固くなる。落ち着こうとしても、足場がないから踏ん張れない。そんなとき、背後から落ち着いた声がした。
「あなたはいま、眠っているわ」
はっとして振り向く。そこに立っていたのは、前にも会った“少女”だった。髪も瞳も、色が薄い。灰色の濃淡だけで形作られているのに、不思議と寒々しくはない。砂時計の砂が落ちるのを止めたような静けさが、彼女の周りに漂っている。
「君は……何者なんだ? どうして俺の内面にいる?」
言いながら、一歩近づく。足音は鳴らない。彼女は逃げもせず、ただこちらを見ている。目はやさしいが、底は見えない水面のようだった。
「……私は“あなた自身”。あなたの力、あなたの魔法、そしてあなたの心」
「俺自身……? どういう意味だ」
自分の胸に手を当てる。心臓が打つ音は聞こえない。けれど、代わりに規則正しい“脈動”が、指先へ伝わってきた。
「私は――あなた自身の《魔導核》よ」
息が詰まる。視線の先、空中に二つの光の球が浮かんでいた。片方は澄んだ白、もう片方は深い黒。どちらも濁りはない。互いに触れぬ距離で、ゆっくりと回り続けている。近づけば冷たいわけでも、熱いわけでもない。ただ、体の芯がそれに合わせて静かに震えた。
「……魔導核? でも俺の魔導核は、あそこにある“光”と“闇”だろ?」
「そう。でも、あれは“もともとひとつ”だった。あなたの魔導核は、本来ひとつだけ」
「じゃあ、どうして分かれた」
少女は少し考えるようにまぶたを伏せた。言葉を選んでいる間だけ、周りの闇がわずかに濃くなる。
「……それは、あなたの“両親”に聞いて。私も全部は知らない。
ただ、これだけは言える。――私は、あなたにとって“危険な力”」
“危険”という言葉に、内側の空気がかすかに震えた。あの戦いの最中、骨の髄まで熱で満たされた感覚が、皮膚の裏をざわつかせる。押し寄せる波の圧力だけが戻ってきて、潮騒の音はない。
(危険な力……。やっぱり、父さんと母さんは何か知っているのか?)
「君の名前は?」
問うと、少女は首を小さく横に振った。どこか寂しさを含んだ仕草だ。
「名はないわ。“黄昏の存在”。光と闇の狭間の者。“混沌の意思”。好きに呼んで」
「……混沌の意思」
声に出すと、喉の奥に小さな引っかかりが残る。嫌悪ではない。未知のものに触れたときの反射に近い。
「そろそろ起きる時間。あなたの仲間が待っている」
彼女の視線が遠くへ向いた。見えないはずの“外”の明るさが、内側の闇をほんの少し薄める。
「待ってくれ! まだ聞きたいことが山ほど――」
手を伸ばす。指先が触れる前に、少女の輪郭が砂絵のように崩れはじめた。
「また会えるわ。……でも、できれば“そんな機会”は来ないほうがいい」
穏やかな声が、うっすら残響を残して消える。指は空を掴み、足元のない世界は静かにほどけていった。
◇
鼻先をくすぐる薬草と消毒薬の匂い。布と布がこすれる音、誰かの短い呻き。遠くで水を汲む音。
白い天井がある。等間隔に並ぶベッドの上に、白いシーツが整えられている。日の入り直後のような薄い光が、窓から斜めに差し込んでいた。
「ここは……学園の医務室、か」
身を起こそうとすると、背中の筋肉が軽く抗議する。深く息を吸い、ゆっくり吐く。視界の端で、医務官が忙しく動くのが見えた。包帯、薬瓶、光る魔道具の淡い輝き。
扉が軋む音。白銀の外套をまとった男が入ってきた。裾には煤がついているが、背筋は真っ直ぐ。空気の淀みを押し分けるような澄んだ気配をまとっている。勇者――レオンだ。
「目が覚めてよかった」
椅子を少し引く音。レオンはベッド脇に座り、こちらを確かめるように視線を落とす。目の奥に疲れはあるが、焦りはない。
「みんなは無事ですか? あのカペラってやつは? それに……俺、途中からの記憶が曖昧で」
自分でも声が掠れているのがわかる。喉は乾いているのに、冷たい水を飲む勇気が出ない種類の乾きだ。
「順を追って話そう。まず“星の徒”カペラの件は――もう心配いらない。君が、彼女を討伐した」
言葉は淡々としているのに、重みだけは逃げない。
「俺が……? どうやって……」
思い出そうとすると、頭の内側に灰色の靄が広がる。輪郭はあるが、触れるたびに崩れる砂城みたいに、すぐに形を失う。
「焦らないでいい。詳しくはあとだ。ひとまず、脅威は去った」
レオンは姿勢を正し、視線をまっすぐ合わせる。
「次に、君に“何が起きたか”。見たままを言う。――」
勇者レオンは駆けつけた時の光景を、真実をアデルに伝える。
「そんな……俺が……リリスに剣を……」
胸の皮膚の内側がきゅっと縮む。布団の端をつまむ指に力が入る。骨が細かく鳴る。
「幸い、傷つける前に止められた。だが、あのときの君は危険だった。正面からは止められなかったかもしれない」
短い沈黙が落ちる。言い訳は浮かばない。ただ、灰色のざわめきが、潮の満ち引きのように耳の奥を撫でた。
「どうして……俺が。……何か知ってるんですか」
視線を落とす。シーツの折り目がまっすぐに伸びている。そこだけが、世界の中で揺れない線だった。
「君の父上、ギルバート:セリオルに会うべきだ」
乾いた喉に水が落ちるように、その名が落ちる。
「父さんに……? やっぱり父さんが何か」
「あぁ。ただ、この話は長くなる。君の怪我が癒えたら、君の故郷――ルナーシュの村へ行こう。私から話すこともある」
その提案は、今描けない地図の中で、唯一確かな目印みたいに感じられた。
(父さんに会う。さっきの“彼女”もそう言っていた。……治ったら、必ず行こう)
「それから、この件は“他言無用”で。君の力を恐れたり、利用しようとする者は必ず現れる。……リリスにも、そう伝えてある」
重ねられた警告は、脅しではなく配慮の響きを持っている。深くうなずく。
「……わかりました。俺自身、説明できる状態でもない。誰にも話しません」
レオンは小さく頷き、次の話題へ移る前に、一拍だけ間を置いた。
「君のクラスメイトは概ね無事だ。マリアとタガロフは骨折が多かったが、回復している。リリスは片腕に損傷があったが、軽傷だ」
胸に入っていた空気が、少しだけ軽くなる。
「……よかった」
「先生方とライエルは治療が必要だ。まだ会えないが、命に別状はない。ライエルも峠は越えた」
名前をひとつ挙げるたびに、心の中で糸が一本切れて、また別の場所で結ばれる感覚がした。安堵と不安が交互に立ち上がる。
「……」
「最後に――リナさんだ。残念だが、助からなかった。……すまない」
言葉は短い。けれど、重さは短さと関係がない。
斜めに差し込む光の向こうで、あの瞬間が鮮やかに戻る。振り下ろされた刃、伸ばされた腕、にじむ赤、そして笑み。覚悟の笑みだった。
「爆発と火災で、住人にも犠牲が出た。街は大きな傷を負った」
布団を握っていた手の力を抜く。指の跡が白く残り、ゆっくりと色が戻る。
「……俺のせいです。もっと上手くやれていたら、リナだって――」
「違う。君はよくやった。力の問題は別としても、街と仲間を守るために戦った。それを誇りに思う」
慰めの言い方ではない。ただ事実として置かれた言葉は、反発の余地を与えないかわりに、責めも含んでいなかった。胸の底に、静かな熱だけが灯る。
「……ありがとうございます」
短く頭を下げると、カーテンの隙間から湿った風が入り、額の汗を冷やした。
「みんなは治療棟に分散している。リリスは比較的軽傷だから――今は、たぶん……」
レオンは言葉を濁し、窓の外へ視線を向ける。その先にある場所を、目線で教えた。
◇
ルナーシュの鎮魂区画。雨が上がったばかりで、土は柔らかく、歩くたびに靴底が少し沈む。濡れた草の匂いが濃い。
古い石の墓標には苔がつき、新しい木の墓標は色が明るい。刻まれた名前の溝に、水が細くたまっている。
その一角に、彼女はいた。背筋を伸ばして地面に座り、両手は膝の上。肩で呼吸を整えている。髪の先が雨で重く、頬に貼りついていた。
「……リリス」
呼ぶと、彼女の肩がわずかに揺れた。視線は墓標から動かない。足音を殺して近づく。二歩ほど進んだところで、ささやくような声が落ちる。
「シー……。勇者様に言われなかった? “他言無用”って」
足を止める。彼女は振り向かず、それでもこちらの存在を受け入れている気配がある。
「ああ……言われた」
「なら、その話はなし。あたしのことは心配しないで。あなたが助けてくれたの、ちゃんとわかってる」
声はまっすぐで、強がりの響きが少しだけ混ざる。無理をしているのはわかるが、嘘ではない。
「……ありがとう」
隣に腰を下ろす。濡れた土の冷たさが衣を通して伝わる。墓標の木肌は新しく、指で触れればささくれができそうだ。あえて触れない。
風が草を撫で、どこかで鳥が短く鳴く。しばらく、言葉は置かれない。沈黙は重くならず、土の匂いと同じくらい静かに広がる。
「ねぇ……リナ、あたし達といて――楽しかったのかな。操られていたとはいえ、一緒に過ごした時間は、あの子にとって……」
語尾が小さくなる。問いかけというより、自分の胸の中で答えを探している声だ。
「楽しかったさ。どんな状況でも、君にはついてきたと思う。君を尊敬してた。その気持ちは本物だ」
言いながら、自分の声が少し震えていることに気づく。彼女は目線を落とし、人差し指で土をそっとなぞった。湿った筋が短く残り、すぐに滲んで消えた。
「リナがね、最後に言ったの。『先輩が無事でよかった』って。
『私の分も、たくさん人を助けて、冒険して、楽しんでください』って」
そこまで言うと、彼女のまつ毛の端に小さな水が溜まった。光が揺れ、落ちるかどうか、しばらく迷っている。
「……託されちゃった。リナの分まで生きて、って。だから、いつまでも俯いていられない。わかってるのに――」
膝の上に置いた拳が、小さく握られる。関節が白くなる。息を飲む音が近い。
「でもね……いまだけは、弱音、吐いてもいい?」
見上げた瞳は、泣く前の子供のように脆く、けれど芯は折れていなかった。
「ああ。今日くらいは、きっとリナも笑って許してくれる」
返すと、緊張の糸が音を立てて切れたのがわかった。
「……っ、う……うわぁぁぁぁぁぁ!!
リナぁぁぁ!! ごめんね……ごめん……!」
肩が大きく震え、背中が波のように上下する。涙が頬を伝い、土に丸い跡をつくる。跡は重なり、やがて小さな濃い染みになった。
言葉はもういらない。そっと肩に手を回し、体重を預けられるように支える。抱きしめるわけではない。ただ、倒れないように側にいる。彼女の体温が腕に移り、震えが少し落ち着いては、また強くなる。そのたびに、腕に力を込める。
雲の切れ間から薄い光が落ちる。新しい墓標の文字は雨に濡れて濃く、読みやすい。風が少し冷たくなり、鳥の声は遠のいた。
どれくらい時間が経ったのか、数えるのをやめていた。泣き声はやがて細くなり、呼吸だけが残る。彼女は袖で目元を拭い、鼻をすする音をひとつ立て、深く息を吐いた。吐く息は白くない。雨上がりの温度だ。
静けさの中に、小さな決意が残るのがわかった。声に出せば壊れそうで、けれど消えはしないものだ。
黄昏にささやく声は、もう聞こえない。内側の世界は遠ざかった。だが、灰色の世界は、まだ胸の底にある。
墓標に一礼し、空を見上げる。雲がゆっくりと流れ、遠くに薄い青がのぞいた。小さくても、確かな青だ。前へ進むためには、それで十分だった。




