初恋 1
いつもお読み頂きありがとうございます。
やっと時代が動いてきました。
よろしくお願いします。
それは3年前の初夏。
ねっとりとした空気は都会を多い、いつ雨が降るのかわからないような天気だった。
それでも修学院大学につながる交差点はいつも以上に明るく、そして光っているようにさえ見えた。
信号が赤に変わったので二人は立ち止った。
二人とも前を向いていた。
そこで栂宮(普段は二宮と呼ばれている)は、視線を動かさず
「結婚、して戴けませんか」と言った。
驚いた若干20歳にもならない少女は大きく宮の方に顔を向けた。
「本気で・・おっしゃっているのですか?」
「本気です。本気ですよ。人生で一番本気」
「私を?」
「そう。君を。津島菜子さん。菜児(中国語で菜子ちゃん)結婚して下さい」
信号が青に変わったけれど、二人はそのまま動けなくなった。
「僕は君の事が好きで。大好きで。出来れば年をとっても一緒にいたいと思ってて」
「はい」
菜子は「はい」と答えたが、それは彼女もそう思っていたから。
「君は」
「はい」
何が「はい」なのかきっと殿下はわからないだろうと、菜子は顔を真っ赤にしてしまった。
「それ、君も僕を好きでいるという事でいい?」
菜子はうつむきながらうなづいた。
思えば1年前のある日、二宮の主催する自然文化サークルへ勧誘されてから、お互いに何となく惹かれあい、けれど、それは秘密の恋として、学校生活でもサークルの中でも絶対に知られてはならない事。
だから菜子は殊更に二宮の隣にいても他の女子メンバーと仲良く話したり、特にマスコミに取材されている時はかなり用心してきた。
いつか「結婚」の二文字が現実となるかもしれない。
けれど、それはまだまだ先の事と思って居た。
だって今まで一度も「交際してください」と言われた事等ないのだ。
気が付けばすっと隣にいたり、向かい合って笑ったり・・・
二宮は東宮家の御次男。
とても身分が釣り合わないし。だから、むしろ「交際して」などと言われない事が気楽でよかった。
だけど、時々「これって恋人同士よね?」と思う事もあったし、宮も「僕たちってね・・」と言葉によどむ事もあった。
時々「二宮様を好き」という気持ちが表に出てしまいそうで必死に我慢する自分が嫌になった事もあった。
二宮が笑ってこちらを見る。みんなにわからないようにウインクする。そっと袖口が触れて二人の目線が互いを見る。
どきどきとしつつ、いつまでも続くはずのない恋だと思っていた。
身分違いの結婚がうまくいくのは物語の中だけ。
大抵は人魚姫の皇子様のように、知らない婚約者が出てきて自分は海の泡になる。
だからなるべく夢中にならないようにと、勉強とサークルに目を向けて来た。
菜子は社会福祉に興味を持ち、自閉症の子供達のボランティアを始めたり、手話サークルにも入っていた。
心理学として子供とどう接していくか、人間とはどんな生き物なのか、そういう事に深い関心を持っていた。
一方、宮は動物や生物が大好きで、本当は理系の大学に行きたかったのに許して貰えなかったことを今も悔やんでいる。
「鶏がつつくときな菜子ちゃんが怒った時。ナマズの目は菜子ちゃんが優しい時」と言ってからかう、その度に睨んでもついつい一緒に笑ってしまう。
「野生のニワトリが家禽になっていく過程を知りたいんだ」
「考えた事もありませんでした」
「そうでしょう?でも歴史的にニワトリが野生だった時もあるんだよ」
と、真剣に語る宮は本当に美しい。
世間では、サングラスをしたり金のブレスレットをしたりで、「不良皇族」と呼ばれているらしいが、宮ほど皇室の歴史と儀式に詳しい人はいないのではないか?と菜子は思って居る。
20歳の成年式を迎えてすぐ、動物園水族館協会の総裁に就任し、「公務」をやりながらも学業もきちんとなさっている。
宮の律儀さやエネルギッシュな所が大好き。
ただし、お酒は飲み過ぎるきらいがあるし、たばこは体によくない。
そんな事ばかり考えて来たのだった。
だけど。
「少し考えさせて戴けませんか」
菜子は小さく言った。
「勿論」
二宮は笑った。そして大きく息を吐いた。
「即お断りじゃなくてよかった。ほら、僕の手を見て。震えているだろう」
そっと宮の右手に触れると暖かった。
「結婚すると言っても、現実には大学を卒業してからだと思う。それまで僕だけの菜子でいてほしい」
「はい」
「不安なんだ。菜児があまりに可愛くて明るくてみんなに優しいから」
「それは私だって」
ムキになってそう言った菜子の唇を二宮の人差し指が抑える。
「よく考えて」
「はい。二殿下(中国語で二宮)」
近頃、二宮は中国語を習う事が面白いらしく覚えたての言葉を教えてくれる。
「菜児」
「二殿下」
二人の秘密の合言葉のように。
信号がまた青に変わった。
二人は何事もなかったように横断歩道を渡って行った。
「プロポーズされた?」
最初に驚いて大声を出したのは母だった。
菜子の父、津島道彦は修学院大学経済学部の教授であり、同時に馬術部顧問もしており、津島家は修学院に勤める教員宿舎に住んでいる。
建物は古いし、階段しかないし、部屋もそこそこ狭いが、父はそういう事には無頓着な人だった。
世の中に「仙人」がいるとしたらそれは道彦だと菜子は思う。
「欲」がないのだ。
研究や学問が大好きで家族を連れてアメリカやオーストリアで生活し、菜子が高校入学と同時にようやく帰国した。
住む所に拘らず、贅沢を好まず、今風をこのまない。
ゆえに津島家にはテレビがない。
テレビを見るより本を読む方が有益と考えているからだ。
お陰で菜子も弟の慎も今どきの話題にはついていけてない。
長い外国生活ですっかり英語やドイツ語が得意になってしまった菜子は日本語の難しさを痛感していた。
「どなたにプロポーズされたの?」
仙人の父に文句を言う事もなく、連れ添って来た母和子はまさかの出来事に驚いている。
「栂宮さま・・・」
「つ・・栂宮様って東宮家の?あなた、お付き合いしていたの?」
「・・・はい」
「いつから?」
「去年あたりから」
「あなた、ご存じでした?」
母は父に向って言った。
「いや、全然。大学では会わないしね。そうか。栂宮殿下とね」
父はやたら落ち着き払っている。
母はこういう父に腹が立つのだ。何でもなるようになるさ的にのんきに構えている夫が。
「宮様は皇族でいらっしゃるのよ。わかる?」
「はい」
「ああ、菜子ちゃんはお父様に似ておっとりだから」
「そんな事ありません。私だって悩んでます」
「大変恐れ多い事で、きっと東宮ご夫妻も反対なさるわ。帝だって。だってまだ拾宮様の結婚だって決まってないのよ」
「まあまあ、和子、そんな風に言ったら菜子が可哀想でしょ」
父がかばってくれた。
「今すぐという話ではないのだろう」
「はい。結婚は卒業してから」
「では見守ろう」
父の即答に、母は唖然としていた。
やっと出て来た言葉が
「菜子ちゃん。よくよく考えてみましょうね。時間はたっぷりあるのだから」
(心は決まっているんだけどな)
菜子は母の為にも強硬な意見は言わないで置こうと思った。
今の時代から見ると、20歳にも満たないのに結婚話が出る事は早すぎると思いますよね。
でもバブルのころには「クリスマスケーキ」という言葉があり、女性は24歳までに結婚しないと25歳になると値段が下がる・・売れ残りと言われたものです。
まあ、マスコミが勝手に言ってたんですけど。
「負け犬の遠吠え」なんて言葉もありましたね。
でも、まだ適齢期があって男女はそれにそって結婚し、出産し・・・という方がまともな世の中だったかなと思います。
そうはいっても。
拾宮様の結婚はいつ?