1 婚約者のやや凶暴な溺愛
「あ! いらっしゃったわ!」
門の前で停まったグラキエス公爵家の馬車に気づいて、二つ年下の妹ミリアムが立ち上がった。
馬車から降り立った見目麗しい黒髪の貴公子が見えるや否や、妹は玄関ホールからとんでもない勢いで飛び出していく。
私はそれを、いつものように冷めた目で眺めている。
「ルカ様~!!」
わざとらしくはしゃいだ声で駆け寄るミリアムに、しかし黒髪の貴公子が目を向けることは一切ない。
まるでその存在には一ミリも気づいていないとでもいうように、真顔かつ無言で妹の脇を素通りする。ガン無視である。
そして玄関ホールにいた私を見定めると、柔らかく微笑んで小走りになる。
「会いたかったよ、キアラ」
感極まった表情で、愛しさをこらえきれないといった甘い声で、もう一秒も待てないといった切実さを伴って、黒髪の貴公子は当たり前のように私へと腕を伸ばす。そのまま優しく抱きしめられること、数秒。
「……昨日も学園で会ったでしょう?」
ちょっと呆れた口調で見上げると、こぼれるような笑顔を見せる黒髪の貴公子。
「昨日は昨日、今日は今日だよ」
「明日だって会えるのに」
「毎日会ってても全然足りない」
私の首元に顔を埋め、焦がれるようにささやくのは、幼馴染で婚約者のルカ・グラキエス公爵令息である。
ルカとの婚約が決まったのは、お互いが五歳のときだった。
母親同士が学園時代からの親友だった縁で、私たちは幼い頃からたくさんの時間を共有してきた、いわば幼馴染。気がつけばいつも、ルカは私の隣にいたと思う。
婚約は、ルカの言葉がきっかけだった。
「ぼく、これからもずっとずっとキアラと一緒にいたい! キアラと離れたくないし、けっこんしたい! キアラは?」
「私も!」
そんな子どもの戯れ言を真に受けた親たちは、なんとあっさり婚約を決めてしまったのだ。
ちょっと雑すぎでは? とは思うけれど、母親たちには実は別の思惑があったらしい。
婚約が決まってしばらくすると、私の母は体調を崩して臥せることが多くなった。その後あれよあれよという間に容体は悪化していき、私が七歳のときあっけなく他界してしまう。
母を亡くし、悲しみに沈む私の前に現れたのは、まったく想定外の人物だった。
あろうことか、それは父親の愛人とその娘、つまり妹だったのだ……!
突然の緊急事態勃発である。
実は、母が元気だった頃から、父親であるソルバーン伯爵は一人の平民女性と親密な関係にあったらしい。母との結婚は家同士が決めた政略的なものであり、残念ながら二人の関係は当初から冷え切っていた。そんな事情もあって、父は私が生まれてすぐに平民の愛人を囲うようになったという。
我が父親ながら、がっかりなんですけど。
母は、愛人の存在を知っていた。そして、自分の体が病に冒されていることにも気づいていた。だから自分亡きあと苦境に立たされるであろう私のために、ルカとの婚約を早々に決めたのだ。なんという先見の明。なんという母の愛。
一方、愛人とその娘であるミリアムは、再婚が決まるとすぐに我が邸へと押しかけてきた。
彼女たちの頭の中の辞書には『遠慮』だの『慎み』だのといった言葉はどうやら皆無だったらしく、門をくぐったその瞬間から屋敷の中を我が物顔で闊歩し、傍若無人を絵に描いたような厚かましさを披露し始める。
そしてテンプレ通りに、私は冷遇された。父は私に見向きもせず、妹のミリアムばかりを溺愛する。義母とミリアムはあからさまに私を蔑み、嘲笑し、罵倒する。
そこに待ったをかけたのが、あのグラキエス公爵家である。
私への非道な扱いに気づいた公爵家は、すぐさま内々に抗議の意を示した。私は将来、グラキエス公爵家に嫁いで公爵夫人となる身である。ぞんざいな扱いなど決して許されないし、冷遇を続けるようなら容赦はしないと父に迫った。
我が国の筆頭公爵家に睨まれたら、貴族社会で生きてはいけない。そう悟った小心者の父は、即座に態度を改めた。といっても、表面的なものである。私に関心がないのは相変わらずだし、普段は必要最低限の会話しかしない。いないものとして扱われていることに、変わりはない。
義母とミリアムも、さすがに表立って私を冷遇することはできなくなった。代わりにネチネチとした、多少的外れの口撃が爆発的に増えることにはなったけど。
不遇の生活を耳にして、一番に私を心配し、心を痛めてくれたのはほかならぬルカだった。
「キアラがそんなつらい目に遭ってるなんて、許せないし耐えられない。僕がソルバーン伯爵家のやつらをさくっと始末してあげるよ」
「は、はい?」
……唐突に物騒過ぎる発言である。
とても七歳の子どもの言葉とは思えない。
でも、物心ついた頃から王国騎士団長を務めるファベル侯爵のもとで剣の稽古に励み、類まれなる剣術の才能を開花させつつあったルカなら、不可能ではない話だった。多分、あっさり始末できちゃう。
「あんな愚鈍なやつら、僕の敵じゃないからね。物取りの犯行に見せかけて、さくっとやっちゃおう」
「ちょ、ちょっと、ルカ」
「キアラは屋敷の中に引き入れてくれるだけでいいからさ。もちろん、始末するところなんか見せないし」
「だ、だめよ、そんなの」
「えー、なんで」
「なんで、じゃないでしょう? 常識的に考えたら、ありとあらゆる点で絶対にだめ」
「えー?」
恐ろしく無邪気な顔で、とんでもないことを言う。
思えば、この頃からすでに、ルカは私のことになるとやたら過激で極端な物言いが多かった。
でもそれは、私のことを心から想う優しさが根底にあるからこそ。たとえ「始末する」とか「排除する」とか「社会的に抹殺する」とかバイオレンス成分過剰な発言の大行進だったとしても、すべては私を案ずるあまり、行き過ぎた表現になってしまうだけのこと。と、理解はしている。
だから、怖いとか恐ろしいとか思うことは一切なかった。
まあ、私の感覚もだいぶ麻痺しているという自覚はあるのだけれど。
それに、なんだかんだ言って、ルカは私がだめと言ったことを無理やり強行することはなかった。そういう信頼感は確実にあったのだ。
私はルカの気持ちだけをありがたく受け取って、やんわりと宥めた。
「近い将来、私はルカと結婚して公爵夫人になるのよ? 自分の身に降りかかった火の粉すら払えないなんて、公爵夫人失格だわ。ルナリア様みたいな公爵夫人になってルカを支えていくためには、あの人たちに負けないくらい強くならないといけないと思うの」
その言葉を聞いて、ルカは感動に打ち震えていたらしい。「あの瞬間、俺は絶対にキアラを手放さないと心に誓ったんだ」「いっそのこと、将来なんて言わずに明日にでも結婚したいと思った」などと後に熱く(?)語っている。もちろん、七歳では結婚できない。
ちなみに、ルナリア様とは言わずと知れたルカの母親で、私のことを二番目に心配してくれていたのは恐らくルナリア様である。
それに、我が家の使用人たちもみんな私の味方になってくれた。
父親や義母や妹の理不尽な所業に大いなる反感を抱き、気づかれない程度に地味な反撃を繰り返してはしたり顔をする使用人たちの存在は、冷たい家の中にあっても本当に心強かったのだ。
そうして数年が経った頃、ミリアムがこんな世迷い言を言うようになる。
「ねえ、お姉様。ルカ様を私に譲ってくれない?」
「え?」
「ルカ様の婚約者としては、私のほうが相応しいと思うの。だって私のほうが可愛いし、ルカ様もきっと私のほうがいいって言うと思うのよ」
……「可愛い」しか根拠がないのに、なんでそんなに自信ありげなの?
確かに、ミリアムはピンクブロンドの髪に透き通るアクアマリンの瞳をしていて、見た目だけならとても可愛らしい。
ありふれたココアブラウンの髪に暗い青碧色の瞳を持つ私に比べたら、数倍人目を引くと思う。
でも、だからって、いったいどこからそんな奇想天外な発想が?
「今度、ルカ様がお姉様を迎えに来たときに、私を紹介してちょうだい? いいでしょう?」
ミリアムはそう言って、いやらしく口角を上げた。
お読みいただき、ありがとうございます。
第一章は執筆済み、全十九話です。
最後までおつきあいいただけると、うれしいです。
どうぞ、よしなに。