表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

アラーム

作者: 志賀将治

「おい、中岡」

 四限目の授業修了のチャイムが鳴った後、歴史教師の山下芳生が中岡喜美子の名前を呼んだ。

 喜美子が振り返ると、山下は人差し指をクイックイッとしていた。廊下へ出ろ、と言っているらしい。

 廊下に出ると、山下は持っていたスマホを喜美子の前に掲げ、

「これで何度目だと思ってる?」

 と、うんざりした様子で言った。

「ごめんなさい。以後気を付けます」

 と、喜美子が言うと山下はため息を吐いて、

「軽々しく言うのはやめなさい。『これで何度目だ?』と、私は聞いただろう。覚えていないなら教えておくが、今回で三度目だ。お前のスマホから流れたメロディで大切な授業が妨害されたのは、今回で三度目なんだ」

 と、山下は授業中に喜美子から没収したスマホをブラブラと揺らした。

「本当にすみません。ちゃんとマナーモードにしたつもりだったんですが…」

「『つもり』じゃ困るんだよ。その気の緩みが私だけじゃなく、真面目に授業を受けている生徒たちの妨げにもなっているのを自覚しているのか?」

「しています」

「だったら、なんで最初から直そうとしない? 口でハッキリとそう言っても、行動に移せていなければ言っていないも同じだぞ」

「………」

 山下の圧に押される形で喜美子は口を噤んでしまった。

「こうなってしまったら仕方がない。卒業するまでスマホは私が預かっておこう」

 と、山下が喜美子のスマホを胸ポケットに入れようとした。

「えっ。それは困ります」

「そうやって慌てるということは、四度目もやるつもりだからか?」

 山下の鋭い眼差しを受け喜美子は身をすくませた。

 しばらく居たたまれない空気が流れているとき、山下の背後から一人の教師が声をかけた。

「まあまあ、山下先生。そのくらいにしておきましょうよ」

 その声を聞いた途端、喜美子はハッと顔を上げた。

 喜美子が通う高校に最近転任してきたばかりの英語教師、園田澄彦だった。

 名前のように澄んだ人柄とエキゾチックな顔立ちで女子生徒たちから絶大な人気を誇る園田の登場に、塞ぎ込んでいた喜美子の心が一瞬にして浄化された。

「それだけ叱れば中岡さんも充分理解したはずですよ。ですから、もう構わないでしょう?」

「そうはいかんよ、園田先生。中岡はね、一度や二度のみならず三度も授業中にスマホを鳴らしている。授業の妨げになってしまったのもあるが、これから社会人になる過程で当たり前の常識を身に付けておくためにも、こういった不注意は徹底的に取り締まらなければならない。君も一教育者の立場に立っているのならそれぐらい分かるだろう?」

「それはもちろん。ボクも生徒たちの将来を案じる教師という立場上、山下先生のおっしゃることはごもっともだと思います。しかしボクの場合、手厳しく諭すよりも生徒の気持ちに寄り添いながら真摯に導いてあげることこそ、理想的な教育法だと思っています」

「つまり、園田先生にとっては私のやり方は納得がいかないと?」

「いえ、そうは言いません。人にはそれぞれの個性と信念がありますから、個人のやり方に口出ししたり不満を言ったりするつもりはありません」

「それなら邪魔をしないでもらえないかね? 君が自分の流儀で生徒たちを導いてやるのなら私は一向に構わない。しかし、今は私と中岡の二人だけの話なんだ。紳士ぶって横槍を入れないでほしい」

 と、山下は年下の英語教師に食ってかかった。

「すみません。その『紳士』ではなく『真摯』のつもりで言ったんですが…」

「どっちだっていい。とにかく、今は私が教えている立場なんだ。君は早く職員室に戻っていたまえ」

 と、山下が忌々しそうに遮った。

 園田は仕方なく一礼すると、呆然と二人のやり取りを見ていた喜美子にウィンクをし、その場を離れた。

 途端に喜美子の浄化された胸の奥がときめいた。が、すぐに目の前で口をへの字にしている山下の存在に気付くと、再びしょんぼりとうなだれた。

 結局、昼食時間を半分ほど削られるだけこっ酷く叱られた喜美子だったが、無事にスマホは返してもらえホッとした。

 放課後、喜美子は親友の久保田薫のいる美術部の部室を尋ねた。どうしても山下とのやり取りを愚痴りたくて仕方がなかったのだ。

 部室では薫以外の部員が既に退出していたので、喜美子は周囲の目を気にすることなく気軽に話を振ることが出来た。

「だけど、喜美子も喜美子だよ。さすがに三度も同じことを繰り返したら誰だって頭に来るよ」

 と、話を聞いた薫が喜美子に同情しつつもそう言った。

「意識が足りないっていうのは自覚してるんだけど、どうしてもメールとかが来るとその場で確認しないと気が済まないのよ。そういう気持ちにならない?」

「…ならないなあ。そもそも私ってスマホで動画とかゲームとか一切やらないし、ほとんど電話連絡用でしか使ってないからガラケーみたいな感覚でしか持ち歩いていないんだよね。何度か家に置きっぱなしにしてるし」

「同意を求めた私がバカだったわ」

 と、喜美子はハーッと肩を落とした。

「まあまあ、そう気落ちしないの。一応、同情はしてるんだよ? なにせ、相手があのヨッシーだったんだからね」

 薫のいう「ヨッシー」とは山下のことだった。

「規則に厳しい上に生真面目な堅物教師を絵に描いたようなヨッシーだから、昼みたいな説教を受けたときの苦痛が半端じゃなかったのだけは理解出来るよ」

「ホントに私、山下先生ってイヤ。さっきも卒業までスマホを預かるとか言って脅してきたし」

 喜美子はそのときのことを思い出しげんなりした。

「卒業までスマホ没収するって言ったの? そんなのウソに決まってるじゃん。本当に出来るわけないでしょ」

 と、薫は笑った。

「そんなこと私だって分かってるよ。だけど、あの先生なら本当にやりかねない気がしたから、言われたとき一気に冷や汗が出たわ」

「確かにヨッシーならやりそうだわ」

「それに比べて園田先生は優しいよね。付き合うならあの人みたいな心優しい人がいいわ」

「おやおや、喜美子ちゃん。ひょっとしてスミ先生にお熱だったり?」

「いけない?」

「いけなくはないけど、絶対喜美子以外にもスミ先生のハートを射止めようと狙ってる女子生徒は多いはずだよ。なんたって、我が校随一の二枚目教師なんだから」

「かなり誇張してるところから察するに、薫も園田先生にその気があるんじゃない?」

 喜美子がからかうと薫は「ノー」っと両腕をクロスさせた。

「私も女だから甘いマスクのスミ先生に惹かれる部分は確かにあるわ。大好きな俳優のO似だし。だけど、スミ先生って転任してまだ間もないでしょ? まだ得体の知れない部分が多いから慎重派の私は未だに心を許してないの。スミ先生に限ったことじゃないけど、後戻り出来ない関係まで発展させるつもりならもっと相手のことを深く知らなきゃダメよ。今どきの子ってそういう意識が足りないから呆気なくハメを外すのよ」

「相変わらず為になるわね、薫の慎重論は」

 と、喜美子が皮肉を言った。

「あんまり応えてないわね。それじゃあ聞くけど、もしも今日スミ先生が喜美子に見せた顔が仮の表情だったらどうする?」

「仮の表情?」

「そう。表向きは女子高生を虜にする美形教師だけど、その中に醜い本性を隠し持っていたとしたら、喜美子はどう思う?」

 薫の問いに喜美子はしばらくボーッと宙を見つめてから、

「…全然想像が付かないからどうも思えないわ」

 と、言った。

 薫は参った、と言った様子で両手を上げた。

 話を終えた二人はそのまま部室を出、高校を後にした。

 その日の夜、家族と一緒に夕食を摂っていた喜美子だったが、リビングのテレビがやっていた番組の内容に思わず耳を傾けた。

 犯罪心理学者を総出させたバラエティ番組で、タレントたちが和やかな雰囲気を醸しつつ真面目な心理学について専門的知識を持つプロフェッショナルたちに質問を投げるというスタイルで知られる番組だった。

 喜美子が関心を向けたのは出演者の一人が発した質問だった。

『普段は温厚そうでとても悪いことをしそうにない人にも、悪魔みたいな感情を持っていたりするんですかね?』

 タレントの問いに、専門家の一人がこう答えた。

『人間には必ず善と悪の感情を持つ部分が存在します。ですから、おっしゃる通り日常的に優しい人でも、心の何処かには汚れた部分は必ず持ち合わせているのです。もちろん、私にもあなたにも…』

 と、専門家が言った途端に質問を振ったタレントが大げさな素振りでドキッとし、場の笑いを誘った。

 喜美子はムッとするとリモコンを手にしチャンネルを変えた。

「なんで変えたんだ?」

 と、父親が文句を言った。

「見たくなかったから」

「機嫌が悪いな。学校でなにかあったのか?」

「なにもないよ」

 と、喜美子は素っ気無く言った。

 彼女の中で、テレビの専門家が言った言葉と、放課後に薫が言った言葉がマッチしたため、どうしても聞きたくなかったのだ。

(今の話を真に受けるということは園田先生の本性を疑うことになる)

 と、喜美子は思ったからだ。

 喜美子は英語教師の園田澄彦に絶対的な信頼感を抱いていると同時に、生徒たちとの繋がりを他の教員以上に考えてくれていると信じていた。

 そう思うのは園田が校内随一の美形教師で自分を含む女子高生たちを虜にする魅力を備えているからという漠然とした理由が強いのだが、無論それ以外の理由も存在した。

 それは、彼が比較的に若手層の域にいることだった。

 喜美子が通う高校にはほかにも若い教員は数人いた。しかし、ほとんどがパッとしなかったり、とても教員とは思い難い振る舞いをしたり、生徒たちに小バカにされたりと情けない面ばかりが際立っていた。

 だが、園田はそんな彼らとは違った。女子生徒を引き寄せる持ち前の端整な顔立ちで存在感があるだけでなく、一人一人の生徒たちへの接し方にも独自の工夫を凝らし、決して退屈しないキャラクターとして自分の存在をアピールしていた。ときには真摯に、ときには茶目っ気たっぷりに生徒たちと接する園田の積極性は、ほかの若手教師たちよりもあきらかに抜きん出ていた。ゆえに、喜美子たち女子のみならず、園田は同性の男子高生たちにも慕われていた。

(園田先生に人間的な欠点なんて存在しないのよ)

 と、喜美子は胸中で断定した。

 食事を終えた喜美子はリビングでしばらく寛いでから風呂に入り、明日提出予定の宿題を終えるために部屋へ移動した。

 テスト勉強を始める前に、喜美子はスマホを取り出すと、午後八時五十五分にアラームが鳴るように設定した。

 午後九時には、喜美子が毎週楽しみに観ているドラマが放送されるので、それを見逃さないための手段だった。

 設定を確認してから喜美子はいざ宿題に取りかかろうとバッグの中を漁った。

 喜美子の顔に戸惑いの色が浮かんだ。

 手渡されたはずの肝心の用紙が見当たらないのだ。

(マズい、教室に忘れてきたのかも)

 この場に無いとなると、もはやそれしか考えられなかった。

 正直なところ、宿題を忘れたことで大きなペナルティを与えられるわけではないと知っていたので、喜美子は一度くらい開き直って忘れてしまってもいいだろう、と考えた。

 ところが、今回ばかりはそういかなかった。

 最悪なことに、宿題の提出を課題付けた教員というのが、喜美子が苦手とする厳格な山下だったからだ。

 三度も授業を妨害したことで山下からますます目を付けられたばかりのときに、今度は宿題を忘れてきましたとなると、それこそ山下は罰として本当にスマホを没収するかもしれない、と喜美子はげんなりした。

 明日の朝、早めに学校に行って急いで終わらせようとも考えたが、なにより朝が弱い自分にとてもそんな芸当が出来ないとすぐに悟り諦めた。

 喜美子がどうしようか悩んでいる間も時間は刻一刻と過ぎていた。

 喜美子は壁に掛けられた時計に目を向けた。

 時刻は午後八時過ぎを示している。

(学校まで取りに行こう)

 そう決めた喜美子はパジャマから私服に着替えると、自転車の鍵を手にして部屋を出た。

 抜き足差し足で階段を下りてから、チラッとリビングの様子を窺った。

 父親は缶ビールを飲みながらゆったりとテレビを観ており、母親は台所でカチャカチャと音を立てながら洗い物の相手をしていた。弟の姿が見当たらないが、恐らく部屋かトイレにでもこもっていると思われた。

 喜美子はそろそろとした足取りで玄関まで行くと扉を開け、音を立てないようにそっと閉めた。こんな時間に出歩くと言えば絶対に引き留められると分かっていたため、気付かれてはマズいのだ。

 午後九時にはドラマを観る予定になっている。家族全員それを承知しているから、それまでには自宅に戻って何事も無かったかのように顔を見せなければならない。

 喜美子は自転車にまたがると一目散に学校目指してペダルを漕いだ。

 自宅から学校までは片道で十五分ほどの距離だった。寝起きで気だるい朝にのんびり向かっての十五分だったから、急いで向かえばそれよりも早く着く。余裕ではあったが、喜美子は急いでペダルを漕いだ。万が一、家族の誰かが部屋にいないと気付いたら面倒なので、とにかく早く用紙を取りに行って自宅へ戻る必要があった。

 高校に到着した。が、当然門は閉じている。

 駐輪場が校内にあるため、喜美子は仕方なく門のそばに自転車を停めると大胆にも門をよじ登った。

 グラウンドを駆け抜けていると、職員室の窓から明かりが漏れているのが確認出来た。まだ残って仕事をしている先生がいると分かり喜美子はホッとした。少なくとも、まだ鍵が掛かっていないと分かったからだ。

 いつも入る出入り口から入り、喜美子は靴を脱ぐと素足で教室へと向かった。

 二階の教室へ向かうまでの間、喜美子はついでとばかりに不気味な空気が漂う校内の雰囲気を楽しんだ。昔から夜の学校は気味が悪いとか霊が出るとかトイレの花子さんが現れるとか色々と囁かれているが、なるほどそういう噂が広がるのも納得のいく不穏な空気に溢れていると喜美子は実感した。

 二階に上がり廊下を進む。

 教室の前へ来ると扉に手を伸ばした。鍵は掛かっていない。

 同級生たちが騒々しくしている普段とは対照的な静寂が支配する教室に入った喜美子は、すぐさま自分のデスクに小走りした。

 引き出しを漁り、一枚の用紙を取り出す。

(あった!)

 山下から手渡された宿題の用紙だった。

 折り畳んでポケットに入れてから喜美子は時計を見た。

 針は午後八時三十三分を指していた。

(なんとか間に合いそう)

 と、喜美子はホッとしてから教室を出ようとした。

 そのとき、カツッカツッと誰かが階段を上がって来る足音が聞こえた。

(誰か来る!)

 慌てた喜美子は教壇まで行くと、身を隠すように体を丸めた。

 階段から聞こえた小さな足音が徐々に大きくなり、どんどん教室に近付いて来た。

 さらに、喜美子はあることに気付いた。

(二人いる?)

 足音にじっくり耳を傾けていると、その正体が一人ではなく二人であることに気付いた。それがどんどん教室へと近付いている。

 やがて、足音が止まると男の声が喜美子の耳に入った。

「おかしいな。ちゃんと閉まっていたはずなのに」

 歴史教師の山下の声だった。

 よりによって一番出くわしたくない山下の出現に喜美子は動揺したが、同時にドアを開けたままにしていたことにもオロオロした。

「気のせいではありませんか?」

 と、もう一人の男の声がした途端、喜美子はハッとした。

 英語教師の園田澄彦だったからだ。

 喜美子は教壇の陰からチラッと二人を窺った。

 山下は訝しそうに頭を掻いてから、

「まあ、なんだっていい。それより、中へ入りたまえ」

 と、園田に声をかけた。

 廊下に突っ立っていた園田は言われるがまま中へ入った。

 窓から射し込む月の光でかすかに明るい教室で、山下と園田が互いに向かい合った。

「…それで、ボクにお話とはなんでしょう?」

 と、園田が尋ねた。どうやら、山下が園田に話があると言って教室に誘ったらしい。

 山下は「うむ」と、鼻を掻いてから口を開いた。

「まずは君に詫びを入れようと思ってね」

「詫び、ですか?」

 と、園田が小首を傾げた。

「生徒指導中に割って入った君に対して厳しい言葉をかけて追いやってしまったことだよ。後々になってあの態度は自分でも相応しい対応ではなかったと思い直してね。すまなかった」

「…ああ、昼間のことですね。別にボクは気にしていませんから」

「そうか、それならよかった」

「それでは、職員室に戻りましょう」

 と、踵を返そうとする園田を山下が制した。

「待ちたまえ。『まずは』と言っただろう? 本題はこれからだよ」

「え?」

「園田先生に一つ聞きたい。教員とはなにかね?」

「どうしたんですか、藪から棒に」

「ぜひ、君の口から教員とはどういうものなのかを聞いてみたいんだ」

「唐突な話ですね」

 園田は苦笑を浮かべたが、山下が終始真顔を貫いていると分かると小さく咳払いをして口を開いた。

「ボクたち教員は常に生徒に寄り添い、彼らが無事に社会生活を過ごしていける上で必要な知識を教え説いてあげるのが仕事です」

「その通り。我々教師は生徒一人一人が真っ当な人間社会を送られるよう、この高校という空間で必死に教育を施していくのが仕事だ。本格的な社会人になるまでの過程で得なければならない知識を身に付けさせ、それを将来的に役立たせる役割を担っている」

 と、山下は窓辺に近寄り夜の校庭を眺めた。

 園田は両手を前に組みながら身動き一つせず聞いていた。

 そんな二人の様子を、喜美子は物音を立てないよう努めながらじっくりと観察した。

「私は日頃からそれを自分に言い聞かせながら教鞭を執っている。なぜなら仕事である以上に、それが私たちの指名だからだ。しかし、そういった私たちの信念も知らずワガママを言ったり反発したりする生徒たちが大勢いる」

「それも教育者が必ず直面する試練だとボクは思っています」

「その生徒に出くわしたとき、君ならどうする?」

「どうする…」

 園田はしばらく考え込むようにうなってから口を開いた。

「反抗心を抱く生徒の特徴は精神的に追い込まれやすい性格です。それから、あまり多くはありませんが攻撃的な手段で対抗する生徒もいます。しかし、例え暴力行為に及ばれたとしても、ボクは穏便に彼らに寄り添い、よき相談相手となって気持ちを改めさせたいと思っています」

「穏便にというと、今日の中岡のときのようにかね?」

 唐突に自分の名前が飛び出て喜美子はギョッとした。

「そうです。人間が同じ過ちを繰り返すのには必ず理由があるとボクは思っています。中岡サンもきっとその一人でしょう。あの子は無闇に教員を困らせて面白味を覚えるようなことは決してしない。彼女が授業中にスマホを何度も鳴らせて山下先生を困らせてしまったのも、恐らくボクたちが知らない彼女なりの事情が潜んでいるからだと思っています。個人の都合を尊重する上でも、ボクは優しく諭してあげるのが理想的な教員の姿だと思っています」

「それは生徒たち全員が対象でもかね?」

「はい」

「なるほど」

 と、山下は何度も頷いてみせた。

「ご理解頂けて嬉しいです」

「よく分かったよ、園田先生。君がいかに教育者として力不足かということがね」

 園田の表情から笑みが消えた。

「ハッキリ言わせてもらおう。君が今言ったのは完全な理想論だ」

「理想論、ですって?」

「そうだ。私は何度も中岡のスマホの音で授業を妨害された。が、あの子は根が純粋だから邪心を持っていないとは私も信じている。その点については君と同意見だよ。しかし、ほかの生徒たちもそうだろうか? それはあり得ん。個人の事情など関係なく、完璧な悪意を持って授業を妨害する連中も確実にいる。そんな相手にも、君は今主張したみたいに優しさ一徹で接するつもりなのか?」

「ええ、それが教員として相応しーー」

「くないんだよ、園田先生。そんな調子で構えていればますますヤンチャな生徒は図に乗って、それこそ我々は教員としての立場を失ってしまうかもしれないんだぞ」

「それじゃあ、山下先生は生徒たちを徹底的にシゴいて、精神的にも肉体的にも追い詰めるのが的確なやり方だとおっしゃるのですか?」

 と、半ば園田が語調を強めて言い返した。

 隠れながら二人のやり取りを聞いていた喜美子の鼓動が徐々に激しさを増していた。なんとか自分の存在をバレないよう努めているだけでも神経を削られているのに、その最中に突然二人の教員が、それも月光のみで照らされた薄暗い教室で言い争いを発展させたからだ。

 しかも、それだけではなかった。

 園田の語調から、普段の彼からは想像の付かないトゲが感知されたからだ。喜美子の記憶が正しければ、今目の前にいる園田は自分が知る園田先生ではなかった。

 かすかにイヤな予感がした喜美子は自分を落ち着かせようと両手を握り締めたが、そんな心理状態の彼女がいることも知らず山下と園田は口論を続けていた。

「人聞きの悪い言い方をするんじゃない。ときには手厳しく接するのも必要だというのを私は言いたいだけだ」

「常に優しさをモットーにしているボクのやり方は間違っていると言うのですか?」

「間違ってはいない。だが、場合によっては間違っている」

「よく分かりませんが」

「単純な話だよ。穏やかに諭して理解を示す生徒であれば君のやり方は正しい。が、一方で優しさに付け込んで調子に乗り、気随気儘に教員を困らせる生徒相手には生ぬるい選択だと言いたいんだ」

「いざとなったら暴力行為も辞さないと?」

「誰が暴力を正当化しろと言った? バカも休み休み言いなさい」

 と、山下が呆れ顔で言った。

 喜美子の目に、月光に照らされた園田の表情が一瞬歪んだように見えた。

 不穏な空気がしばらく流れた後、山下が髪に手をやりながら小さく吐息した。

「ともかくだ、私は君の教育指導には賛同しかねる」

「賛同もなにも、ボクの流儀でやるのなら一向に構わないと山下先生はおっしゃったじゃないですか」

「確かに言ったよ。だが、やはり教員を志した君のためにも助言しておくべきだと思い直したんだ。だが、もうその必要もないだろう。さきほどの君の態度を見てそう確信した」

「というと?」

「君は教育者に向いてないよ」

 得体の知れない薄気味悪さを孕んだ沈黙が流れた。

「ボクが生徒を導く先生に向いていない、と…?」

「キツイことをいうかもしれないが、そう思わざるを得ない。教育者というのは、なによりも感情論で物事を主張してはならないんだ。冷静沈着に生徒を諭す役割があるからね。だが、さっきの様子を見た限りだと君にはその感情を押し殺して論ずる冷静さがあるとは到底見受けられない。今は生徒たちにチヤホヤされているだろうが、いずれそれが仇となって彼らは君から離れてしまうだろう」

「………!」

「もっとも、これは私の意見だから教員を続けるかどうかは君が決めなさい。話は以上だ」

 山下がキッパリと言った。

 このとき、うっすらとした明かりに照らされた教室が闇に包まれた。

 月が雲に隠れたらしい。

「うわっ」

 ゴッという鈍い音と同時に悲鳴と思しき声が響いた。

 ドキッとした喜美子は反射的に顔を伏せた。

 悶えるようなうなり声が聞こえ、やがてなにかがドサッと倒れる音が震える喜美子の耳に聞こえた。

 教室の窓から徐々に光が射し込んだ。

 月が雲から顔を覗かせたのだ。

 喜美子は恐る恐る教壇から様子を窺った。

 オールバックの髪を無造作に乱れさせた園田澄彦が、片手に大きな花瓶を持っているのが見えた。教室の後ろに置かれていた物だ。

 大げさなほど両肩を上下に動かしながら荒い息遣いを立て、目の前に倒れている物体を見下ろしている。

 喜美子は教壇からグッと首を伸ばして、その正体を確かめた。

 うつ伏せで倒れている山下芳生の姿があった。すぐそばに、花瓶に活けられていた花と水がこぼれていた。

(園田先生が…山下先生を殺しちゃった…)

 喜美子は震えながら倒れている山下を見、そして園田を見た。

 いつもなら廊下で出くわした途端に胸が高鳴る園田の顔が、憎しみに歪んだおぞましい表情に豹変していた。

 喜美子はいつの間にか泣いていた。

 恐怖…、ひたすら込み上げる恐怖による涙だった。

 普段、優しい顔で接してくれるのが当たり前だと認識していた人物の豹変が、これほど恐怖心を煽るものなのか…と、喜美子は思い知らされずにはいられなかった。

 しばらくして、園田は息遣いを止めるとフーッと大きく息を吐いた。

 それから、満足そうな笑みを浮かべた。

(この人は危険な人だ)

 喜美子は確信した。

 喜美子の中で作られた心優しい園田先生の石像が、この瞬間跡形もなく粉々に砕け散った。

(逃げなきゃ…)

 喜美子は早くこの教室から抜け出したかったが、園田が相変わらず山下の死体のそばで佇立しているため、動こうにも動けなかった。

 喜美子は教壇に張り付くように隠れながら、園田が早く何処かへ行くのを祈った。

 振動で教壇も一緒に揺れそうなほど震えながら祈った。

 そのときだった。

 殺気漂う教室にて突然、場違いも甚だしい明るいメロディーががん高い音で鳴り響いた。

 喜美子の顔から血の気が失せた。

 メロディーは喜美子のスマホから流れていた。

 九時からやるテレビドラマ用のアラームだった。

 園田と山下の言い争いに神経を注いでいるうちに刻一刻と九時が迫っていることも、そしてアラームが鳴るようセッティングしていたこともすっかり忘れてしまっていたのだ。

 喜美子は慌ててアラームを止めた。が、当然遅かった。

「誰だ、そこにいるのは?」

 間もなくして咎めるような園田の声がした。

 観念した喜美子はおもむろに教壇の陰から立ち上がった。

 正体が喜美子と気付いた園田は驚いてから、慌てて手に持っている花瓶を後ろに隠した。

「中岡サンじゃないか。なんでここに…?」

 と、園田はぎこちない笑みを浮かべながら言った。

「園田先生、山下先生を…」

 喜美子が倒れている山下を見ながら震える声で言った。

 園田は困惑した様子で倒れている山下と喜美子を交互に見てから、すぐにフンッと鼻を鳴らした。

「そこにいたのなら一部始終聞いていたと思うけど、これは見解の相違によって招かれた不運な結果なんだよ。ボクと山下先生との間には教育方針に大きな食い違いがあった。山下先生は生徒たちをいびり倒すことが本来の教育者の役割だと言ったが、ボクは反対した。そんなやり方はこのご時世じゃご法度だ。…優しさだよ。優しさを全面的に引き出して接する人こそが教育者の鑑なんだ。全部聞いていた中岡サンなら分かってくれるだろう?」

 と、園田が笑みを浮かべながら一歩、二歩と近付いた。

 それに合わせ、喜美子が二、三歩後ずさった。

 途端に、園田の顔から笑みが消え、氷のような冷たい表情が生まれた。

「…そうか。君も結局、ボクの気持ちを分かってくれないらしい」

 園田が隠していた花瓶をおもむろに掲げた。

 白い表面に山下の赤い血が付着していた。

「や、やめて下さい…」

 喜美子がか細い声で言った。

 恐ろしさのあまり、喜美子は動けなくなってしまった。

「分からない子にはオシオキだよ」

 片目は細く、もう片目を大きく見開きながら園田は口角を上げた。

 狂気を宿した園田が喜美子に迫ろうとした。

 が、突然バランスを崩した園田がたたらを踏んで学生机の一つに倒れた。

 ゴッと頭を強打した園田はぐったりしたまま動かなくなった。

 園田の足首を山下がガッチリと掴んでいた。

「今のうちに逃げろ…」

 虫の息で山下が言った。

「や、山下先生は?」

「構わんから、早く行けっ」

 山下が精一杯の気力を振り絞って言った。

 喜美子は唇を噛みしめると、言われた通り教室を飛び出した。

 恐怖とショックで走ろうと思っても思い通りに足が動かず、喜美子は不安定な足取りで廊下を走った。

 教室の方から奇声が聞こえ、ガッシャーンッというなにかが激しく割れたような音が聞こえた。

 喜美子は顔を真っ青にしながら階段を降りた。

 三階と二階の間の踊り場を越えたとき、喜美子は足を踏み外し階段を転がり落ちた。

 足首に激痛が走った。捻挫したらしい。

 痛みで悶えている喜美子の耳に、真上の階を歩く足音が聞こえた。

 教室を出た園田が、ゆっくりとだが着実に廊下を進み、二階の喜美子に迫りつつあった。

 喜美子は痛む足を無理に動かし、すぐそばの部屋へ這うように移動した。

 扉を開け、音を立てないように閉める。

 鼻孔を突いた絵の具の匂いで喜美子はようやくここが美術部の部室だと気付いた。

 昼間に薫と談笑していた作業台の場所を思い出すと、足を引きずりながら移動し下に隠れた。

 コツッコツッコツッ、………。

 足音が止み、部室の扉が開いた。

 喜美子は両目を閉じ、唇もグッと閉じた。

「喜美子チャン、かくれんぼかい? それじゃあ、ボクが鬼だね」

 子どもをあやすときのような口調で園田が言った。

 喜美子は体を丸めながら必死に息を殺した。

 園田が持っていた花瓶で近くの作業台をコンコンと叩いた。口の部分以外完全に砕けてしまった花瓶から、陶器の欠片がパラパラと落ちていた。

 音がするたびに喜美子はビクッビクッと身震いした。

 しばらく室内を歩き回った後、園田は部室を出て忌々しそうに扉を閉めた。

 喜美子はホッと胸を撫で下ろした。

 しかし、またいつ園田がここへ戻って来るか分からないので、喜美子は警察に連絡することにした。

 喜美子はスマホを開いた。

 時刻は午後九時十分を示していた。


      ♤♡♢♧


 同時刻、久保田家の電話が鳴った。

「電話鳴ってるよ」

 と、ソファでだらしなく寝転びながら薫が言った。

「電話近いんだからアンタ出てよね」

 と、母親の敏子がプンスカと怒りながら電話まで小走りした。

 受話器を受け取った敏子が二回ほど相槌を打ってから、

「アンタによ」

 と、薫に言った。

 薫は面倒臭そうにしながらもピョンッとソファから跳ね起きると、母親から受話器を受け取った。

「はい、もしもし。…なになに、どうしたの? …そりゃそうでしょ、スマホがあるのにわざわざ家の電話に掛けてくるなんて。…えっ、私のスマホ? …そういえば、帰ってから全然触ってなかったなあ。…うん。………その可能性高いかも。…うん、分かった。ありがとうね」

 薫は最後に礼を言って受話器を戻した。

「友達?」

 敏子が聞くと薫は「そう」と言った。

「なんだったの?」

「メール送ったのに全然返信が来ないからどうしたのかって」

「確認してないの」

「それなんだけど、私のスマホどっかに失くしたみたい」

「『みたい』って…。どうしてそう呑気でいられるの?」

「だって、私あんまりスマホ触らないし」

「そういう問題じゃないのよ。今はね、スマホだけで簡単に個人情報が割り出されちゃう危険なご時世なのよ。アンタのその呑気な性格が原因で、私たち一家が危なくなることもあり得るんですからね」

「大げさだなあ、お母さんは」

「ヘラヘラ笑わないの。何処に忘れたか心当たりないの?」

「全然」

「念のため、自分のスマホに電話をかけてみたら? もしかしたら家の何処かにあるかもしれないでしょう」

「それならさすがに気付くと思うけど…」

 と、薫は思いつつも敏子の提案に従った。

 家の電話を使い、自身のスマホの電話番号に掛けてみる。

 コール音が鳴る間、薫と敏子は静かに耳を傾けたが、家の中から音が聞こえる気配は全く無かった。

「ほら、やっぱり家には無いってば」

 と、薫は受話器を戻しながら言った。

「最後に触った場所は何処?」

 敏子の問いに薫は「学校」と即答した。

「教室?」

「…違うなあ」

「放課後は持ってたの?」

「確か持ってた。…アッ」

「え、なに?」

「…あー、そうだ、思い出した。やっぱり学校だ。机の引き出しに忘れてきちゃった」

「やっぱり教室じゃないのよ」

「違うって。机ってのは作業台のこと」

「作業台ってなんの作業の?」

「もちろん、部活に決まってるでしょ」

 と、薫は当然そうに言った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ