【第二十一話:廃墟に眠る影】
その日、俺はルクシアから北へ向かっていた。
春の風が軽く頬を撫でるが、心はどこか重いままだ。
目的地はただの廃墟。……だが、かつてそこには、俺の故郷があった。
長い間、足を運ぶことはなかった。
戻ったところで何が変わるわけでもない。過去は戻らないし、壊れたものは元には戻らない。
それでも、時々――
どうしようもなく、あの場所へ戻りたくなることがある。
廃墟へと続く山道は、ところどころ草に覆われていた。
整備された道ではない。だが俺の足は迷わずに進んでいく。
自然と、体が道を覚えている。
木立の隙間からかすかに見えた。
風にさらされた石壁。崩れかけた家々。
それでも、あの時の面影を確かに残している。
「……しばらくぶりだな」
ぽつりと、誰に聞かせるでもなく呟いた。
ここは、俺が生まれ育った村――
そして、すべてが終わった場所でもある。
◇
あの日の空気を、いまだに覚えている。
春の匂いと、焚き火の煙。
家の前で遊ぶ俺を、兄貴が少し困った顔で見下ろしていた。
「兄貴、なあ、今度の狩り、俺も連れてってよ」
まだ小さかった俺は、ずっとそう言って食い下がっていた。
兄の背中がとにかく格好良く見えたのを覚えてる。
「お前じゃまだ荷物にもならねえよ、アスラ」
そう言って笑う兄の目は、どこか優しかった。
「父さんも、そう言ってやってくれよ! 俺、最近魔力制御の訓練だってしてるんだぞ」
「そうだな……だが、まだ時期尚早だ」
父は口調こそ穏やかだったが、その判断は揺るがなかった。
「お前はまだ、家で母さんの手伝いでもしてろ。外の世界は、ただ強けりゃいいってもんじゃないんだ」
「……ちぇー」
不満げに唇を尖らせた俺を、母はくすくす笑って抱き寄せた。
「ほら、アスラ。男の子がすぐに一人前になれたら、お母さん寂しくなっちゃうわ。今はお留守番係が一番大事なお仕事なのよ」
母の腕は柔らかくて、あたたかかった。
あの夜の食卓では、狩りから戻った父と兄が獲ってきた肉を囲んで、家族全員で笑い合っていた。
何もかもが、永遠に続くように思っていた。
その夜、星がきれいだったのを覚えている。
明日もきっと、また同じような日が来る。そう思っていた。
けれど、それは突然終わった。
翌日、父と母が近所の家へ挨拶に行っていた、ほんの一瞬の時間だった。
「アスラ、ちょっと戸口から離れてろ」
兄がそんな風に言ったとき、玄関の向こうに誰かが立っていた。
見慣れない旅装の男。いや、男だったのかすら、今では定かじゃない。
「お客さん……?」
兄の背中が、妙に緊張していた。俺は違和感を覚えて問いかけた。
「兄貴? 誰か知り合いなの?」
兄は何も答えず、じっと相手の様子を見ていた。
玄関の向こうで、何かが囁かれるような気配。風のようで、熱のようで。
――違う。これは、魔力だ。
その瞬間、兄が飛び出すように奥の部屋へ走った。
「まさか……魔剣を……!?」
俺は慌てて追いかけた。
家の奥――床下にある封印の納戸。そこには、決して手を触れてはならないとされていた魔剣があった。
《禍影剣ネザル=ノクト》。
黒鉄のごとき刃、呪詛を宿す古代の剣。持つ者の心を蝕むと伝えられた、家に代々伝わる禁忌の武具。
「やめろ兄貴! 父さんに怒られるぞ!」
叫びながら駆け寄る俺を、兄は振り返らずに手を伸ばした。
その刹那、空間が軋み、視界が反転した。
「うっ――!」
衝撃とともに、俺の身体は吹き飛ばされた。
意識が遠のいていく中、兄が魔剣を手に取り、背中に禍々しい魔力を宿していくのを、俺は確かに見た。
――黒い炎。闇よりもなお深い憎悪。
それが兄を包み、何かを変えてしまった。
どれくらい気を失っていたのか分からない。
目覚めた時、すでに空は赤く染まり、村全体が――燃えていた。
「うそ……だろ……」
視界が揺れる。鼻を突く血と煙の臭い。
駆け出した足が、灰に滑りながら家々の間を走る。
倒れている――人が。大人も、子供も。皆、斬られたような傷を負って。
「……父さん!? 母さん!!」
叫び声が枯れるほど、俺は二人を探した。
そして、焼け落ちた井戸の前で、ようやく見つけた。
父は、剣を構えたまま息絶えていた。母は、その手にすがるようにして倒れていた。
動かない。もう、何も返ってこなかった。
「う、ああああああああああああっ!!」
声にならない叫びが喉を裂いた。
と――
炎の向こうに、黒い影が見えた。
「あれは……兄貴……?」
剣を背負い、笑っていた。
異常なほど静かに、そして狂気を孕んだ眼差しで。
「なんで……兄貴、なんでだよ……!」
追いかけようとしたその瞬間、影は踵を返して夜の森へと消えていった。
俺はただ、膝から崩れ落ち、焼け跡の中で泣き続けた。
◇
――現在
「……ったく、どこまでも胸糞悪い記憶だな」
アスラ:マダリオンは、廃墟と化した村の中央に佇みながら、深くフードを被った頭を少しだけ上げた。
足元には、今も焼け跡の黒ずみが残る石畳。崩れ落ちた家屋の影が風に揺れていた。
「いつか、向き合わなきゃならないって思ってたが……」
握った拳が震える。だがそれは恐怖ではなかった。
湧き上がるのは、圧倒的な怒りと悔しさ、そして――誓い。
「お前がどんな理由であんなことをしたのかなんざ、もうどうでもいい」
声は低く、だが確かな熱を孕んでいた。
「もしあの時、俺が止められてたら。もし、お前が魔剣を手にしなければ――」
胸の奥に渦巻く無数の“もし”を、アスラは歯を食いしばって押し殺す。
だが、もう迷わない。
「“禍影剣ネザル=ノクト”を手に、お前はあの日、俺の家族と故郷を奪った」
拳をゆっくりと開き、腰の剣に触れる。
炎のような夕陽が、鋼の刃に反射して紅く染めていた。
「だから――」
アスラの視線は、北の空の果てを射抜くようにまっすぐ向けられていた。
「お前だけは、この手で殺す」
その声に迷いはなかった。
炎に焼かれた過去が、今の彼を鍛え、ただひとつの意思へと収束していた。
「絶対に、逃がさん……!」
風が吹く。かつて家族の笑い声がこだましていたこの場所に、今は静寂だけが残っていた。
だが、アスラはその静寂に背を向け、再び歩き出した。
憎しみも、哀しみも、全てを刃に宿しながら――
◇ ◇ ◇
こうして、アスラはまた学園へと戻っていく。
だがその眼差しの奥には、かつてとは違う光が宿っていた。
復讐という名の炎。それはまだ小さく燻っているにすぎない。
だが、いつかその炎が世界を焼き尽くす時――
誰も、彼を止めることはできなくなるだろうか。




