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混沌のアリス  作者: 里羽
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【第三十八話:燃える空、星の影】

 競技会の熱を背に、アデルたちは学園へ戻る街道を歩いていた。勝者の笑い声、悔し涙を拭う声、屋台の甘い匂い――つい先ほどの喧噪は、夕映えの光に薄まり、肌に心地よい疲労が沈んでいく。安堵の呼気は、次の試合への高揚と混ざり合い、三人の足取りを自然と軽くした。


 それは、唐突に破られた。


 ――ドン。


 腹の底から臓腑を震わせる低音。地面がひと息だけ浮いたように感じられ、靴底に砂を噛む微かな震動が残る。間髪を入れず、別方向から二度、三度。


 ――ド、ドン。ドン。


 風が変わり、焦げた木材と油、衣と皮膚が焼ける匂いが帯になって押し寄せる。空の色も浅く、赤く、落ち着きのない色へ転いだ。


「な、なんだ!? 何があったんだ!」アデルが顔を上げる。

「なにごとなのよ?」リリスは眉根を寄せ、風下を振り返った。

「爆発音だ! 学園からも街からも聞こえたぞ!」タガロフが振り返りざまに叫ぶ。


 見上げれば、ルクシア学園の方角にも、ルナーシュの街の方角にも、黒と灰の煙柱が立ちのぼっている。夕陽に照らされた煙はところどころ赤く脈動し、炎の舌を空に伸ばしてほどけた。


「くそ、なんだってんだ……!」アデルは歯を強く噛み合わせる。「ここから近いのは街だ。先にルナーシュへ行く! 学園には教師たちがいるはずだ!」

「そうね、行きましょう!」リリスが即答する。

「走るぞ!」タガロフが先頭に躍り出た。


 三人は駆けた。石畳の跳ね返す硬い足音、上がっていく呼気の温度、頬を叩く風の熱。角を曲がるごとに、空気の層はひとつずつ重くなる。街路灯のルーンがちらちらと不安定に明滅し、遠くの鐘の音が乱れ、鳴りやんではまた鳴った。


 ルナーシュに入った瞬間、熱気が皮膚に噛みつく。庇、路地の奥、広場の端――至るところで火の手が上がり、赤い尾を引く火の粉が風に乗って通りを渡った。鍋を打ち鳴らす音、水桶を運ぶ走足、子どもの泣き声、大人の叱咤。混乱は形を持たない怪物のごとく街を這い、音を飲み込みながら大きくなる。


「な、なんだこれ……? 何があったんだ!」アデルの喉は乾き、声が掠れる。

「おいおい、こりゃマズいぞ!」タガロフが歯噛みした。

「ええ……これは“起こされた”火よ。自然に散る火じゃない」リリスは炎そのものではなく、炎の筋を追う。屋根から屋根へ、路地筋をたどるように炎が移る――“誰か”の意志が介在する配置だ。


 周囲を警戒していたアデルの視界に、煤に汚れた外套の男影が入る。鋭い目つき、剣帯に添えた指。ライエル・ジン・クルセイドだった。


「ライエル!」アデルが駆け寄る。「どうした! 何があった!」

「アデル:セリオル……」ライエルの額にも灰と汗が滲む。「わからない。俺もさっき着いたばかりだが、もうこの有様だ。それより――今はリナを探す」

「リナ? リナに何が?」リリスが息を呑む。

「先ほど、あいつが……シオン:テュレイスを攻撃した」


 言葉は端的だったが、衝撃は十分だった。リリスの目が見開かれる。タガロフの拳が無意識に固く握られる。


「なっ……リナがそんなことを!?」

「バカ言わないで!」リリスが反射的に返す。「リナが、そんなことするわけないでしょ!」

「だが事実だ。本人がそう言っていた」ライエルの声音は低く、刃先のようにぶれない。「それに――『リナ本人だが、リナの意思ではない』と」

 アデルは短く息を継いだ。胸腔の中心に、冷たい違和感が沈む。


 そこへ、乱れた足音。マリアが袖の焦げ穴を押さえながら駆け込んだ。

「アデル! ここに……。街の方も、ひどいです……」

「学園は?」アデルが問う。

「教師の皆さんが消火に当たっていますが、火の出所は掴めていません。生徒は避難完了、今のところ大事には至っていません。ただ――ときどき、嫌な魔力を感じます……」

「そうか……」アデルは一瞬だけ瞼を閉じる。「リナの件と、この爆発……繋がっているのか」


 風が、ふっと静まった。音が一枚剝がれ落ち、炎の唸りと遠い叫びだけが残る。煙の帳を裂くように、少女が通りの端に現れた。


 リナだった。制服に焦げはなく、髪も乱れていない。だが、瞳の焦点は浅く、彼女の周囲の空気だけが乾いている。近づくほど、肌の上を目に見えない砂粒が擦れるような違和感が強まった。


「リナ!」リリスが呼びかける。「どうしたの? 何が――」

「待て」アデルが腕で制す。「……おかしい。気をつけろ」


 忠告とほぼ同時に、リナの唇が動いた。表情は笑っていない。だが、声だけが笑っているように響く。


「《火炎爆撃フレア・バースト》」


「下がれ!」タガロフが飛び出す。「《鋼甲陣ガード・ライン》!」


 土と鉄の光が地面からせり上がり、厚い盾壁が前に立ち上がる。直後、圧縮された熱が叩きつけられ、壁面が白く焼けた。耳鳴りが走り、肺が焦げるように痛む。壁の向こうで、空気そのものが悲鳴を上げている。


「ぐっ……こいつは重てぇ!」タガロフの両足が石畳にわずかにめり込む。「持つには持つが、長くはねえ!」

「リナ! やめて! どうしたのよ!」リリスの声は熱と煙に滲み、喉の奥で割れた。


 リナの瞳が、ふいにこちらへゆっくりと向いた。そこに、彼女の色はなかった。


「あはは。おバカな子たち。――何にも理解できてないんだから」


 背筋を冷たい指で撫でられたような感覚。眼前に立つのはリナの身体だが、発される音は別の誰かのものだ。


「誰だ」アデルは低く問う。「お前は誰だ」

「この子は、もうあたしの手駒。いくら話しかけても無駄」リナの口から、乾いて艶のある声が零れる。


「名を名乗れ」アデルの奥歯が鳴る。「お前は――誰だ」

「《星のアストラ・オーダー》の一人。カペラ、と呼んでちょうだい?」興味なさげに語尾だけを伸ばす。「平和ボケした学園と、この街を壊すなんて――ほんっと、簡単」


 薄い笑みとともに、周囲の空気がさらに乾いた。燃え移る速度が、さりげなく一段上がる。


「《星の徒》……!」アデルの胸に、嫌な記憶の影が差す。

「なんで……どうしてリナに!」リリスの声が震える。「どうしてなのよ!」

「はぁ。理由なんてないの。ただ都合がよかったから使っただけ。所詮は駒のひとつ」リナの顔で、別人がため息をついた。


「許せねえ……!」タガロフが壁越しに唸る。「ぶっ飛ばしてやる!」

「あら?」カペラの笑みが、リナの口角に薄く浮かぶ。「いいのかしら? この子の身体に、傷がつくけど?」


 単純な力で押し潰せば、守るべきものを壊す――それは敗北だ。アデルは判断を定める。救い出すこと、それが唯一の勝ち筋。


「来ないなら、こっちから行くわね」リナの腕がゆっくり持ち上がる。「炎よ、焼き尽くせ。《火炎爆撃フレア・バースト》」


 圧が、目に見えるほど濃くなった。熱の震えが形を持ち、こちらへ疾駆する――


「《絶対零度アイス・バーン》」


 別の詠唱が割り込む。透明な刃が空気層を切り出すみたいに、熱が音を立てて凍りついた。次の瞬間、リナの身体を包んだ炎の気配は、一面の霜へと反転する。指先、まぶた、唇――動作の継ぎ目に薄氷が差し込まれ、制御だけを奪う正確な凍結。


「遅くなったわね。――もう大丈夫」


 背後から、聞き慣れた二つの声。振り向けば、ユリとカイザル、そして複数の教師が駆けてくる。衣の裾には消火の水滴が散り、目は戦いの色に細い。


「先生!」アデルが安堵の息をつく。「学園は大丈夫なんですか!」

「学園は学園長が抑えている。安心しろ」カイザルが短く答える。「――もっとも、こちらの方が厄介そうだがな」

「話は後。まずは解呪」ユリが前に出る。「急いで」


 教師二名がリナの前へ進む。氷の殻と皮膚の境目――紙一枚の隙に魔力の針を通すような繊細な手つきで、詠唱が紡がれた。


「《魔法解呪マジック・ディスペル》」


 鈴のように乾いた音で魔法陣が鳴り、薄い霜が朝日の中で解けるみたいに消えていく。同時に、リナの身体から別人の匂いが剝がれ落ちた。拘束は残り、瞳だけが自由を取り戻す。


「わ、たし……」リナの目に、ようやく彼女自身の光が戻る。「ごめんなさい……わ、たし……」


 操られていた間も、意識は途切れなかったのだろう。頬を伝う涙は熱に蒸発する前にこぼれ、胸元に小さな濃い染みをつくる。


「大丈夫。もう平気よ」ユリが肩に手を置く。その掌には厳しさと優しさが同居している。「学園へ戻りましょう」

「……はい。すみません……」


 安堵が空気をわずかに緩めた――その刹那。


「――あらあら。もうお帰り?」


 湿った絹を裂くような声が、炎の向こうから落ちてきた。「まだ、あたしのパーティ、楽しんでほしいものね」


 燃え盛る通りの向こう。揺らめく熱の帳の中に、星図の破片を纏ったような女が立っていた。髪を弄ぶ風、衣の縁にちろちろと光る微細な星の刺繍。瞳は笑っていない。口元だけが退屈そうに吊り上がっている。


「お前が……リナを操っていたのか」アデルが一歩踏み出す。

「正解」女は肩をすくめた。「あたしはカペラ。さっきも言ったわよね? その娘、だいぶ役に立ってくれたわ。お礼に――直々に出てきてあげたの」


「全員、下がれ」カイザルが静かに言う。視線は一度もカペラから外れない。「ユリ先生、二人でやる。いいな」

「了解」ユリの瞳が氷色に細まる。「セリオル君、あなたたちはリナさんを守って」


「二人で、あたし相手に?」カペラが笑った。笑い声に体温はない。「あはは、笑わせる。――いいわ。遊んであげる。来なさい?」


 熱が軋み、空が赤黒く染まる。砂粒ほどの星光がカペラの周りに生まれては消え、石畳に焔の痣を刻む。通りの風向きが変わり、炎の尾が一斉に彼女の背後へ倒れる。魔力の流れが、そこを中心に収束している証だった。


 アデルは一瞬だけ仲間を見た。リリスの唇は固く結ばれ、タガロフの拳は白くなるほど握られている。ライエルは剣を半ば抜き、瞳を細く絞った。マリアは周囲の視線と避難路を素早く確かめ、小さく頷く。


 守る。奪い返す。――ここで。


 星の徒と名乗る女の笑みは、氷よりも冷たく、炎よりも容赦がなかった。


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