坂の上のダンゴムシ
今朝目が覚めて、いつも通り学校へ向かう支度をしている時、唐突に決めた。
ここ数週間、登校前に制服へ着替えている時、朝食後に歯を磨いている時、玄関で靴を履いている時、最寄り駅まで歩く時、電車の中で揺られている時、いつも頭のどこかで考えていたことだった。
そして今日、それを実行に移す。あの教室に足を運ぶ気力が、今の僕にはない。
いつもと同じ時間に最寄り駅につくと、普段とは反対方向の電車に乗り、ターミナル駅で乗り換える。新幹線を使うお金もないので、ローカル線で行けるところまで。切符売り場にある路線図を眺め、一番左上の駅に行くことにした。到着時刻は調べればすぐ分かるのだろうが、そんなことどうでもいい。
――どれだけ時間がかかろうと関係ない
――どこか遠く、僕のことを誰も知らないところへ行こう
通学定期のICカードに料金をチャージして移動することも可能だが、切符を買うことにした。今日という日を、何か形に残せるものが欲しかった。思いのほか値段が高いことに嘆きつつも、目的地までの切符を購入する。
遠くへ行って、一体何をしようというのだろう。自分でも分からない。親や学校に迷惑がかかってしまうかもしれない、と少し前の自分なら考えていたのだろうか。今は微塵もそう思わない。
通勤ラッシュの波に揉まれながら切符を改札に通す。切符を使うのは去年の修学旅行以来だ。当時はまさか、中学での修学旅行と同じ京都へ行くことになるとは思わなかったが。
思えば、中学の時も高校の時も、京都旅行は優斗と同じグループで観光していた。小学五年生から高校二年生の今に至るまで、ずっと同じクラスの彼とは、世間でいうところの腐れ縁なのだろう。
小学校の頃からサッカー部のエースだった優斗は、中学、高校もサッカー部でその青春を謳歌していた。大会の成績としては、いずれも地区大会の優勝争いにも食い込めずにいるが、高校二年生となった今年の春に、期待の新入生たちが入部してくれたと楽しそうに話していた。
優斗はいつだってクラスや部活の中心メンバーだった。常に明るい彼の人柄も理由としてあるが、何事にも懸命に取り組む彼の姿勢が人望を集めているのだろう。
それに比べて僕は――
*
小学校の頃は授業でしかスポーツなどを経験していなかった僕は、高校受験のために何かしら部活動に所属するべきだという親のいいつけを守り、中学時代は、当時部員数三十名程度の硬式テニス部に所属していた。運動部の中では比較的緩い部活であったが、炎天下での合宿や筋トレなど、「頑張った」といえる程度の活動はしてきたつもりだ。でもやはり、親に言われて入っただけで、根本的にはやる気のない僕を煙たがる人間がいた。ある日、僕を見かねた部長がラリーの練習中に、コートの反対側から怒鳴ってきたのだった。
――やる気ないなら帰れよ!
――本気でやってるやつらの邪魔すんな!
中学最後の大会を直前に控えた練習の時だった。きっとそれまでも部長を含め、部活に真面目に取り組んでいた人たちにとって、僕は邪魔者の中の一人でしかなかったのだろう。部長の言葉を聞いて、僕以外の邪魔者たちは、慌てたように大きな掛け声を出したり、きびきびとボールを集め、熱心な振りをし始める。
僕を含め大半の人間は、普段は見つからないように物陰に隠れている。しかし、誰かに見つかりそうになると、みんな慌てて別の場所に隠れてその場をやり過ごす。特に『学校』という場所は、一度見つかってしまえば取り返しがつかないことも多く、誰もが必死で、当たり障りのないように生きているように見えた。
僕もそうすれば良かったのだろうか、今でも振り返る時がある。でも当時の自分は、テニスコートを支配していた緊迫感をかき分けながら、その場から去ることを選んだ。僕にとって、それがテニス部としての最後の練習だった。
*
通勤ラッシュの影響を受けているのは、オフィス街へ向かう反対側の電車であったため、僕が乗る電車は比較的空いていた。中学のクラスメイトと何度か来たことのあるボーリング場を窓の外に眺めながら、四両目の端っこの席に座る。電車が発車してしまえば、後は終点までこのまま窓の外を眺めるだけだ。
スマホの電源は切ってある。親や学校、親友の優斗も含め、自分の知っている世界との繋がりを断ちたかった。
始業時間にはまだ早いが、おそらく優斗はすでに学校にいて、先輩や期待の後輩たちと部活の朝練をしているだろう。授業開始ギリギリになって教室に入ってくる汗だくの優斗を、クラスメイトが茶化しながら僕たちのクラスの一限目は始まる。部活動で忙しいため各行事でのクラスへの貢献度は低いものの、優斗は高校生になってもクラスの中心的存在であった。こうも太陽のような人間を親友に持つと、客観的に見て自分はなぜ彼の親友なのかと疑問に思えてくる。
*
僕には、これまで胸を張って「頑張った」といえることが何もない。
大学へ進学しなかったことをひどく後悔していた両親は、当時小学生だった僕に中学受験をさせようと塾に通わせ始める。親や塾の先生に言われるがまま、問題を解くだけの機械になった僕の受験結果は惨敗で、当初の予定通り、僕は優斗らと同じ地元の公立中学校に通うことになる。
合格発表の日、掲示板の前で僕の横に立っていた男の子が、急に泣き出したのをよく覚えている。彼も僕と同じように不合格だったのだろう、両親に肩を優しくたたかれながら、慰めの言葉をかけられていた。
――残念だったな。でも、よく頑張った。
――また高校受験で頑張ればいいさ。
僕も同じ言葉を両親にかけられた。――よく頑張った。――次また頑張ればいい。
隣の彼とは違い、僕は両親の言葉にただ小さく頷く。しかしその時の僕の意識は、両親の言葉よりも、隣の彼に対して向いていた。
――なぜ彼はそんなに悲しいんでいるのだろう
――泣くほどのことなのだろうか
高校生となったら今なら、あの涙の理由を推し量ることはできる。
きっと彼は、親の期待に応えようと、精いっぱい勉強をしていたのだろう。頑張っていたのだろう。それに応えることができなかったことが、さぞ悔しかったのだろう。悲しかったのだろう。
当時の僕は、目の前のことに彼ほど真摯に向き合っていなかったのかもしれない。だからこそ、あの時何も感じなかったのだろう。
時は流れ中学生最後の年、決して勉強ができないわけではないが、さほど優秀でもない僕は、テニス部を引退してからまた受験というものに向き合うことになる。(途中で投げ出してしまったテニス部だったが、一応最後の大会まで名簿登録だけはされていたため、中退扱いにはなっていなかった。ちゃんと三年目まで続けはしたのだから、受験に向けて汚点を残すべきではないという顧問の判断である。)
内申点がそれなりに良かった僕は、優斗と同じ公立高校の推薦入試を受けることにした。決めた当時は、シンプルに合格のチャンスが一回増やせる、といった程度にしか考えていなかったが、筆記や面接練習などそれなりに対策をしたうえで試験に臨んだ。
手ごたえは――あったような、なかったような……。
推薦入試後は、内申点が足りず推薦入試は受けていなかった優斗と一緒に、今度は一般入試へ向けて勉強していた。そんな中、推薦入試の結果が発表されたのだが――
「合格だったわ」
「はい?」
僕があまりにも平然と報告したので、優斗は状況が呑み込めていないようだった。僕自身、受験した高校の掲示板で自分の番号を見つけた時は、にわかに信じがたかった。
「え、あ、受かってたの?」
「……受かってた」
「すげーじゃん! てかなんだよそのテンション、もっと喜べよ!」
「あーうん、なんか、実感ないというか……」
実感の有無に関わらず、僕は一足早く受験戦争というものから離脱することができた。相手が優斗だったからよかったものの、今思えば、これから一般入試を控えている学生の前で、報告の仕方はもう少し考えるべきだった。普段あまり悪口を言わない優斗が、珍しく毒づいていた。
「てめぇは一回地獄を見やがれ! その鼻につく態度も少しは直るだろ」
優斗に言われて少し反省した僕は、親に対してはいくらか嬉しそうな表情で合格を報告したのだった。親もまさか合格とは思っていなかったらしく、母親は我が家の食卓では普段絶対に出てこない寿司をふるまってくれたし、父親は仕事帰りに高級店のケーキを買ってきてくれた。
相変わらず実感は湧いていなかったが、両親の喜ぶ顔を見て、自分がしたことに少しは意味があったのだと思えた。
その後、一般入試組の合格発表日に、結果を確認し戻ってきた生徒たちが教室に集い、結果に関わらず互いの努力を讃えあっていた。中には――まるで中学受験で見たあの子のように――悔しさのあまり泣いている生徒もおり、それを数人の生徒が慰めていた。
それを端から眺めていた僕は、何だか、取り残されたような感覚に襲われる。
まるで「空っぽ」が僕の心の中を満たし、その間をみんなの声が通り抜けていくような感覚。みんなと同じ教室にいるはずなのに、みんなは僕と違う世界にいて、僕はそれをモニター越しに眺めているだけ。
中学受験の頃とは違い、良い結果に終わったにも関わらず、僕は相変わらず空っぽだ。
一体どうすれば、僕はこの「空っぽ」を満たせるのだろう――
*
寝てしまっていたようだ。
すでに太陽は高いところまで昇り、終点まであと数駅の電車の中は、冷房が入っているはずなのに少しばかり暑くなっている。いつの間にか自分の他には数名しか乗客がいない。自分が住む場所からすでに県境を二つ超えており、周りの景色も都会のビル群から一転して、どこまでも続く田んぼとそこに生える山々に変わっていた。小さな集落や、畦道にいくつか街灯はあるが、夜になればきっと真っ暗だろう。
手元の時計を見ると、十一時を回っていた。三時間ほど電車に乗っていたことになる。終着駅が近づいてくると電車は街中を通るようになり、商店街にかかる踏切を通り過ぎる。思ったより人通りはあるがほとんどは年配の方で、平日のこの時間にうろついている学生はおそらく自分くらいだ。
駅に到着し、窓口にいた駅員にお願いして切符を手元に残したまま改札を出た。田舎の方にある改札もない無人駅だと、切符を窓口においてそのまま外に出ることができる。そういった駅を勝手に想像していたが、この駅にはちゃんと改札もあるし駅員もいる。おまけにここ数年で改修されたのか、戦時中の木造校舎を思わせる構造の駅舎は思いのほかキレイだった。改札を出てすぐのところに鏡が設置されていたため、学校をさぼってあてもなく彷徨う猫背な男子学生を撮影しておくことにした。
そのまま駅周辺の写真を撮る。瓦で覆われた一階建て駅舎の向こう側には、地元では絶対に見られない広大な青空が広がっていた。カメラ初心者は空を撮りがちだと誰かが言っていたが、きれいな青空はそれだけでいい画になるのだから、別に悪い事ではないだろう。
満足した僕はロータリーの横断歩道を渡り、商店街と思われる通りをゆっくりと歩いた。日によってはまだ長袖が必要な季節だが、今日はいつもより日差しが強い。昼過ぎには結構な暑さになりそうだが、今は風も吹いているためとても心地いい気温だ。
駅の様子から想像していたよりも、人通りはずっと少なかった。商店街ではあるのだろうが、開店している店舗も多くない。廃墟と思しき建物も複数見られる。
――とりあえず、行けるところまで行ってみるか
どこまでも続く青い空の下、来たこともない場所で、地図に頼ることなく歩き始める。
普段サボりなど絶対しない生徒が、一限目の終わりになっても登校してこないため、担任教師は父兄に連絡を取っていた。どうやらいつもと同じ時間に自宅は出ているとのことで、何か事故に巻き込まれている可能性もゼロではない。
念のため生徒たちに何か連絡を受けていないか確認を取るが、全員首を横に振った。
「優斗、お前も何も聞いてないのか」
「昨日からなんも連絡ないっすよ。 電話も繋がんないっす」
そうか、と言って職員室に担任が戻っていく。それを確認した後、教室後方にいた数名の男子生徒が口を開く。
「鈴木の言い方きつかったから拗ねちゃったのかな?」
「まぁあの空気のあと学校来るのはちょっと気まずいけど、無断欠席までするかね」
男子生徒の会話を聞いた優斗は大きなため息をつき、再度友人へ電話をかけるのだった。
*
事の発端は、昨日のクラス会議である。
議題は、文化祭でのクラスの出し物として決まった演劇についてだ。高校生の文化祭で行う演劇なんて、既存の脚本を舞台用に焼き直したものがほとんどだろうから、当然今回もそうなるのだと想像していた。しかし、オリジナルの脚本を作ったほうが面白いという声が複数あがり、数人の生徒がそれぞれ大まかなあらすじを作成することになった。その中から選ばれた作品にさらに肉付けし、ようやく脚本が完成したところで次は配役を決める必要があったのだ。
くじ引きで決まってしまった文化祭委員を務める不運な僕は、無理を言って放課後クラスメイトたちに集まってもらっていた。もう一人の文化祭委員である生真面目な女子生徒に、今後のスケジュール的にも、この日のうちに配役を決定しておく必要があることを強く訴えられたからだ。脚本の作成に思いのほか時間がとられ、文化祭まであまり時間がないのは事実であった。
基本的に、文化祭の準備はホームルームの時間や放課後を利用して行われるため、例外的に集められた生徒たちは不満がっており、僕としても一刻も早く終わらせて帰りたかった。この空気の会議をいつまでも仕切っていたら、そのうち窒息死してしまう。しかし、事は僕の願望通りには運べず、すぐに決まった主人公とヒロイン――ちなみに主人公は優斗で即決だった――に対して、その親友や家族の配役がなかなか決まらない。
「誰でもいいから早く決めてくれない? 部活行きたいんだけど」
会議が停滞してどんよりとした空気が流れているところに、教室後方を陣取っていたバスケ部員の一人である、鈴木が声をあげた。教室は一瞬にして、気まずい空気に包まれてしまう。
そもそも、文化祭での演劇なんて、前のめりになる生徒の方が少ない。一度しかない高校生活だからたくさんの思い出を残したい、ましてや演劇で何か役を演じたい、なんて考えているのはごく一部の生徒ではないだろうか。部活動や課外活動で青春を謳歌している生徒たちだって、別に思い出を残そうとしてそうしているわけじゃない。
会議をゴールに近づけるため、苦し紛れではあったが、僕は慌てて思っていたことを口にする。
「えっと、じゃあこの主人公の親とか、人柄的に高松がいいんじゃないかって勝手に思ってたんだけど……」
「……えっ、ぼく?」
会議の内容などろくに聞かず英単語帳を開いていた高松が、不意打ちをくらって不満げに声を上げる。勤勉な彼はいかにも堅物という印象で、役どころとしては主人公の父にぴったりだった。同じことを思っていたのか、優斗が続いてくれる。
「いいんじゃねぇの? 将来の高松っぽいぞ、このお父さん」
「それって褒めてないよね?」
不満げな高松だが、クラスの何人かは納得した表情をしてくすくす笑っている。少しだけ会議の空気が良くなった気がした。このままの勢いでゴールテープを切ってしまいたい。
「あと、主人公の母親は――」
そんなこんなで、演劇の配役は鈴木の言葉を受けて急速に進み、主人公の親友を残すのみとなった。主人公の親友は、常に現実的なことを言って空気を悪くする節があるが、実は友達想いの不良、という役どころだ。
「この役なんだけど――」
全員が心のどこかで考えていたことだが、誰も口にしなかったことを僕は口にした。今思えば、ちょっと流れが良くなったからといって迂闊な発言だったと後悔している。
「鈴木……どうかな?」
一瞬、教室の空気が凍り付く。会議が終わりそうになったのを見計らって、バッグを背負っていつでも教室を出る準備をしていた鈴木に、僕が語り掛けたからだ。
「……は? いきなり何言ってんの?」
どういった役なのかを本人も理解しているのだろう、鈴木が鬼のような形相でこちらを睨みつける。
劇の脚本はクラスメイトが作成しただけあって、何となくクラスの誰が演じるのかを想定したようなキャラクターたちが登場する。おそらく――こればかりは確信に近い推測だが――脚本を読んだクラスメイトたちも、この不良は鈴木が適任であると考えていたのではないだろうか。
「勝手に決めんなよ。 部活で劇の練習なんかまともに参加できねぇんだけど?」
「まぁちょっと大変かもしれないけど……でも、部活も毎日なわけじゃないっしょ? 登場シーンも主役ほど多くはないから、部活ない日に練習すれば何とかなったりしないかなー、とか思ったり……」
鈴木の圧におされ、僕はまた苦し紛れに、鈴木が親友役でも問題ない言い訳を並べ立てる。この会議のゴールとも言える鈴木の回答を、クラス全員が固唾をのんで見守っている。校庭をランニングしているのであろう野球部の声が、だんだん遠ざかっていくのが聞こえる。教室の窓から、ドアから、たくさん雑音は入ってくるのに、今この教室はとても静かだ。
しばしの沈黙ののち、鈴木が口を開く。
「めんどくさ……! 勝手にやってろ」
大きな舌打ちし吐き捨てるように言った後、鈴木は荷物を持って教室を出て行った。残りのバスケ部員も、気まずそうな顔をしながら慌ててそれについていく。
――やってしまった
鈴木が出て行った後の教室に充満する、あーあ、という空気。それを全部呑み込んでも足りないくらいの真っ黒い渦のようなものが僕の心の中を支配する。
「まぁじゃあとりあえず今日はここまでってことで」
もう一人の文化祭委員であるメガネをかけた女子生徒が強引に会議を終わらせる。それを聞いたクラスメイトは一斉に帰り支度を始めた。
――やっと終わったよー
――次のホームルームの時間で決められたんじゃない?
――遅刻の理由部長に説明するのめんどくさいなー
鈴木が立ち去り緊張の糸が解けたのか、ためていた不満を一斉に吐き出すクラスメイトたち。
「まぁ鈴木の件は一旦置いといて、配役もほぼ決まったことだし、練習の日程組んじゃおっか!」
僕に語り掛けているのか独り言なのか分からないが、もう一人の文化祭委員がそう言った。どうしてそんなすべてがうまくいったかのような口ぶりで話せるのだろうか。散々損な役回りを押し付けておいて、自分はたった一言、会議を締めくくっただけなのに、さもクラスの救世主じゃないか。
もとを辿れば文化祭委員に選ばれたのだって、誰も立候補者がいないからといってくじ引きで決めると言い出した担任がいけないのだ。クラスメイトたちは文化祭に対してやる気がないのかと思えば、脚本はオリジナルにするのが面白そうとか言って勝手に自作し始める。それだけやる気があるのなら、文化祭委員なんて代わってほしい。その脚本作成の期間が延びたおかげで、無理やり今日の会議が設定されていることを分かっているのだろうか。そもそもこの会議の招集だって、スケジュールがまずいと言い出したもう一人の文化祭委員がすればよかったんだ。危機感を僕に煽るだけ煽って、クラス全員のヘイトを買うような役回りは押し付けて。不満げなクラスメイトに囲まれた苦しい会議でも、なんとか終わらせようと頑張った結果待っていたのは、鈴木からの睨みと暴言、そして教室を包む重苦しい空気。どうしてこんな目にあわなければいけないのだろう――。
不満を言い出せばキリがない。
僕の中に渦巻く感情など、彼女には到底考え及ばないことなのだろう。わくわくした顔で役者たちの部活動の日程から、今後の演劇の練習日程を組み始めている。
鈴木の言葉が頭の中でこだまする。
――めんどくさ!
どの口が言うんだ。こっちだって好きでこんなことやってるわけじゃ――
何かがポキリと折れる音がした。聞いたことのある音だ。
「お疲れ! ひとまずは一件落着か?」
気を遣った優斗が声をかけてくれた。しかし、その気遣いを受け取れるだけの余裕が、僕にはなかった。
「そうだね」
それだけ言って、僕は荷物を鞄につめて下校した。
あの時、優斗はどんな顔をしていたのだろう。
その夜、優斗から電話がかかってきていたようだったが、ベッドで横になった僕は、自然と眠りにつくまで、ただ天井を眺めていた。
*
――あっついな……
さすがに歩き疲れてきた。午前中は過ごしやすいと思っていたが、流石に気温も上がってきて、制服が汗でびしょびしょになっている。どこかで休憩するか。
時計を見ると十三時過ぎ、二時間弱ほど歩き続けていたことになる。距離としては大したことないのだろうが、飲食店やスポーツ雑貨店などがあった駅前とは変わり、今は道も細くなった住宅街に景色が変わっていた。
目の前に昔ながらの駄菓子屋が目につき、そこで飲み物を買うことにした。店番をしていたおばあさんは親切なことに、汗だくの僕を見てタオルを渡してくれた。
「この辺じゃ見ない顔だけど、学校はサボってきたのかい?」
「あぁ、まぁそんな感じです。 ちょっと日頃の疲れが出ちゃったというか」
身近な人よりも、もう二度と会うことがない人に対しての方が、正直なことを語れるものだ。
僕は駄菓子屋でラムネを購入すると、店の前に置いてあったベンチに座る。ラムネなんて開けるのはいつぶりだろうか。中学生の頃、よく振ったラムネを優斗が渡してきて開けさせられたことがあったな。べとべとになった手を洗いながら散々愚痴ったのを思い出す。
――うめぇ……!
キンキンに冷えたラムネを飲んで、思わず心の中で叫んでしまう。歩き疲れた今であれば、おそらくどんな飲料でもおいしく感じるのだろうが、知らない土地の知らないお店で買ったこのラムネは、何か特別な味がした。
――今頃みんな何してんだろ
唐突に普段自分の席から見ている教室の光景が浮かんだ。この時間だと、ちょうど五限目が始まろうとするくらいだ。普段サボりなどしない僕が登校しなかったことで、心配の声が上がっていたりするのだろうか。もしくは、僕がいないことなど誰も気にせず、いつも通りの日常が流れているのだろうか。少し寂しい気もしたが、もし他の誰かが無断で登校しなかったところで、自分も特に気にしないかもしれない。
僕は気づくとスマホの電源を入れていた。帰りの電車には何時までに乗ればいいのか、確認したくなったのだ。
電源が入るのを待っていると、ベンチの足元に両手じゃないと持てないくらいの石が転がっていることに気づく。何を思ったか――実際には何も考えていなかったのだが――半分以上飲みほしたラムネをベンチに置いて、その石を持ち上げてみる。いびつな形をした石の下には、小さな蟻の巣の入口があった。子供がいたずらでこの石を置いたのだろうか。蟻以外にもダンゴムシが一匹、巣の近くで丸くなっており、石の裏にも何匹かへばりついている。
見つかってしまったとばかりに、巣から出ていた蟻たちは慌てて散り散りになる。ただ一匹、危機が去るのを待っているのか、ダンゴムシは丸まったまま動かない。
外部から刺激を受けると、咄嗟に体を丸くし身を守る虫。子供の頃近くの公園で見つけた時は、一度丸くさせたあと、油断して防御態勢を解いて歩き出そうとするたびに、木の棒でつついてまた丸くさせて遊んでいた。
丸くなっている間、彼らはどこにも進めない。そこが坂道であれば、そのまま転がって行ってしまうだろうか。どこまでも、どこまでも――
丸くなったダンゴムシを眺めていると、電源の入ったスマホがポケットの中でブルっと震えた。案の定、いくつも不在着信が入っている。母親と父親と、登録のない番号はおそらく学校だろうか。あとは優斗からも午前中に何件か。
――はぁ……
大きなため息をつき、目の前のアスファルトに引かれた白線をぼんやりと眺める。
突然、スマホが振動し始める。優斗から再度電話が来たようだ。少し悩んだが、ラムネを一口飲んで覚悟を決める。
「――もしもし……?」
「――あ! 出た。 お前何してんの? もしかして今日の演劇の会議来ない?」
優斗が第一声から一番デリケートな部分に触れてくる。学校にすら行っていないのに、放課後の会議に参加するわけがないだろう。
「ごめん、次に学校行くのいつになるか分かんないから」
「はぁ? 引きこもりにでもなるの?」
「いや、そういうわけじゃなくて、今日はちょっと遠出してるんだけど」
「遠出って、会議終わったら今日こそはできたばっかのラーメン屋行こうと思ってたんだけど」
「……学校サボった日に学校近くのラーメン屋行かないでしょ」
「いや行くだろ。 俺はラーメンのついでに学校来てんだぞ」
「何アホなこと言ってんだよ……」
「学校サボったアホに言われたくねぇな!」
優斗は午前中の学校の様子を話してくれた。
僕が一限目からいないなんてことは珍しいので、担任がすぐ親に電話をかけていたらしい。優斗も先生に促され電話を何度もかけ、ようやく今繋がったとのこと。優斗自身は五限目の授業のため教室を移動している最中だった。
「じゃあ、とりあえず会議は勝手にこっちで進めとくよ。 気になってるだろうから一応報告しとくけど、鈴木も引き受けてくれるってさ」
「えっ、そうなんだ」
「あいつも別に、やらないとは言ってなかったからな」
教室を出て行った時の鈴木の表情が浮かぶ。役を引き受けてくれるような雰囲気にはとても見えなかったが。
「まぁそれはそれとして――」
少し言い渋るように優斗が間をおいた。
「昨日帰る時のお前、またあの日と同じ顔してたぞ」
どの日のことを言っているのかは容易に想像できた。僕自身、あの日と同じ気分だと、昨日帰宅途中に考えていたからだ。優斗の察しがいいのはもちろんだが、他人に見透かされるほどとは、よほど態度に出ていたのだろう。
「別に鈴木に文句言われた程度で拗ねんなよ。 尖ってるのがカッコいいとか勘違いしてるだけなんだからさぁ。 ちょっとダサいしな、あれ」
優斗が笑いながら言う。おそらく鈴木とも悪くない関係を優斗は築いているのだろう。もしかしたら最終的に鈴木を劇に出るよう説得したのは、優斗なのかもしれないと思った。
「あとはお前が参加してくれれば万事オッケーだったんだけど、結局今日来れないの?」
「そう……ねぇ」
「なんだよ、鈴木と会うの気まずい?」
「ってのもちょっとあるけど、なんか、もうしばらく学校もいいかなって」
「どゆこと? なんで?」
優斗の声の向こう側で、おそらく五限目開始の合図であろうチャイムが鳴っていた。優斗は気にも留めず僕を質問攻めにする。長く付き合ってきた優斗だが、これほど僕に対して踏み込んでくるのは今回が初めてかもしれない。色々正直に話すのも億劫だったので、適当な理由をつけてごまかす。実際のところ、自分でも今の感情をうまく表現する方法が分からなかった。
「なんか、ちょっと疲れちゃったかな、昨日の会議で。 脚本はもうできてるし、スケジュール考えるのは僕の担当じゃないし、しばらくは僕なしで会議できるんじゃない? やる気ない人間が会議にいても邪魔なだけだと思うし……」
優斗は黙ったまま、僕の話に耳を傾けてくれている。これまで優斗にだって話したことのない本音が、堰を切ったように溢れてくる。
「というより、今後の会議も参加するべきじゃないかも、僕は。 なんか、昔からそうなんだよ。 中学の部活でも、受験でもそうだった。 みんなみたいに必死になれてないなって……。 羨ましい、優斗たちみたいに必死になれる何かを持ってる人たちって。 部活でもクラスでもみんなを引っ張って、何に対しても全力で――」
取り留めのない話をしておいて、結局何を言いたいのだろうと急に我に返る。
「ごめん、関係ない話だったね……でも、とにかく、やっとやる気になってくれた鈴木とかにも申し訳ないし、しばらくは……」
ふーん――と、僕の拙い言い訳を聞き終えた優斗はつぶやいた。少し呆れたような、だが優しさのある声だった。駄々っ子のような僕の話に、優斗は誠実に応えてくれた。
「やる気がなきゃいけないとか、必死じゃなきゃいけないとか、そりゃその方がいいのは間違いないけど。 俺だって部活の朝練なんて行きたくねぇって思う日あるし、きっと先輩や後輩だってそういう日があるだろうし」
――実際サボってるやつもいるし、とため息まじりに呟く。
「でも、だからっていない方がいいとか、極論すぎ。 もしかして、テニス部やめた理由もそれ?」
優斗は、あえて今まで触れてこなかった部分に触れてきた。テニス部をやめたあの日、帰り支度をしているところに鉢合わせた優斗は、僕をみて何かがあったのだと察し、何も言わず僕を見送った。何があったかはテニス部員から後日聞いたのだろうが、優斗は気を遣ってその話題に触れてこなかったし、僕も優斗のその気遣いにこれまで甘えていた。
――そうだよ。
僕は心の中で呟く。
――サッカー部にだってやる気がない人間がいたら邪魔だろ? 今日の文化祭の会議だってそうだ。 頑張って何かを為そうとしている人間の進む道に、堂々と横たわっている人間がいたら邪魔じゃないか。 だからこそ、あれから僕はせめて寝そべるのをやめて、脇によけて道をあけたんだ。ちゃんと邪魔にならないように、道の脇で小さく縮こまっていたじゃないか。
「じゃあ――」
僕が何も答えずにいると、追い打ちをかけるように優斗が言う。
「お前、昨日クラスのみんなのこと、邪魔だって思ってたんだ」
急に胸のあたりが締め付けられる。深海に沈んだペットボトルのように、心臓がひしゃげているような錯覚に陥り、肘をついた両膝に頭が入りそうなくらい背中が縮こまる。
ああ、そうか――と唐突に悟った。
――昨日の僕は、あの日の部長だったんだ。
口にこそ出していないが、昨日僕がクラスメイトたちに向けていた感情は、テニス部の部長が僕に向けていた感情と同じものだったのではないだろうか。僕はクラスの皆を、邪魔者などと思っていたのだろうか。自分だって、成り行きで任された役割を仕方なくこなしていたに過ぎないというのに。
「必死だったんじゃん」
優斗は言った。意味が分からず、僕は相変わらず口を閉ざしたままになる。
「自分が必死になってる、とか自覚してるやつなんていない気がするけどな、普通は。 本当に必死な時って、そんなこと考えてる余裕ないし。 昨日のお前も、自覚がないだけで必死だったから、クラスの皆にもムカついたんじゃないの?」
――必死だったのだろうか。ただただ損な役回りを押し付けられて、駄々をこねていただけなのではなかろうか。必死になる、とは一体どういう状態なのだろう――。
優斗の言葉に困惑しながら顔を上げると、先ほどまで丸まっていたダンゴムシがちょうど歩き出してしているところだった。どこへ向かっているのか、あるいは目的地などないのかもしれない。
でも歩く。それでも歩く。
「ま、後でまた連絡しといて。 とりあえず授業だから一旦切る」
電話口で慌てたように優斗が言った。分かった、と僕は返事をして電話を切ろうとする。
――ありがとう
そう伝えなければと思い再度スマホを耳に当てるが、すでに電話は切れてしまっていた。
電話越しではあったが、初めて優斗に自分の一番脆い部分をさらけ出した気がする。ため込んでいたものを諸々吐き出した僕の体は、空気の抜けた風船のようにぐったりとしていたが、縮こまっていた背中を強引に持ち上げベンチにもたれかかる。優斗の言葉がこだまする頭の中で、虚空を見つめながらぼんやりと思いを巡らせる。
たとえば世の中には、いい学校に通いたくても通えない人がいる。いい会社に入りたくても入れない人がいる。もっと言えば、いい両親のもとに生まれてこられない人や、生きていくのがやっとの厳しい環境に生まれる人たちもいる。明日を生きたくても、生きられない人だっている。
そんな人たちに比べて、僕はとても恵まれている。いい両親、いい友達、いい学校。客観的に見れば、(こんなことを語れるほど長生きしていないという点は抜きにして)今までいい人生を歩んできたのだと思う。もしかしたら僕は心のどこかで、そんな自分に満足してしまっていたのかもしれない。このまま当たり障りのないように生きていきたいと思っていたのかもしれない。
きっと、「必死になれることがない」などというのは、ぬるま湯に浸かり続けた恵まれた人間の悩みだ。優斗の言うように、そんなことに思考を巡らせられるのは、必死にならずとも生きられている何よりの証拠だ。
でも、「必死になれない」と悩んでいた僕にも、必死になっていた瞬間があったのかもしれない。今はそれだけでいいじゃないかと、大切な友人が諭してくれているような気がした。
駄菓子屋の脇道へゆっくりと進んでいくダンゴムシを見送った後、優斗にチャットを送った。
――やっぱ行くわ、今日の会議。 学校に顔出すのはちょっと気まずいけど。
――お、じゃあ場所はファミレスにして、そのあとラーメンだな。
すぐに返ってきたいつもと変わらない優斗のチャットを見て、僕は呆れたように笑ってしまった。
スマホをポケットの中にしまい、大きく背伸びをして立ち上がる。
向かいの家に生える青々とした木を南風が揺らす。その風は僕の制服の中をすり抜け、少しだけ熱を運んでいってくれた。大きく深呼吸をすると、地元よりずっときれいな空気だと、今になって気づいた。
――……よし!
もう一度大きく息を吸い込み、心の中で呟いた。
疲れたらまたおいでと、飲み終わったラムネの瓶を渡した際におばあさんが言ってくれた。今度は地元のお土産でも持ってきます、と返すと、どうやらもっと近場から来たと思っていたようで驚かれた。ラムネのお礼をして歩いてきた道に向き直る。
距離だけでみれば学校からたった数十キロメートル程度、ローカル線を降りてやってきた小さい駄菓子屋から、やって来た道を戻り駅に向かう。車の邪魔にならないように、白線の外側を歩いて進む。タクシーを使えばすぐなのだろうが、歩きたい気分だった。果たして会議には間に合うだろうか――今の僕には、それは些細なことに思えた。
――どれだけ時間がかかろうと関係ない
――ゆっくりでいいから、僕のことをよく知る友人のもとに帰ろう
どこまでも続く青空をようやく折り返した太陽は、僕のゆく道を煌々と照らしてくれていた。