ミルクの湧く泉
さすが地獄だ。
それは見た目汚らしかった。
古い公衆便所の手洗い場みたいな白い陶器がある。
その底についた穴から、陶器よりも白いそれが、ぶんば、ぶばんばと音を立てながら、湧き出していた。
「ミルクだ!」
おれは見た目の汚さなんか構わず駆け出していた。
飼い主だって面倒臭がってミルクのお皿は一週間に一度も洗わなかったんだから、気にするわけがないだろ。
おれはミルクの中に身体ごと飛びこむと、にっこにこでそれを浴びた。
ぺろぺろ
がぶがぶ
「うーたん、飲みすぎたら動けなくなるよ」
シシリーが笑いながら忠告してくれる。
「腹八分目にしときなさい」
「どうしてこんなところに天国があるんだ?」
おれはミルクまみれになりながら聞く。
「ここ、地獄なのに」
「ここは『ママ地獄』なの」
シシリーが教えてくれた。
「ママのうざったい愛情を死ぬまで感じなければいけない地獄なのよ」
「おれ、ママ大好きだから地獄じゃないぞ」
「少なくとも私にとっては地獄だわ」
「ミルクが死ぬまで味わえるなんてまるで天国じゃないか!」
「うーたん、ミルク好きなのね」
ちょっとバカにするように、くすっと笑われた。
「おう、おれ、ミルク大好きだぞ」
おれは胸を張ってミルクを浴びた。
「好きなもんは好きだとはっきり言うぞ。おれはミルクが世界一好きだ」
「それこそが地獄の罠」
シシリーが明るく言った。
「ママに囚われたら抜け出せなくなるの。大好きなママと同じものにされてしまうの」
「あー……おれ、一生ここにいたい」
思わず目つきがおかしくなってしまう。
「悪魔になってもいいからここで一生ミルク飲みたい」
「じゃ、カイヌシさんを探すのはやめて、ここに一生ずっといる?」
「そうだな」
おれは上機嫌で答えた。
「おれは何よりもミルクが好きだからな。飼い主なんて……」
はっとした。
ここには何かが足りなかった。
ミルクが死ぬほどあっても、ミルクをもらう時の喜びがなかったら、足りないんだと思った。
ミルク皿にミルクをちびっと入れて、それをかきまわす大きな手を思い出した。
おれは『早くくれよ』と背伸びをして、中を覗こうとしてる。
『はい、うーたん』
そう言って飼い主がおれの目の前にミルクを置く。
限られたミルクをおれが舐める。ぺろぺろ大事そうに舐める。
それをにっこりと幸せそうに見ている顔がある。それがあるから、うまいミルクがもっとうまくなった。
限りあるものだから、ミルクはうまくなるんだ。
限りあるものだから、おれと飼い主の関係は、涙が出ちゃうほど、愛しいものなんだ。
おれはミルクの泉の中から這い出した。
「シシリー」
凛々しい顔で、言った。
「飼い主を探そう」
「ふふ。ミルクよりもカイヌシさんが好きなのね?」
「ああ」
ミルクでびちょ濡れになった身体をブルブルと振って、余計なミルクを飛ばす。あたりがべっちょべちょになった。
「飼い主を、取り戻す!」
決意をこめた目つきでおれが言うと、シシリーはまたくすくすと笑った。
身体についたミルクは保存食としてあとで舐めよう。
よかった、おれ、身体が真っ白で。ミルクまみれになってても何も変わらない。




