6 帝国の力
ルナリア様の心強い言葉もあって、タチアナ殿下の悪意ある無反応にも怯むことなく堂々と対峙するようになった途端。
「そろそろ、つけ上がるのもいい加減にしたほうがよろしくてよ?」
久しぶりに話しかけられたと思ったら、これである……!
「どういう意味でしょう?」
できるだけ平静を装って聞き返すと、タチアナ殿下は小馬鹿にしたような不敵な笑みを見せる。
「帝国の力を甘く見ないでほしいの。確かにグラキエス公爵家はこの国の筆頭公爵家だけれど、我が帝国の前では赤子同然。あなたたちの婚約なんて、いくらでも反故にできるのよ」
留学初日のときよりも数段醜悪さを増した蔑むような目で、タチアナ殿下がほくそ笑む。
ちなみに、殿下の取り巻きである二人の令嬢は、いつものように殿下の隣でぶんぶんと首を縦に振っている。見事なまでの忠誠心である。
「恐れながら、タチアナ殿下」
でも、私だって黙っていられない。売られた喧嘩を買う準備なんて、とっくにできているのだもの。
「いくら帝国が大陸の覇者とはいえ、他国の貴族間の婚約に口を出し干渉するなど許されることなのでしょうか? 婚約とは、いわば貴族家同士の契約に基づく政治的かつ経済的活動の一環です。その結びつきに介入しようとすることは、内政干渉と捉えかねない越権行為なのでは?」
「は? な、ないせい……? 何よそれ」
「それぞれの国には自らの意志で物事を決定する権利があり、他国から干渉を受けないというルールがあるのはご存じですよね? 国内政治や経済活動、社会体制や文化的要素に対して他国が介入したり干渉したり、また威嚇しようとすることは国際法によって禁じられているのですよ?」
初歩的な国際社会の決まり事をごくごく簡単に説明したつもりだったけど、タチアナ殿下にはちんぷんかんぷんだったらしい。
数秒間、ぽかんとした表情を見せたかと思ったら、突然火が噴いたように激昂する。
「な、なによ! どいつもこいつもわけわかんないことばっかり……! 帝国は偉いのよ! この世界で一番強いのよ! 帝国が命じることには、みんな従うべきなのよ!」
まるで幼い子どものような言い分に、私だけでなく帝国令嬢二人もわかりやすくドン引きする。さすがにここまで来ると、彼女たちの忠誠心もちょっと揺らいでいるらしい。気持ちはわかる。
「あなたたちの婚約なんか、お父様に言ってとっとと破談に追い込んでやるんだから!」
「お父様、ということは、帝国皇帝にお願いして、ということですか?」
「当たり前でしょう!」
「……はあ」
はっきり言って、どう返すのが正解なのか、判断に迷う。
もしもタチアナ殿下が、私たちの婚約解消を父親である帝国皇帝にお願いしたとして。
皇帝陛下がほいほいとそれを受け入れ、この国に働きかけたりするだろうか? だってそんなことをしたら、国際社会から「内政干渉になるんじゃない?」なんて反感を持たれ、大国としての名誉や権威、信用を失いかねない。
あ、でも、現皇帝ってタチアナ殿下にはすこぶる甘いんだったっけ。娘をこんなちゃらんぽらんに育て上げたということは、皇帝自身も相当なちゃらんぽらんだという可能性がある。だとしたら、可愛い娘のためにと後先も考えず、権力を振りかざして暴走してもおかしくはない。
そうなったとき、恐らく、というか確実に、グラキエス公爵家は帝国に対して牙をむくだろう。下手したら王家よりも怖いと恐れられているグラキエス公爵家は、巧みな立ち回りであっという間に世界中を味方につけ、ここぞとばかりに帝国を遣り込めようと動き始めるに違いない。
そしたらもう、逆に帝国のほうがやばいのでは? 少なくとも、無傷ではいられないと思う。大袈裟かもしれないけど、武力衝突の末に国家存亡の危機に陥る、なんてことも……?
世界地図が大きく塗り替えられるかもしれない事態まで想像してしまって、私は軽いめまいを覚える。まずいまずい。遠い目をして現実逃避してる場合じゃない。
「……あの、殿下。少し冷静になられたほうがいいと思うのですが」
「うるさいわね! なによ、偉そうに! なんであなたなんかが、ルカ様の婚約者なのよ! わたくしのほうが絶対相応しいのに!」
「そう言われましても……」
「あなたたちの婚約なんか、何がなんでも白紙にしてやるんだから! 覚えておきなさい!」
タチアナ殿下はそう言って、鼻息も荒く立ち去っていく。
二人の帝国令嬢は、だいぶ困った様子であたふたとそのあとを追いかけていく。
三人の背中を見送りながら、私はどうしたものかとため息をついた。まったく、噂に違わずどうしようもない人である。知性と品性はどこ行ったのだ。
今の話をルカやルナリア様に伝えたらどうなるか。帝国側がどう動くかにもよるけれど、最悪の場合、国が一つなくなるような究極の事態に発展するかもしれない。
それは、さすがに、ねえ。とてもまずいわよね……?
そもそもの話、百歩譲って私とルカの婚約がなくなったとしても、ルカはタチアナ殿下を選ばないと思うのだけれど。その辺りのことに思い至らないというのが、なんというかまあ、とほほな人である。
とにかく、なるべく穏便に、事を収めなければ。なんて悠長なことを考えていたら、思いもよらない最悪の状況が待っていたのだ。
◇・◇・◇
その日は、ルカが朝からファベル侯爵邸を訪ねることになっていた。
ファベル侯爵といえば、ディーノ様のお父様にして現騎士団長。ルカとディーノ様は幼い頃からファベル侯爵に師事して剣術を習い、切磋琢磨してきたライバル同士なのである。
今でも二週に一度は侯爵邸に通い、剣技を磨き続けるルカ。剣術には真摯に向き合うルカの姿勢に刺激を受け、ディーノ様も負けじと稽古に余念がない。二人の修練はいつも体力の限界まで続き、へとへとになりながらも帰りには必ず我が邸に顔を出すのがルカの習慣になっている。
そんなルカが来る夕方頃まで、私は自室で本を読んだり学園の授業で出された課題をこなしたり、ゆっくりと過ごすことが多い。
ところが。
「お、お姉様!!」
夕方近くになって、ミリアムがいきなり部屋へと乱入してきたのだ。
まずドアをノックするというごくごく基本的な約束事すら、頭の中からすっぽりと抜け落ちてしまったらしい。それくらい、やけに慌てふためいている。
「ミリアム、あなた――」
「お姉様、た、大変よ! ルカ様が街で暴漢に襲われたって、たった今連絡が……!」
ミリアムは蒼ざめた顔をして、心なしか震えている。
「は? な、なに言って――」
「詳しいことはわからないけど、ルカ様を保護した騎士団の方がお姉様に伝えにきたのよ! ルカ様がうわ言でお姉様のことを呼んでるって……!」
「うわ言? そこまで重傷なの……?」
「と、とにかく騎士団の馬車が迎えに来ているから、急いで行ってあげて!」
今にも泣き出しそうなミリアムの表情に急き立てられるように、私は外へと飛び出した。
門の前には見慣れない馬車が停まっていて、御者台に座る男性は確かに騎士団の隊服を着ている。
私が近づくと「キアラ・ソルバーン伯爵令嬢でしょうか?」と恭しく確認し、どこか緊張した口調でこう言った。
「ルカ・グラキエス公爵令息が暴漢に襲われ瀕死の状態です。ひとまずお連れしますので、急いでお乗りください」
有無を言わさぬ雰囲気にそこはかとない違和感を抱きつつも、気が動転していた私は急かされるまま馬車へと乗り込んでしまう。
今思えば、あのルカが、剣術では誰にも負けないと豪語するルカが、暴漢なんかにすんなりやられるわけがないのに――――。
そして気がつけば、馬車はいつのまにか街とは正反対の森のほうへと向かっていたのだ。




