ただいま、現世
目を開けた。
すぐ前に飼い主の大きな顔があった。
飼い主も目を開けた。見つめ合う。
おれがにこっと笑うと、飼い主もキモい笑いを返してくれた。
『帰れたんだな』
おれか言った。
『ここ、元のおまえの部屋だぞ』
でも、おれの言葉は飼い主にわからないようだった。
「うーたん、言葉の通じない、ただのフェレットに戻ってしまったか……。だが、それがいい」
飼い主の言葉はなんとなくわかる。
おれに人間の声帯がないからおれの言葉はわかってもらえないようだが。
飼い主が身を起こし、スマホを見た。
「時間がほとんど経ってないな。おれとうーたんが空に昇っていった日のままだ」
そして部屋を見渡した。
「あっくんとシシリーは……?」
いなかった。
おれと飼い主ふたりだけだった。
『兄さんは?』
「そうか……」
飼い主が答えてくれた。
「いなくなってしまったのか」
飼い主がミルクを入れてくれた。
おれはそれをピチャピチャと飲む。地獄で飲んだ泉のミルクのほうがうまかった気がする。
飼い主がテレビをつけた。冷蔵庫から発泡酒を出してきて、カップラーメンを食べながらそれを観る。
しーんとしてた。
外で犬が一声鳴いた。
「……天国のほうがよかったかな」
飼い主が呟いた。
おれは何も答えない。
ピンポーン
呼び鈴が鳴った。
「借金取りか……」
ため息をつきながら飼い主が立ち上がる。
「早く定職につかなきゃな」
飼い主が投げ槍な感じでドアを開けると、橋本環奈の顔を大きくして10歳以上老けさせた感じの女が「ばあっ!」と言って、顔を覗かせた。
「だ……、誰ですか?」
飼い主が聞くと、女が答えた。
「本名、伊達春夏といいます」
そして女が着ているベージュのジャケットの前を開けた。
そこから長くて顔のちっちゃなのが、ひょっこりと顔を出す。タヌキ柄のフェレットだった。
「も……、もしかして……!」
飼い主が驚きに声を震わせた。
「シシリー!?」
「あっくんもいますよ〜」
女がにこにこ笑う。
「こっちでも会えたね」
兄さんもにこっと笑った。
小さなアパートの一室に、笑い声が産まれた。
春夏と飼い主がお酒を酌み交わして笑う。
『待てー! おれのジャーキー返せー!』
おれはダッシュで兄さんを追いかける。
『欲しければ首の後ろを噛んでみろ』
兄さんはジャーキーなんか好きじゃないのに、おれをからかって奪ったんだ。許さない!
そんなおれたちを見ながら、飼い主が春夏に言う。
「地獄から帰って、運がついたのかな。こんなに順調に行くなんて」
春夏が幸せそうに笑う。
「モッチーナさんにお料理習っててよかったね。どんどんお店を大きくしよう」
飼い主は春夏と二人で食堂を開いていた。その名も『地獄食堂』。
飼い主の作る地獄料理は口コミで評判を呼び、毎日店の前には行列ができている。
春夏は動画サイトにフェレットのチャンネルを開設した。
顔出ししたところ『美人だ』と評判になったらしく、おれと兄さんのじゃれ合う可愛さと相まって、人気者となった。
「現世を選んでよかったな」
飼い主がビールを口にしながら、言った。
「現世でよかったね」
春夏がおつまみを口に運びながら、笑った。
「天国じゃこんなこと出来ないもんな」
飼い主が春夏にキスをした。
「君と現実に触れ合えて、本当によかった。それに……」
おれは兄さんに後から飛びかかった。
兄さんがくるんとお腹を上に向ける。
「くくく……」
「きゅっ、きゅっ、くすくす」
タヌキ柄の兄さんと真っ白なおれ、二匹のフェレットがもつれ合い、狭い部屋をいっぱいに駆け回って遊ぶ。
「うーたんとあっくんが一緒に遊ぶ姿を見るのは何よりの幸せだな」
飼い主はそう言うと、スマホでおれたちの写真を撮った。
いつか、おれたちは飼い主よりも先にいなくなって、きっと今度はまっすぐ天国に行くのだろう。
それまでの間がたぶん、一番楽しいんだ。
先に天国で待ってることになるけど、兄さんと、春夏と、飼い主。三人で暮らしたことは永遠に忘れないからな。くくくっ。
(おわり)




