【第二十六話:紅月は囁き、影は忍ぶ】
ルクシア魔導学園の中枢棟――学園長室。
天井高く設けられた窓から、春の柔らかな陽光が分厚いカーテンを透かして差し込み、室内を薄く照らしていた。
重厚な書棚と、魔導回路を刻まれた机、壁際に鎮座する古代魔導器。そのどれもが、長きに渡る学園の歴史と格を物語っている。
その静謐な空間に、三人の教師と一人の学園長が集っていた。
琥珀色の瞳を持つ教師ユリは、机の前に立ち、手元の書類を握りしめたまま言葉を探している。
その隣には、黒髪をきっちりと束ねたイレーネ――魔導理論科を担当する女性教師。
壁際に腕を組んで立つのは、筋骨逞しい体躯を持つ戦闘科のカイザルだ。彼の厳しい目線は、無言の圧を室内に漂わせている。
そして、正面の椅子に腰かけているのは学園長―― エルヴィア=ルーンフェリス。
白銀の長髪を結い上げ、深い青のローブを纏ったその姿には、年齢を重ねた威厳と、女性ならではの包容力が同居していた。
「……やはり、私が現場に同行した方が良かったでしょうか」
沈黙を破ったのはユリだった。琥珀の瞳を伏せ、かすかな迷いをにじませている。
「本来であれば、それが望ましかっただろう」
学園長エルヴィアの声は、低く落ち着きがありながらも柔らかい響きを持っていた。
窓の外――中庭で練習に励む生徒たちを見やり、その目が静かに細められる。
「だが、今は学園そのものが落ち着いてはいない。……私には、ここに“不穏な影”が忍び寄っているように感じるのだ」
カイザルが腕を組んだまま、眉をひそめる。
「影……か。学園長の勘は外れたことがない。だが、具体的にどんな兆候が?」
「……それは、“星の徒”に関することなのでしょうか?」
ユリがそっとエルヴィアに視線を向ける。その声には、わずかな緊張が混じっていた。
白銀の瞳が、順に三人の教師を見やる。
「断定はできぬ。しかし、学園を流れる魔力の循環が揺らいでいる。ごくわずかだが……外部から何かが混じっているような“異質な気配”を感じるのだ」
イレーネが小さくため息をつき、眼鏡のブリッジに指をかけた。
「魔導理論科でも確認しています。数日前から、校内の魔力に外部の魔力か、魔道具による干渉と見られる異質な波動が紛れ込んでいます。自然現象ではありません」
その言葉に、ユリの眉がわずかに動いた。
「……シリウスの件があったばかりです。あのときの混乱を考えると、今回も放置すれば危険が広がるやもしれません」
カイザルが机を軽く叩く。
「もし学園内に“協力者”がいるのなら、ただ事では済まん。だが、生徒を無闇に疑うのは避けたいところだな」
「だからこそ、調査は慎重にな」
エルヴィアは立ち上がり、ユリの肩に手を置いた。
「ユリ、君に任せたい。生徒に不安を与えず、だが確実に動いてくれ」
ユリは目を伏せ、深く息を吐く。
「……承知しました。ただ、何も起きなければいいのですが」
「それが一番の望みだ」
エルヴィアの言葉は静かに響き、室内の空気を少しだけ和らげた。
しかし、室内の時計が鳴り響く音は、なぜか長く尾を引くように感じられた。
◇
その夜、ルクシア魔導学園の広大な中庭は、月明かりに淡く照らされていた。
風が枝葉を揺らし、夜鳥の羽音が遠くでかすかに響く。
昼間の賑やかさは消え、静寂だけが石畳の道を支配している。
その細道を、一人の生徒が歩いていた。
肩まで伸びた髪が夜風に揺れ、制服の裾が小さく翻る。
だが、その瞳には月光すら映っていない。
虚ろで、焦点の合わない目。まるで、そこに魂が宿っていないかのような無機質な眼差しだった。
足音はほとんど響かない。
かといって、誰かに見つかることを恐れている様子もない。
堂々とするでもなく、隠れるでもなく――ただ、“決められた動作”を反復するように歩いている。
風が途切れるたび、周囲の静けさがいやに際立った。
夜の学園は本来なら、警備の魔導灯が等間隔に光を放ち、淡い緑の魔力が巡っているはずだった。
だが今夜、その光がどこか鈍い。まるで、生徒の足取りに合わせて空気そのものが冷たく淀んでいるかのように。
生徒は中庭を抜け、寮とは反対側の細い裏道に足を踏み入れる。
魔導灯の光が届かず、陰影が濃く落ちるその小径は、生徒たちの間でもほとんど使われない場所だ。
かつて資材を運ぶために造られたらしいが、今は物資庫の裏へと続くだけの行き止まりの通路となっている。
足を止めると、生徒は腰のポーチに手を伸ばした。
そこから取り出されたのは、黒布に丁寧に包まれた小さな物体――。
包みを解くと、夜気を震わせるような脈動が漏れ出した。
現れたのは、親指ほどの大きさの魔石。
赤黒い光が不規則に瞬き、まるで生き物の鼓動のように脈打っている。
光が周囲を染めるにつれ、物資庫の壁に刻まれた魔導回路が一瞬、微かに歪んだ。
風もないのに木の葉が揺れ、夜虫の声が遠ざかる。
空気そのものが、何かに飲み込まれていくかのようだった。
生徒の顔には、恐怖も驚きもない。
まるで精密な人形のように、その手は迷いなく動き続ける。
赤い光を放つ魔石を、壁の隙間へと押し込み、封印用の符を何枚も重ねて貼り付けた。
カチリ、と乾いた音が響き、魔石は完全に壁の奥に沈み込んだ。
符の上をなぞると、光が一瞬だけ揺らぎ、赤黒い光が封じられたかのように消える。
作業を終えると、生徒は無表情のまま立ち上がり、服の埃を払った。
数秒間、その場で立ち尽くすと――まるでスイッチを切り替えたかのように、瞳に光が戻る。
その瞬間、先ほどまでの冷たさは跡形もなく消えた。
顔には、普段と変わらぬ柔らかな笑みが浮かび、足取りも軽やかになる。
「ふぅ……あしたの課題、どうしようかな」
独り言のように呟くその声には、先ほどまでの無機質さがまるでなかった。
学園の寮へと戻る頃には、その生徒は完全に“いつもの自分”へと戻っていた。
仲間たちと笑いながら談笑し、冗談を交わすその姿には、裏庭で冷たい光を扱っていた気配など、欠片も残っていない。
――ほんの数分前まで、赤黒い光を放つ魔石を隠し、学園そのものを歪める作業をしていたことを。
その魔石が何を呼び、どんな未来を裂くのかを、誰一人として知る由もないまま。
◇
リリスは、重たい瞼を押し上げた。
視界に最初に映ったのは、漆黒の天蓋。
透かし彫りの装飾が影を落とし、天井の魔導灯が放つ淡い光を複雑に散らしている。
石造りの壁は夜の冷気を閉じ込めたように冷たく、吐息が白く滲む。
「……ここは……?」
声を出した瞬間、自分の喉が少し乾いていることに気づいた。
かすれた声が静寂に溶け、重苦しい空気がそのまま返ってくる。
天蓋の縁に指先を伸ばし、ゆっくりと視線を巡らせる。
紅を基調としたカーテン、黒檀の鏡台、窓際に並ぶ銀細工の燭台――。
すべて、記憶の奥底に刻まれていた。
幼少期に過ごした、そしてこんな形で戻るつもりはなかった場所。
「……そうか。あたし……帰ってきちゃったんだ。エクリシアに」
囁くように呟きながら、リリスはゆっくりとシーツから抜け出した。
裸足が石床に触れた瞬間、氷のような冷たさが脳天まで走る。
その冷気は、まるでこの都市が彼女を拒んでいるかのようだった。
カーテンを押し分け、大きな窓から外を覗く。
そこに広がるのは、夜の闇そのもののような空だった。
雲はなく、空には紅い月が浮かび、紫の霧が都市全体を覆っている。
視界の下方には、鋭い尖塔を備えた建築群が密集し、その合間を血のような光を湛えた川がゆったりと流れていた。
街灯代わりの赤黒い燭光がぼんやりと漂い、遠くの広場では低い鐘の音が響き渡る。
ヴァンパイアの都――エクリシア。
彼女の生まれた場所であり、避けてきた故郷でもあった。
「……アデル、マリア……みんな、今どうしてるのかな」
唇から零れた言葉は、夜気とともにかき消えた。
あの洞窟での戦い――アデルの負傷、クリムゾンドレイクの咆哮、そして、自分が解き放ってしまった“血葬”の力。
あの瞬間、二人がどんな表情を浮かべたかを思い出すと、胸が締め付けられた。
「……きっと、あたしのこと……」
言葉の続きを飲み込み、リリスは視線を伏せた。
気を紛らわせるように、部屋の扉に向かい、取っ手を掴む。
だが――冷たい魔力が指先を絡め取り、回そうとしても微動だにしなかった。
扉の表面に魔法陣が浮かび、赤い光が脈打つ。
「……ロック? どうして……」
額にしわを寄せたその瞬間、外から透き通る声が響いた。
「お嬢様。申し訳ありませんが、そちらから扉を開けることはできません。
王の御命により、当面は外出を禁じられております」
「な、何でよ!」
リリスの声が反射的に跳ね上がる。
だが、扉の向こうの声は淡々としていた。
「理由については、私の口からは申し上げられません。
何か御用があれば、この場を通じてお申し付けください」
「……っ」
返す言葉が見つからず、リリスは静かに扉から手を離した。
苛立ちが胸を焼くが、それ以上に、自分が外の世界から切り離された事実がのしかかる。
「少し時が経てば、外へ出られるようになるでしょう」
声の主は、慰めのつもりか、柔らかく言った。
「……わかったわ。ありがとう。とりあえず今は……一人にさせて」
そう告げ、リリスはベッドへと戻った。
カーテンを閉じ、部屋をほとんど闇に沈める。
魔導灯の淡い光だけが、彼女の赤黒い瞳の輪郭を微かに照らした。
闇の中で、彼女の心は過去と現在の狭間を漂う。
アデルが戦場で背中を預けてくれた瞬間。
マリアが無言で槍を構え、彼女を守ってくれた姿。
そして、自分が「その輪」にもう加わることができないという現実。
「……どうして、こうなっちゃったんだろう」
独り言は、冷たい空気に吸い込まれ、虚しく消える。
ベッドの上で膝を抱え、リリスはじっと夜を見つめた。
エクリシアの夜は、深く、重く、そしてどこまでも長い。
その闇の中で、彼女の決意も、涙も、まだ形を持たないまま揺れ続けていた。




