【第三十一話:吸血鬼と貴族、英雄の残響】
昼下がりの学園食堂は、活気に満ちていた。
窓際の席に座るリリスとマリアの前には、ふわりと湯気を立てるフルーツタルトと紅茶が並んでいる。学生たちの笑い声やカトラリーの音が柔らかく響く中、リリスは銀のフォークでタルトを一口運び、目を細めた。
「……やっぱり、学園のデザートって美味しいわね。ふふ、戻ってきたら絶対にもう一度食べるって、決めてたのよ」
どこか満足げに微笑みながらリリスがそう言うと、マリアは呆れたように首をかしげる。
「そんなこと考えてたんですか? 本当に……もっとこう、他にあるでしょうに。帰還の第一声が“デザート”って、ね」
だが、その言葉には優しさと安堵がにじんでいた。
リリスは照れくさそうに頬をかきながら、カップを口元へ運ぶ。
「だって……あたしにとっては“日常”そのものだったのよ。何もない、普通の時間が、あの場所にはなかったから……」
その言葉にマリアが少し目を細めた、その時――
カツ、カツ、と音を立てて近づく足音。空気がわずかに張り詰め、やがて一人の少女がリリスたちのテーブルに現れた。
「失礼。あなた、リリス・ブラッドさんですわよね?」
振り返ったリリスの視線の先に立っていたのは、銀糸のように美しい金髪を揺らす少女――レティシア=グランヴェール。気品あふれるその佇まいと高飛車な口調は、食堂の空気すら一変させた。
「ええ、そうよ。何の用かしら?」
リリスはその挑むような視線を静かに受け止める。
「用? 別に。ただ、噂が本当かワタクシ自身の目で確かめたかっただけですわ」
「噂って……どんな?」
「この学園に“ヴァンパイア”がいるという噂ですわ!」
レティシアの声が響いた瞬間、周囲のざわめきがふと止む。
「ええ、本当よ。あたしがそのヴァンパイア」
リリスは動じず、まっすぐレティシアの目を見て答えた。
「ふん、やっぱり本当でしたのね。まったく、学園も信じられませんわ。ヴァンパイアなんて入学させるなんて」
「学園は許可してくれたわ。それに、ヴァンパイアだからって差別するような考え方、もう古いんじゃないかしら?」
リリスはやや笑みを浮かべて受け流す。
だが、レティシアは一歩も引かず鼻を鳴らす。
「いいえ。ヴァンパイアと一緒に学園生活を送るなんて、貴族としてワタクシ自身が許せませんの。それに、実力も伴っていないなら時間の無駄ですわ」
リリスが何かを言おうと口を開いた、その時――マリアが一歩前に出た。
「……ちょっといいですか? 実力が伴っていないって、それはどうなんでしょうね。あなた、リリスの“強さ”を知らないで言ってますよね?」
「ええ。ヴァンパイアの故郷に逃げ帰るような者に、大した実力なんてあるとは思えませんわ。模擬戦でもすれば明らかですわよ」
「……そうですか。では、あなたとリリスで模擬戦をしてみたらどうですか?」
静かな声。だがマリアの口調には、明確な怒気がにじんでいた。
(マリア……すごく怒ってる……)
「いいですわよ。ワタクシも丁度、食後の運動がしたいと思っていたところですの。では、訓練場でお待ちしていますわ。お先に失礼!」
言い放ち、レティシアはつかつかと去って行った。
「ちょっとマリア! 勝手に模擬戦なんて決めちゃって!」
「すみません……でも、あの言い方はひどすぎました。だから……」
「はあ……まあ、いいわ。もう約束しちゃったものね。行きましょうか」
「リリス、絶対に負けないでくださいね!」
マリアが力強く声をかける。
そのとき、ぱたぱたと駆け寄る足音と共に、明るい声が弾けた。
「リリス先輩っ! 戻ってきたんですねっ!」
振り向くと、そこには栗色の髪を揺らす新入生、リナ=リゼルフィアが立っていた。満面の笑みで息を弾ませている。
「あ、リナ。ごめんね、しばらくいなくなってて」
「ごめんじゃないですよ! 本当に心配してたんですから! どこに行ったか誰も教えてくれなくて……学園中探し回ったんですからね!」
リリスは肩をすくめ、少し言いづらそうに目を伏せる。
「……実はね、あたし……ヴァンパイアなの。一度だけ、故郷に帰ってたのよ」
一瞬、沈黙が落ちる。
だが、リナはぱちくりと瞬きをしてから、ぱっと笑顔を咲かせた。
「えーー! そ、そうだったんですね! びっくりしましたけど……でも、先輩がどんな存在でも関係ないですよ! 私にとっては命の恩人なんですから!」
その言葉に、リリスの瞳がわずかに揺れ、そして優しい光を宿していく。
「……ありがとう。そう言ってくれると、嬉しいわ」
「ところで……さっきレティシアさんがいた気がしたんですけど、何かあったんですか?」
「あはは……実はさっき、話の流れで模擬戦をすることになっちゃってね」
「え!? レティシアさんと!? ぜひ見たいです! 一緒に行ってもいいですか?」
「もちろんいいですよ。リリスが勝つところ、しっかり見届けてくださいね。私はマリア・サーペントです。よろしくお願いします」
「あっ、初めまして! 私、リナ・リゼルフィアです! よろしくお願いします!」
(はあ……なんだか帰ってきたばかりなのに、また大変なことになっちゃったわね)
そう思いつつも、リリスは肩をすくめて笑い、二人と一緒に訓練場へと歩き出した。
◇
その頃――
精神世界にて、アデルはまだ薄白い空間に佇んでいた。
「はぁ、はぁ……いったい、なんだったんだ、今の光景……?」
額の汗を拭いながら、彼は目の前に浮かぶ二つの魔導核を見つめた。白と黒、それぞれが静かに、心臓のように脈動している。
さっきまで目にしていた光景――過去に勇者たちが魔王と戦った戦場。ギルバートとステラ、そして金緑の髪のエルフ・シルビア。アデルの誕生の裏で交わされていた、呪いを封じる儀式。
(あれが……俺の“原点”……?)
そして先ほど現れた少女
(あの子は一体なんだ……俺自身ってどういうことだ?)
思考が混濁しはじめる。意識がまた、淡く溶けていく――
◇
「……デル、……アデル君! 目を覚まして!」
遠く、どこか懐かしい響きが、霞のように揺れる意識の奥でアデルを呼んでいた。
重く沈んだまぶたの奥に、ぼんやりとした光が差し込んでくる。焦点の定まらない視界の中で、誰かの輪郭が、ゆっくりと形を成していった。
やがて、世界に色が戻る――。
「っ……!」
アデルは息を呑んで、目を見開いた。
視界に広がっていたのは、青く澄んだ空。そして、その前に屈みこんでいたのは、金色の髪を風に揺らす男――レオン=アークフェルド。
その顔には心配と安堵の入り混じった感情が浮かんでいた。
「アデル君、大丈夫かい?」
穏やかな声音でそう問いかけられ、アデルは瞬きを繰り返しながら状況を理解しようとする。背後には、先ほどまで存在していたはずの精神世界の光も闇も、あの少女の姿も――何ひとつ残ってはいなかった。
ここは、現実だ。
「……俺……いったい、どうして……?」
絞り出すように呟いたアデルに、レオンはゆっくりと答える。
「私が君に魔力を流し込んだとき、初めは安定していた。でもそのあとから……君の魔力が急激に活性化して、私の魔力を押し返し始めたんだ」
そう言いながら、レオンは手を見つめるように視線を落とした。
「私はすぐに接続を切ったけど、その直後、君は倒れて……意識を失ってしまった。もう二十分近く、眠っていたんだよ」
アデルは地面に手をつき、呼吸を整えながら上体を起こす。胸の奥に、まだ微かに脈打つ何かが残っているような感覚があった。
「……魔導核に……触れたあと、不思議な光景を見たんです。夢じゃない……もっと深い、“記憶”のような何か」
「どんな光景だった?」
レオンが静かに問うと、アデルは目を伏せ、ゆっくりと口を開いた。
「まず……広大な戦場でした。魔物の群れの中に、あなたと、父さんと母さんがいて……巨大な魔王と戦っていたんです。そして、魔王が……黒い球のようなものを放って――」
そこで言葉を切り、アデルは視線をレオンに戻す。
「……あれは、何だったんですか? あの黒い光球……まるで、呪いのような……」
レオンの表情がわずかに引き締まる。しばしの沈黙のあと、彼は低く、だがしっかりとした声で言った。
「……“呪い”だよ。魔王が最後に放った、命を超えた執念。私と君の両親に宿ったものだ」
「やっぱり、そうだったんですね……」
(あの光は……やはり、“悪意”そのものだった。父さんや母さん、レオンさんにも……)
アデルの胸に、不安と戸惑いが渦巻く。しかしそれを察したように、レオンは穏やかな笑みを浮かべた。
「でも、安心してくれ。私たちは、あの呪いを封印した。君の母親、父親、そしてエルフ族の仲間のシルビアの力を合わせて。いまは脅威ではない」
「……封印……。あのとき、見えた儀式のような光景……あれが……」
アデルはそのときの情景を脳裏に思い返す。白い魔法陣、祈るような声、そして涙を流す母の姿――。
すべてが、真実だったのだ。
「君の魔導核は、“過去”と強く結びついている。もしかしたら、君が受け継いだ魔力の深層には、私たちの記憶や想い、そして呪いの残響までもが刻まれているのかもしれない」
「……それって、つまり……」
「君の力が、これからどうなるかは、君次第だということだよ」
レオンはそう言って、すっと立ち上がり、晴れ渡った空を仰いだ。
「過去の記憶や映像は、必ずしも事実そのものとは限らない。だが、“何を感じたか”は確かだ。その感情を信じて進みなさい」
アデルは、その背を見上げながら、静かに立ち上がる。そして――意を決して、両の掌を開いた。
「……やってみます。いまの自分が、どこまでいけるか……」
レオンが微笑を浮かべ、軽く頷いた。
「光と闇、同時に。君の本質、その混ざり合いを解き放ってごらん」
アデルは一歩踏み出す。心臓の鼓動がゆっくりと深まり、白と黒の魔力が身体の奥底から湧き上がってくる。
それはまるで、ふたつの星が軌道を描きながら交わるような、絶妙なバランスと緊張感の中にあった。
「――《光刃闇纏》!」
詠唱と同時に、両手の間に眩い閃光と闇の靄が交差し、形を成す。
出現したのは、一本の剣。光の輪郭を纏いながら、中心には漆黒の闇が芯のように走っていた。
アデルはその剣を握り、静かに構える。
「……安定してる。これまでとはまるで違う……まるで、呼吸するみたいに……」
その姿を見たレオンは、満足げに頷いた。
「よくやったね。まだ始まったばかりだけど……君なら、きっと進めるさ」
「ありがとうございます、レオンさん。よかったら……これからも、学園にいるときは、俺の訓練を見てくれませんか?」
「もちろん。私も、君のこれからが楽しみだからね」
レオンは微笑んだまま、アデルの肩を軽く叩き、ひとつ息をついた。
「では、今日はここまでにしよう。あまり急ぎすぎても、身体が追いつかないからね」
「……はい」
二人は並んで、歩き出した。
――そして、その後ろ姿を見送る青空には、かすかな風が吹いていた。
確かに前へと進み始めた青年と、それを支えるかつての英雄の歩みが、静かに地に刻まれていく――。
帰り際にアデルはあの少女のことをレオンに伝えるの忘れたことを思い出したが
(大丈夫、また会えるはず、急ぐ必要はない。)
そう自分に言い聞かせた。
◇
日が傾き始めたルナーシュの街には、柔らかな金色の光が石畳の道を照らしていた。商人たちの声が徐々に遠ざかり、行き交う人々もまばらになっていく中、一人の男がゆっくりとその通りを歩いていた。
レオン=アークフェルド。
その表情は、かつて数多の修羅場をくぐり抜けた英雄のものとは思えぬほど静かで、そして沈んでいた。
足取りは重くはない。だが、彼の影だけがどこか寂しげに、伸びては揺れていた。
(……すまないな、アデル君)
彼の胸の奥に沈む言葉は、決して声にはならない。ただ、心のなかで幾度も反芻される。
あの少年の目。真っ直ぐで、けれど痛みを知っている目だった。自らの力に戸惑いながらも、進もうとする強い意志。自分たちがかつて背負ったものと、どこか重なるその姿に、レオンは言い知れぬ既視感を覚えていた。
(君にはまだ……すべてを話すわけにはいかない)
それは彼らとの“約束”だった。
守らねばならない真実。
告げれば壊れてしまう未来。
知れば傷つく、過去の記憶。
それでも――
(……それでも、君が選ぶ道が光であるように。私にできるのは、ほんの少し、その先を照らすことだけだ)
ゆるやかな坂道に差しかかり、レオンはふと足を止めた。見上げた空には、茜色が広がりはじめ、遠くに淡い星の瞬きが一つ、また一つと滲んでいた。
あの空の向こうに、まだ語られていない運命がある。彼の知らぬ過去と、これから背負うだろう未来――。
レオンは静かに目を閉じ、短く息を吐いた。
過去の英雄である自分にできることは少ない。それでも、あの少年が迷いの中にあるなら、手を差し伸べることはできるはずだ。嘘をついてでも、背中を押すことができるのなら。
アデル=セリオル。彼こそが、希望の灯であると信じているから。
「……強くなれよ、アデル君」
誰にも届かぬような微かな呟きを残し、レオンは再び歩き出した。
石畳の先、街の奥には、ひとときの安らぎを求める宿がある。
その背中に、沈む夕陽が静かに差し込んでいた。




