【第十二話:灰の帳、静かに落ちて】
月が静かに空を照らしていた。
その光は凛とした冷たさを帯び、学園の高塔の石壁に伸びる影は、夜という名の沈黙を深々と刻んでいた。
風もなく、葉すら揺れぬ無音の闇。
それはまるで、世界そのものが“何か”の到来に息を潜めているかのようだった。
その中を、一人の人物が音もなく進んでいた。
深い黒のフードに身を包み、姿勢は影のように滑らか。
靴音すら立てずに石畳を進むその影は、まるで“実体”のない存在――闇そのもののようだった。
人物の足取りは迷いなく、向かう先は学園の裏手――
《旧研究棟》。
かつて、最先端の魔力理論と魔導装置の開発が行われていた施設。
以前、学園では新たな魔法理論や魔法の実験などが行われていた。
しかし、時代が進むにつれて過去の遺物と化した施設は様々事情があり学園で保管されていた。
今では封印措置が施され、生徒の立ち入りは禁止されている。
その外観は、すでに時の風化に呑まれつつあった。
ひび割れた外壁、崩れかけた屋根、苔に侵食された石段。かつてここで繰り広げられた魔導の熱気は、今や見る影もない。
鉄の扉には封印の魔力痕が刻まれていた。
だが、黒衣の人物が近づくと、光っていた魔力痕はゆっくりとその輝きを失い、音もなく――まるで“主の帰還”に応じるかのように――解除された。
「……やはり、この程度の封印。我らの前には無力だな」
低く囁かれた声は、男とも女とも判別できず、感情という色彩を欠いたものだった。
冷たい石と同じ響き。意志だけがそこにあった。
扉が軋む音とともに開き、旧研究棟の内部へと足を踏み入れる。
床には瓦礫と埃、崩れた書棚、割れた魔力制御装置の残骸。壁には消えかけた研究者の記録が残されていた。
かつて魔力理論と装置開発の最先端を担った空間は、今や忘れられた魔導の墓標と化していた。
そしてその中央。
半ば崩れた魔導陣の中心に、“それ”は浮かんでいた。
――赤黒い球体。
人の頭ほどの大きさで、物質とも精神体とも判別できない奇怪な存在。
表面は滑らかで金属でも石でもなく、生きているかのように脈動していた。内部には幾筋もの赤い光が蠢き、まるで心臓のように、一定のリズムで震えている。
魔力に敏感な者なら“本能的に恐怖するような波動を発していた。
その鼓動が、空気を歪ませていた。
《何か》が、封じられている。
黒衣の人物はその前に立ち、手をかざした。
指先から流れる魔力が、球体へと静かに染み込んでいく。
「……“灰の核”。深き闇より授かりしもの……」
その言葉に呼応するかのように、球体の脈動が一段と強くなる。
赤黒い光が、壁や天井へと血管のように這い始め、部屋全体を包み込んでいく。
「……獣は目覚め、人々の心は歪む。信頼は崩れ、混迷が広がる。これは序章にすぎない」
声には冷笑すらなかった。ただの“観測”のように、未来を予言するかのような調子。
黒衣の人物が手をかざすと、魔力が指先から溶けるように球体へ染み込む。
その脈動はより深く、強く、空間そのものを歪ませ始めた。
黒衣の人物はわずかに目を細めた。
「……この器が開く日。この学園の境界が崩れる」
そして、静かに踵を返した。
背後で赤黒い球体が鼓動を繰り返すたびに、血のような光は、結界の層をほんの僅かずつ――確かに、剥がし始めていた。
◇
漆黒の帳に包まれた夜の中、誰も立ち入らない高塔の最上階――
そこに一つの水晶球が浮かんでいた。
淡く脈動するその光に、黒衣の人物が手を翳す。
魔力が注がれると、水晶の内部に揺らめく影がひとつ、そしてふたつ――
光の粒が交錯し、やがて輪郭を持つ声が生まれた。
『……やはり、そちらも動き始めたか』
「当然だ。学園は既に揺らぎを見せている。兆候は出揃った」
深く、冷たい声。水晶の向こうに映るもう一人の黒衣の人物が、低く笑う。
『ふむ……こちらは順調だ。西の都市リュクシスにて、魔力の収集は上々だ。
次なる段階への移行を目前としている。魔力の流動量は予測を上回っている』
「そうか。――ならば、そちらも問題ない、ということだな。」
『ああ。それより、そちらの“楽園”はどうだ? 貴様の言うとおり、崩れるのか?』
「崩れるとも。これはもう、定められた結末だ」
水晶の中で、黒衣の人物が視線を落とす。
その眼差しの先には、薄く波打つ魔力の流れ――学園を包む結界の綻びが、確かに映っていた。
「教育と秩序の皮を被ったこの箱庭は、脆い。…外からではない。中から崩れる」
『フ……学園が壊れれば、内部に蓄積された魔力も……』
「そう。解放される。そして、我らが目的へとまた近づくだろう。」
沈黙が、水晶を通してしばし流れた。
『生徒から魔力の収集……学園の結界破壊からの流出、それだけでは足りぬのだろう?』
「ああ、ここだけではない。いずれはグランフェリウスも……その時にはまた貴様に仕事をしてもらうことになるだろう。」
『承知した、では私はこのままこちらで任務を続けるとしよう。』
水晶の光がわずかに強まり、二人の声が重なった。
『“刻限”は近い。備えよ』
光が収束し、音が消える。
水晶球はその場に虚しく残され、静かに淡い光を灯し続けていた。
◇
その夜。リリス・ブラッドは、眠りの途中でふと目を覚ました。
理由はわからなかった。けれど、胸の奥に微かなざわめきを感じていた。
「……なんだろう……」
(……空気の感じが、いつもと違う…血がざわつく……?)
周囲に異常はない。だが、どこか“引っかかる”感覚。
言葉にもならない、違和感のような気配。
明確な理由はわからない。けれど、それは確かに“本能”が告げる違和感だった。
夜の静寂が、肌に刺さるような痛みを伴って染み込んでくる。
「気のせいかしら……それともそう思いたいだけ……?」
リリスは自身の本能が告げる予感を頭で否定するが心の奥ではなにかが起こり始めていることを直感していた。
◇
同じころ――。
アデル・セリオルは、ある“夢”の中にいた。
灰色の空。
音のない世界。
浮遊するような感覚の中で、彼は“存在”だけの自分として立っていた。
その向こうに、少女がいた。
彼女は静かにこちらを見つめていた。
灰色の髪、顔はよく見えない、彼女は口は動かず、声も聞こえない。
「君は…誰だ…」
アデルはその声に問いかけるが答えはない。
問いかけたその声すらも、灰に溶けて消えていく。
次の瞬間、白と黒が渦を巻き、全てを包み込んだ――
「!?……いまのは?」
寝汗をかいているわけでもなく、息が乱れているわけでもない。
ただ、胸の奥に妙な緊張が残っていた。
「いつも見る夢……でもなんだかいつも違うような……わからない…」
不思議な感覚だった、まだ眠気があり頭がボーっとする。
何かに呼ばれた気がして、ベッドから身を起こす。
だが、窓の外は静かな夜。学園の建物も、森も、いつもと変わらず闇に沈んでいた。
アデルはしばらく天井を見つめ、それからゆっくりと目を閉じた。
◇
そして――朝が来た。
魔導学園ルクシアは、いつもと変わらぬ日常を装っていた。
生徒たちの談笑、鳴り響く鐘、教室へ向かう足音。
だが、その“空気”は僅かに重く、肌に纏わりつくような違和感があった。
気づかぬところで“それ”はすでに芽吹いていた。
赤黒い球体の鼓動は、今もなお――深く、静かに。
《灰の帳》は、確かに、ゆっくりと学園の空を覆い始めていた。




