【第四十一話:灰色の剣】
――崩れ落ちていく世界の底で、声がした。
(力がほしい……?)
それは、どこかで聞いた懐かしさを帯びた声だった。
誰のものでもないのに、アデル:セリオルの胸の中央――心臓と魔核の間に、すとんと落ちてくる。
(それが、すべてを壊すかもしれない“破壊の力”でも)
暗い心に投げ込まれた言葉は、幾重にも反響して輪郭を変えた。
息をすることすら忘れた意識の底で、アデルは自分の名を探す。返ってくるのは熱と血と、焦げた空気の味。
目を開ける。
世界は、灰色になっていた。
色を失ったのではない。白と黒の間を埋め尽くす、無数の階調だけが残ったような灰。
耳に届くのは、風に混じった微かな鈴鳴り――どこかで誰かが泣いている音。
「うわああああああ!!!!」
喉が裂けるまで叫ぶ。声は灰を震わせ、熱を裂いた。
「アデル!! どうしたの!?」
リリス――腕の中でリナの小さな身体を抱き締め、震える声で呼びかけている。頬には涙の跡、袖には血。
その隣で、タガロフ:ライクは壁にもたれ、完全に意識を失っていた。
前方では、ユリが膝をつき、カイザルは壁際で咳を堪えていた。少し離れた場所にマリアが横たわり、胸が浅く上下している。
ライエル・ジン・クルセイドの胸元もわずかに上下して――生きている。焦げた匂いに混じって、弱くも怯まぬ息があった。
「なんなの……五月蠅いわねえ……」
カペラの声音が、赤い残光を連れて振り返る。
彼女の視線が、アデルを捕らえた瞬間、わずかに揺れた。
(なに……? こいつ、さっきの一撃で動けないはず――)
アデルは、答えない。
立ち上がっただけのはずの身体の周りに、白でも黒でもない魔力が渦を巻いた。灰色の霧が熱を食い、風を鈍らせる。
「まあいいわ! そんなに死にたいなら、次はあんたを殺してあげる」
カペラが一歩、間合いを詰める。火の粉が舞う。女王の排気輪が唸り、石畳が熱で鳴る。
「さ、もういいでしょ。終わ――」
言い終わる前。
アデルの剣が「動いた“気がした”」。
見えなかった。
もし音に形があるなら、たしかに薄い線が走ったはずだ。だが、目には残らない。残ったのは、結果だけ。
「――ぎゃあああああ!!」
咆哮。カペラが叫び、赤の女王の左腕が、肩口から消えていた。
切断面は滑らかで、焼けもしない。回転しながら地を転がったそれは、遅れて炎に包まれ、灰になって崩れた。
「お前!! 何をした!!」
アデルは答えない。
ただ、剣を構え直す。その刃に、灰が吸い込まれる。白と黒が同時に存在するのではない。混ざり合った端から灰へと変わり、どこにも属さない色へと収束していく。
魔力が溢れた。
白と黒の境で生まれるはずのない“矛盾”が、渦となってアデルの足元を撫でる。
「許さない……! あたしの腕の代償は高くつくわよ。《獄炎の女王》!!」
カペラが指を鳴らし、触れたものを連鎖爆発へ巻き込む禁呪を走らせる。
空気が重油のように粘り、熱の糸が編まれて、世界の継ぎ目に差し込まれた――はずだった。
「アデル!! 逃げて!!」リリスの悲鳴。
直撃――する瞬間、アデルの剣が、静かに一度だけ振られた。
音は小さく、風の切れる匂いだけが残る。次の瞬間、編まれたはずの熱の糸切り裂かれ、魔法は霧散して消える。
「なっ!? どういうことなのよ!!」
カペラの目が見開かれる。
放った魔法は確かに直撃したように見えた、しかし結果は爆破すらできずに魔力が霧散することとなる。
右手の大剣が、うなりを上げる。
女王は間髪入れず踏み込み、切っ先を滑らせ、斬り上げ、叩きつけ――連撃は刃の雨。
だが、アデルは片手のまま、すべてを弾いた。足は一歩も、動かない。弾かれた剣圧が石畳を割り、背後へ風穴を空ける。
そして――次の手首の返しで、アデルの刃がわずかに弧を描く。
カペラの右腕ごと、大剣が吹き飛んだ。鉄と肉の境界が、きれいに消失する。
「があああ!!! 畜生が!! お前、力を隠していたね!!」
カペラの抗議は、答えを求めていなかった。
アデルはただ、低く呟いた。
「――《混沌覇剣》」
剣に宿る灰色の輝きは、光でも闇でもない。
振るわずともわかる、それは魔力の質が違った。攻撃も防御も魔法もすべてを破壊するような魔力の力の波が周囲一帯へと広がっていくようだった。
「なんなの……なんなのよ、その力は!!」
カペラの声に焦燥が混じる。炉心の輪が赤く脈打ち、空気が捩れた。
リリスはリナを抱き締めたまま、震える声で囁く。
「アデル……どうしたの。一体、何があったの……」
邪魔をしてはいけない――理性が告げる。だが、胸の奥の何かが、別の言葉を願っていた。
“戻ってきて”。その一言だけを、今は飲み込む。
「くそがあああ!!! だったら、これで全部……終わりにしてやるよぉ!!」
カペラが天を見上げる。
「すべてを壊す赤き凶星よ――墜ちよ。《星墜とし(スターフォール)》!」
上空に、巨大な赤い隕石が現れた。
灼けた雲を裂き、地平を赤で塗り、落ちればこの一帯――カペラ自身ですら無事では済まないほどの魔法。
アデルは、空を見上げ、灰の渦が、足元で風を巻いた。
跳ぶ。
世界が一段、遅れる。重力という存在を忘れるように、音が追いつかない。
一閃。
アデルが刃を振ると、隕石は圧倒的な力の前に打ち砕かれる。
打ち砕かれた破片が街へと降り注ぐ、しかし巨大な隕石そのほとんどはアデルの斬撃により消滅していた。
落下。
地上に向かってまっすぐ落ちる線上に、カペラがいる。
アデルは速度のままに軌道を重ね、灰色の剣先を、女王の胸甲へ――
「――ぎゃああああああ!!!」
刺突。
赤の女王の装甲は、意味を失った。先ほどまで攻撃を弾き自身を守っていた装甲はアデルの斬撃の前に、役目をなくして、崩れていく。
カペラの悲鳴は炎を揺らし、輪が明滅を繰り返す。
「あたしが……こんなところで……お前が――!」
激昂――だが遅い。
女王の身体は、肩から、胸から、脚から、静かに「崩れて」いく。
不気味な仮面も巨大な大剣も頑強な装甲もすべてが無に帰していくようだった。
「そんな……なんで、こんな……コンナヤロウ二……!」
カペラ――星の徒の名を持つ女は、赤の女王とともに崩落し、そして――消えた。
残ったのは、焦げた匂いと、微かな煤の味だけ。
静寂が、遅れて落ちてくる。
アデルは、刺突の姿勢のまま動かず、やがて、音のない吐息とともに剣を引き抜いた。
「アデル……」
リリスの声は、震えていた。
だが、その震えは恐怖だけではない。胸の奥を掻き混ぜる“違和感”――目の前にいるのに、遠い。呼びかければ届くのに、届かない。そんな、隔たり。
灰が、静かに渦を巻く。
アデルの視線が、ゆっくりとリリスへ向いた。
「アデル!! どうしたの!? お願い、戻ってきて!」
祈るような呼びかけに、応えはない。
一歩。
アデルが、こちらへ歩を進めた。
足音が石を叩き、熱がひとつ減ったように感じられる。
タガロフが壁際にいる、ユリは少し離れた場所で動けない。カイザルの意識はまだ戻っていない――皆、身体が言うことをきかない。
アデルの足取りは、ゆっくりだ。
だが、そのゆっくりが、なによりも怖い。世界を侵食する灰が、彼の靴音に合わせて広がっていく。
「アデル……お願い。いつものあんたに戻って。」
腕の中のリナの髪が、風で揺れた。瞼は閉じたまま、呼吸は――既にない。
女王の大剣により右肩から腰に掛けて完全に切り裂かれている。
アデルの指が、わずかに震えた。
剣先が半拍だけ泳ぎ――しかし、すぐに戻る。灰の渦が濃くなる。
「――」
言葉が、喉に落ちていく。
その瞬間――
ガンッ!!
鈍い音が、灰を砕いた。
アデルのこめかみへ、横から飛び込んできた柄頭が綺麗に決まり、灰の渦が一拍遅れで解ける。
身体がぐらりと揺れ、そのまま石畳へ崩れ落ちた。
視界の端に、光が立つ。
雨の前触れのような、清澄な光。
「すまない。遅くなってしまった。街に戻るまでに、時間がかかり過ぎた」
立っていたのは、勇者――レオン:アークフェルドだった。
白銀の外套は煤で汚れ、それでも縁は真っ直ぐ。背に負った聖剣は鞘に収められているのに、周囲の穢れを嫌うように微かな光を洩らしていた。
「勇者様……?」リリスの声が揺れる。
レオンは軽く頷き、倒れ込んだアデルの脈に触れる。
短く、的確に。瞳孔、呼吸、反射。
「心配ない。気絶させただけだ。しばらくすれば意識は戻る。……魔力の波が安定しているから平気なはず」
「アデル!! 大丈夫なんですか!?」
「大丈夫だ」レオンは柔らかく答え、すぐに顔を上げる。「それより、今はほかのみんなを治療しなければ」
レオンは懐から、回復薬や治療するための魔道具を取り出す。
まずユリとカイザルの傷を塞ぎ、マリアには薬を飲ませて呼吸を安定させた。
ライエルの胸へ手を当てると、ぴくりと肩が震えた。焦げた外套の下で、微弱だった呼吸がひとつ深くなる。
「……生きてる。よく、耐えたな」
レオンは低く言い、ライエルに魔道具を使用する。小さな光が弾け、器具は砕け散り、肉が少しずつ再生を始めた。「しばらく動くな。重症すぎる場合丸一日は安静なはずだ」
タガロフの腕に固定具を嵌め、骨の位置を整え、肩口の裂傷を閉じる。
「もうすぐ、ほかの先生や冒険者も来る。救護と消火が整うはずだ。君たちも、もう大丈夫だ」
安心させる声色。
だが、リリスの視線は、ずっと腕の中の少女に落ちていた。
「でも……でも……リナは……」
リリスは、小さく首を振った。
涙が静かにこぼれ、リナの頬に落ちる。冷たい空気に、温かい滴の音がひとつ、混ざる。
レオンは言葉を探しかけ――やめた。
ただ、悲しい目で見つめ、そっと片膝をついて、祈りの構えをとる。
祈りの言葉は声にならない。けれど、光だけが、ゆっくりと降りた。
遠くで、雷鳴が鳴る。
空の底がほどけ、ひとしずく、雨が落ちた。
最初の滴は石畳に丸い輪を描き、次の滴がそれを広げ、やがて糸は網になって、街全体をやさしく覆っていく。
雨は、血と煤を洗い、熱を宥める。
泣き声と怒号の残滓を、雨音がやわらげていく。消したわけではない。ただ、抱きかかえて、揺らぎの中に置いた。
星の徒の襲撃。
アデルの“力”。
勇者。
そして――後輩の死。
あまりにも多くのものを同時に背負わされた一夜は、誰の心にも、深い傷を刻むことになった。
レオンは静かに立ち上がり、空を見上げる。
雨粒の向こう、焦げ跡の線で縫い合わされた街が、すこしずつ“日常”の輪郭を取り戻しはじめている。
だが、心の中の焦げ跡は、そう簡単には消えない。
アデルは、静かに眠っている。
灰色の渦は消え、ただ、胸の奥でなにかが微かに瞬いていた。
それは光でも闇でもない。白と黒の間に生まれた、名もない色。
(力がほしい……?)
胸の内の底から、もう一度だけ、声がした。
返答は、まだない。
けれど、その問いが残した波紋は、確かにアデルの中に広がっていた。
雨脚がわずかに強くなる。
火は鎮まり、煙は薄れ、街は息を取り戻していく。
祈りと後悔と、約束と決意――それぞれが、それぞれの胸の中で形を持ち、ゆっくりと雨に濡れた。
長い夜は、まだ続いている。
けれど、夜の向こうに確かにあるはずの朝へ向けて、誰もが、目を閉じずに立ち続けていた。




