18 悪意の果て
それはまるで、映像がスロー再生されているようだった。
突然現れた薄ら笑いのメイドが、ナイフを手にしながら猛然と私に襲いかかる。
メイドに気づいたルカが前に飛び出して剣を抜いたのと、ほくそ笑むメイドの口が呪詛の言葉を吐いたのは、ほぼ同時だった。
そして、私が胸元の黒曜石を握ったのも。
「パァーン……!」
空気が震えたような透明な音が響いて、あの銀色の美しい『盾』が瞬時に私を包み込む。
「うわああああっ!!」
間髪を入れずに獣のようなおぞましい叫び声がして、気づくとメイドが顔を押さえながら床をのたうち回っていた。
「ああああ……!!」
さっきまで薄ら笑いを浮かべていたその顔には、あろうことか蒼黒く禍々しいアザのようなものが見え隠れする。アザは首筋や腕のほうにまで広がっていき、もとは鮮やかな金髪だった髪も一部が腐食したように黒ずんでいく。
それはまるで、銀色の『盾』に弾き返されたメイドがその身に宿した自らの悪意に侵食されていくかのようだった。
そして、ホールの一角で起こっていた騒ぎのほうも、「わぁーっ!」という喚声とともにディーノ様たちが一気に鎮圧したらしい。ナイフを突きつけていたほうのメイドが、突然脱力したようにがっくりと膝を折った隙を狙ったのだ。
「おい、大丈夫か!?」
「怪我は!?」
「こっちは気を失ってるぞ!」
「しっかりしろ!」
大勢の人の声と走り回るたくさんの靴音が縦横無尽に飛び交う中、こちらの異変に気づいたらしいベルナルド殿下とディーノ様が慌てたように駆けつける。
「ルカ、どうした!? ――って、え!?」
「このメイド、まさか――」
「ヴェロニカ嬢だよ。もう顔だけでは判断できないかもしれないけど」
激痛にもがき苦しむメイド――ルカの言う通りなら、ヴェロニカ様――を目にしても、二人は何が起こったのかさっぱり理解できずにいる。そりゃそうだ。
ルカが落ちていたナイフを拾い上げるや否や医療班と思しき使用人たちも駆けつけ、半狂乱で床に転がるヴェロニカ様を介抱し始める。
その様子を呆然と眺めるミリアムに一瞬だけ目を向けて、ルカは淡々と話し出した。
「このナイフを手にしたヴェロニカ嬢がいきなりキアラに突進してきたんだけど、どういうわけか仕込んだ呪いを自ら受けちゃったみたいだね」
「仕込んだ呪い? ナイフにか……?」
「ほら」
手にしたナイフを、勢いよく殿下の目の前に突き出すルカ。
その刃は異様なほどどす黒く変色し、異臭すら漂っていた。
「多分、ただキアラに怪我を負わせるだけじゃなくて、あくどい呪いをこのナイフに仕込んでたんじゃないの?」
「考えただけで吐き気がするな」
「でもその呪いを、なぜか我が身に受けてしまったと……?」
「ああ」
ルカはナイフを殿下に手渡して、くるりと振り返る。
「……キアラ、怪我はない……?」
「見ての通り。大丈夫よ」
「よかった……」
心底ホッとしたような表情をするルカの手が、当然のように伸びてくる。
そのまま温かい腕に抱きしめられてようやく、すべてが終わったのだと実感した。
「……怖かったよな?」
耳元でささやくルカに「大丈夫」とだけ答えると、ちょっと不満そうな声が返ってくる。
「こんなときくらい、もっと俺を頼ってよ」
「十分頼ってるわよ?」
「全然足りないよ。俺はもっともっとキアラに頼られたい」
「……ずっと、隣にいてくれたじゃない」
私がつぶやくと、ルカは俄然うれしそうな顔をする。
そしてひと際甘い視線で、私を見つめた。
「そんなの、当たり前だろう?」
それからすぐに、通報を受けた騎士団員たちが駆けつけて、茫然自失のミリアムは大人しく連行されていった。
ヴェロニカ様は騎士団の医療施設でひとまず治療を優先させることになり、もみ合っていた二人のメイドも同じく医療施設で診てもらうことになったらしい。異常な怪力を見せていたメイドのほうは、運び出されるときも意識が戻らないままだった。
呪いが仕込まれていたと思われるナイフは、一旦騎士団のほうで調査や解析を行うという。ただ、呪いや呪術なんてこの国ではポピュラーなものではないから相当時間がかかるだろう、とディーノ様はため息をついた。
阿鼻叫喚のパーティーが終わったあとは脳が「考える」ということを拒絶してしまい、その夜私はベッドに入った途端、泥のように眠ってしまった。
翌朝。
「おはよう。よく眠れた?」
真っ先に様子を見にきたルカは愛おしげに私を抱き寄せて、ちゅ、と額に軽くキスをした。
いつものやり取りなのに、なぜだか言葉に詰まってしまった私は、黙ってルカの胸に顔を押しつける。
「……珍しい。キアラが抱きついてくるなんて」
「……だめだった?」
「だめなわけないじゃん。もっとがんがん抱きついてくれていいし、なんならこのままベッドに戻ってもいいよ?」
茶目っ気たっぷりに笑うルカを前に、私もふふ、と笑ってしまう。
「……もう、キアラが可愛すぎるんだけど」
「え?」
「よし、やっぱりベッドに戻ろう。戻っていちゃいちゃしよう」
「へ? いや、あの、朝食は?」
「そんなのあとあと。いちゃいちゃが先だよ。面倒なことは全部終わったんだし、どうせならこのまま二人で愛を確かめ合っても――」
「こら!!」
あんなことがあったというのにまったく動じず、至って平常運転のルカの笑顔は、強張った私の心を解きほぐしてくれるようだった。
公爵家全体が騒動の後始末で右往左往しているさなか、ベルナルド殿下とディーノ様が再び現れたのはそれから数日後のことである。
「すごく意外なんだけど、ミリアム嬢が取り調べには素直に応じていてね」
口火を切ったディーノ様の言葉に、私は連行されていくミリアムの姿を思い出していた。
私と言い争ううちに、見たこともないほど取り乱していくミリアムの様子も。
あれはいったい、何だったのだろう。
「ミリアム嬢は西の修道院に送られてまもなく、偶然修道院に立ち寄ったヴェロニカ嬢と知り合いになったそうだよ。それからヴェロニカ嬢は頻繁にミリアム嬢を尋ねてくるようになり、親しくなってお互いの身の上話を打ち明けるに至ったらしい。そこで二人ともキアラ嬢に恨みがあるとわかって、ヴェロニカ嬢から『ここを出て、一緒に復讐しましょう』と持ちかけられたと言っていた。ミリアム嬢自身、修道院での生活にはうんざりしていたから、すぐさま誘いに乗ることを決めたそうだよ」
あとでわかったことだけれど、ヴェロニカ嬢は「偶然」修道院に立ち寄ったのではなく、最初からミリアム狙いでタイミングを見計らっていたらしい。
実はタチアナ殿下が絡んだ前回の騒動に関する噂でミリアムの存在を知り、これは使えそうだと小躍りしながら接触の機会を窺っていたそうである。
「修道院からの逃亡は、思いの外簡単だったそうだ。ヴェロニカ嬢の呪術のおかげでね」
「どんな呪術を使ったのですか?」
「ほら、君たちも見ただろう? パーティーのとき、メイドが人間業とは思えないほどの怪力で相手のメイドを押さえつけていたのを」
「ああ、はい」
「あのメイドは、呪術によってヴェロニカ嬢に操られていたんだよ。ヴェロニカ嬢は呪術を使って、人間を傀儡にできたらしい」
「傀儡……」
「操り人形ってことか」
「そういうこと。あのとき、メイドは急に脱力して気を失ったように見えたんだけど、その直前に術者であるヴェロニカ嬢がナイフにかけた呪いを自ら受けてしまったから、術が切れてしまったんだろうね」
「なるほどな」
人間を傀儡にして、意のままに操る呪術があるなんて。にわかには信じられない。
でも、パーティーで見たあのメイドの生気のない虚ろな目は、まさしく傀儡のそれだったかのかもしれない、と合点がいく。
「ヴェロニカ嬢の呪術で修道院のシスターの一人を傀儡にしたあと金を奪って修道院を逃げ出し、首尾よく二人で王都に戻ってきたそうだ。そのあとすぐにソルバーン伯爵夫人と密かに連絡を取って、隠れ家を提供してもらったり食事や身の回りの世話をお願いしたりしていたらしい」
「やっぱり、義母はグルだったのですね」
「君の従兄の言う通りだったよ。娘可愛さに平民時代の伝手を利用して協力した、と話していた」
「もしかして、義母もすでに拘束されているのですか?」
「ああ。残念ながらね。ただ、伯爵は何も知らなかったらしい」
やっぱり、クリオの思った通りだったのだ。
あの時点ですでに、義母はミリアムやヴェロニカ嬢の悪事に加担していたことになる。
「それからしばらくして、二人はグラキエス公爵家主催のパーティーの話を耳にしたそうだ。罠かもしれないとは思ったようだが、ヴェロニカ嬢は自分の呪術に絶対の自信があったらしくてね。失敗なんかするわけがないと言い張って、公爵家のメイドの一人を傀儡にし、着々と潜入の準備をしていたそうだよ。ただ」
「ただ?」
「ともに過ごす時間が増えるにつれ、ミリアム嬢はヴェロニカ嬢の異常さにだんだんついていけなくなっていたらしい。なんせ、呪術の儀式には生きた爬虫類や小動物の血やら目やら足やら体の一部を使うそうだし、ヴェロニカ嬢自身の血も使うせいか、彼女の体はあちこち傷だらけらしくて」
「えー……」
「やばいな、それ」
「ああ。でも口答えしたり何か意見したりすると狂ったように逆上するから、怖くて半ば言いなりになっていたそうだよ。パーティー当日は傀儡にしたメイドを使って難なく公爵邸に潜入し、そのメイドを操って騒ぎを起こしている間に、ミリアム嬢がキアラ嬢を襲うという計画だったらしい」
メイド二人の騒動は、いわゆる陽動作戦だったのだろう。
ところが、予想外にミリアムが失敗してしまったことで、ヴェロニカ様は自らナイフを手に走り込んできたのだ。
その結果、まさか自分があんな目に遭うなんて。思いもしなかったに違いない。
第一章、残り一話です。
今日中に投稿する予定ですので、しばしお待ちを……!