苦労すること
健康診断などで、血液検査の為に採血をするに当たって、血管が分かり易い人とそうでない人がいる。私はそうでない方だ。全く分からないという訳ではなく、詳しく言うと左腕に細い血管が一本、右腕にはやや太いものが一本かろうじて見えている。家族も皆血管は細い方で、それぞれ健康診断などでは、要らない苦労を強いられている。
苦労するのは血管の持ち主だけではない。見えにくい血管に注射針を刺さなければならない、看護師の方が大変だろう。私の場合実際のところ、そんなに簡単に採血はできない。温めたお手拭きを血管に当ててみたり、パチパチと叩いてみたり、時には腕を振ってみてと言われたりする。そんな工夫をした結果、これまでは何とか無事に採血できてきた。
ところが、そんな血管の持ち主の私だが、これまでに何度も献血をしてきた。その際に間違っても、温めたり叩いたり腕を振ることなどなかった。献血の場での看護師は、扱いにくい私の血管をものともせず、いとも簡単に仕事を済ませるのだ。献血に使われる注射針は、血液検査の採血に使われるものより遥かに太いのに。いつも感心するのだが、献血に携わる看護師は、血管注射の精鋭ばかりに違いない。まず針が血管に刺さらなければ始まらない仕事なので、絶対にそうだと思っている。
最近また健康診断があり、心電図やレントゲンの後で採血ということになった。その日の看護師さんは、四十代くらいで新人ではないが、ベテランでもなさそうだった。いざ、採血となった時に、
「血管はどんな感じですか?」
と、訊かれた。それを聞いてちょっと不安になった。というのは、慣れている看護師なら、本人が目の前に居るのだからどんな血管なのかは、訊くよりも見て確かめると思うのだ。
他のどんな仕事でもそんな気がするが、その仕事に慣れれば慣れるほど、余計なことを言わなくなる。人にもよるのだが、慣れない間はつい何でもないことを口走ってみたり、或いは自信のなさが口をついて出ることもあるように感じる。それが、次第に慣れるにつれて、必要な事以外は口にしなくなる。
血管がどうかと訊かれた私は、
「採血ができそうなのは、一カ所しかないのですが…」
と、答えた。
「一カ所しか駄目ですか?」
と、言うので
「多分、駄目だと思います」
と言って、頼りの一カ所がある右腕を出して見せた。いつもはもう少し青い色が見えているのに、その日はかすかにしか見えなかった。
「いつもより調子が悪いみたいです」
と言うと、看護師さんは手強さを感じたのか、温めたお手拭きを持ってきて、その一本しかない血管に当てると、私に押さえておくようにと言った。
暫くして、いざ針を刺す段になった。刺したのはよいが、血管に入らない。そのまま血管を探して針を動かすのだが、針に血液が全く入ってこない。針の動きによっては痛みを感じることもあった。
「痛くないですか?」
と、訊かれたので、
「ちょっと痛いです」
と答えると、これでは無理だと諦めたようだった。やれやれとホッとしたのだが、だからといって採血をしなくて済む訳ではないので、看護師さんも困った顔をしたが、私も困っていた。
「左はどうですか?」
と言うので、左腕を出して見せると、細い血管を見つけて、
「細いですね」
と言い、細い注射針を持って来ると言って、奥の部屋へ行った。
細いらしい注射針を持ってすぐに戻って来ると、腕の消毒を始めた。消毒をしながら、ふと私の手の甲を見て、
「ここには何本も血管が見えてますね」
と言う。看護師さんに、手の甲の血管に目を付けられたのは、初めてだったのでびっくりしたが、言われてみれば、手の甲には左右どちらも三本ほどの血管が、はっきりと見えている。看護師さんは尚も消毒を続けながら、
「ここなら簡単そうですね」
などと言う。消毒の手を動かしながら、チラチラと手の甲を見ている様子は、そちらでさせて欲しいと言っている。
これまでに血管が出にくい人の話で、手の甲で採血したという話は聞いたことがあった。しかも、針を刺す時に腕よりも痛いとも…。血管が分かりにくいことは自覚していたが、まさか自分がそんな立場になるとは思わなかった。腕よりも痛いって、どれくらい痛いのだろうなどと心配になってくる。
でも、よく考えてみると、左腕の細い血管でも上手くいくとは限らない。それどころか、当の看護師さんはあまり自信がなさそうだ。そうなると、最後の手段として手の甲でということになるだろう。すると、三回も針を刺すことになる。しかし、ここで決断すれば、二回で済むのだ。そう考えたので、手の甲の血管で採ってもらうことにした。それを告げると、
「良いですか?」
と言いながら、看護師さんも内心ホッとした様子で、すぐに手の甲の消毒を始めた。こちらの心配をよそに、それまでと違って彼女の動きが、テキパキしているように感じられた。
多分細い方の針だったのだろうが、丸見えの血管に刺すのは簡単だった。初めてのことだったが、痛さは腕に刺す時とそれほど変わらなかった。でも、採血後に血管の周りが内出血のような色になった。
「これだと献血は難しいですね?」
肩の荷が下りたせいか、笑顔になった看護師さんの言葉に、一瞬何と返事をしようか迷ったが、
「献血したことはあるんですけど、その時はたまたま上手くいったんですよね」
そう答えておいた。