真夜中の森の中で 3
踏み締めた土が柔らかく湿っていたのでジェスタフは足音の心配はしないで済むな、と、少し安堵したが、すぐに霜柱を踏んでその存在を思い出し、嘆息した。
夜空を見上げれば月明かりに陰影を彩られた一朶の雲が現れ、太った芋虫みたいな形から奥歯のような形に姿を変え、朧げに闇に流れて消えていくのが見えた。
森といっても季節は冬なので、葉の多くは枯れて地面にあてがわれ、夜露を飽くほど吸ってふやけて霜が降りていた。だから2人は月光の下、葉の落ちた枝の隙間から恩恵をたっぷりと享受することができた。
「月明かりがこんなに明るいのも珍しいな、日頃の行いが良いからだな……まぁ世間様に顔向けできるようなことは何一つしてないがな」
「兄貴に限ってはもう餓鬼道に堕ちてもいいくらいだよね、畜生道にはもう……」
「うるせぇな、それより腕に抱きつくのをやめろ、仮にも作戦中だぞ、こういうのは恋人にやりやがれ、ここは映画館じゃねぇんだよ」
「だって怖いんですもの」
「仮にも精兵が甘えたこと言うんじゃない」
ジェスタフは腕を振ってアリーフを引き剥がす。対してアリーフは頬を膨らませて唇を突き出した。普通の男がやっても気色悪いそれは、アリーフがやると壮絶に可愛らしい。
どこかで鳴く誰に聞かせるわけでもない梟の鳴き声を聞いて、アリーフとジェスタフは歩き続ける。頬に触れる冷気はやがて擦れるような痛みを帯び、ブーツの中の素足は靴下を二重に履いているというのに徐々に感覚を失ってきた。
昔、極寒の中で仕事をしていた作業員が、足に違和感を感じたかと思うと急に走れなくなり、靴下を脱いでみたら親指がひどい凍傷でほぼ削げ落ちていた...という嘘か真か分からないが、そんな話をジェスタフは思い出した。
頭の中で嫌なことを考えてしまうのは、心が恐怖に侵されて無意識で焦ってしまっているからだ。ジェスタフはそんな不安を打ち消すため、何となく頭の中で美少女の裸体などを考えてみたが、疲労のせいか頭に靄がかかり、肩幅と乳房しか連想できなかった。
だから、先に火炎瓶を作っておこうと酒瓶の蓋を捨てて、裂いたハンカチに酒を垂らし、それを瓶の口に隙間無く押し詰めた。詰める前に琥珀色のブランデーを一口、アリーフに顔を背けて口に含んだが、こちらの方が破廉恥な妄想より遥かに効果的だった。
一方弟はと言うと、拳銃を両手で握り締めてへその辺りで構えながら、先程とは打って変わった鋭い目つきで近辺を見据えていた。細めた瞳から漏れ出す眼光は大蛇のようで、時たま背後を確認するジェスタフに不要な警戒心を抱かせた。
瞬間、ジェスタフの小さな耳たぶが微かに痙攣した。同時に彼は反射的に真横に身体を向けると、手首をくねらせて握り締めたボウイナイフを人差し指と中指の間に持ち替え刃を挟み、右の闇に向けて一切の躊躇なくナイフを振り投げた。黒塗りの刃は鮮やかに回転して宵闇に溶ける。
そして、すぐにそう遠くないどこかで肉が裂ける耳障りな音と微かな鳴き声が聞こえた。
「軍用犬?」
アリーフが尋ねる。
「分からん、光る眼が見えたから投げてみたが野犬かも分からん、ちゃんとトドメさせたかも分からん……。もっと言うなら犬かも分からん」
「確かにちょっと猫っぽかったね」
アリーフの言葉にジェスタフが苦笑して頭だけ振り返った時、小枝を踏み折る微音を立て姿を現した激怒した逞しい犬が、喉を震わせ唸り声を上げ、ジェスタフの右腕に奥歯まで深く噛み付いた。
「おーいてて、アリーフ持ってろ!」
しかし、ジェスタフは顔はしかめていたものの、その顔は例えるならば「隠していた低い点数の答案が母親に見つかってしまった時の顔」であり、「獰猛な犬に骨を噛み砕かれんばかりに食い付かれている顔」にはお世辞にも見えなかった。
むしろ彼は飄々と持っていた火炎瓶をアリーフに投げ、尻に手を回して先の尖ったペンを取り出すと、うんざりした顔でそれを犬の上顎に突き立てた。犬は悲鳴を上げてジェスタフから牙を離すがジェスタフは犬の喉を鷲掴みにして、犬の苦悶の表情よりも手袋に付いた唾液を嫌がってぶっきらぼうに後ろに投げ捨てた。
「アリーフ、殺処分」
「ヤー」
ジェスタフの制裁の合図によって放り投げられた犬が地面に落ちるより早く、瓶を口に咥えたアリーフの拳銃が火を噴いた。そして、それは缶詰の開封音に似た銃声と共に、落下する犬のこめかみを冷酷無比に一発で撃ち抜いた。
犬は撃たれた後も暫し脚の先が痙攣していたが、すぐに事切れて旅だった。死ぬと急に生臭い死臭がうっすらと辺りに漂う。ジェスタフが投げたナイフのせいか、犬は耳が耳元から削がれていた。
「見事な腕前。流石は将軍お墨付きなだけはある、兄として誇らしい限りだ」
犬の亡骸を一瞥し、ジェスタフはにっこりと笑いながら手を擦り合わせない拍手を数度繰り返した。
そして、ジェスタフはダッフルコートの袖を捲り上げ、噛み付かれた腕を眺めた。腕には犬歯の跡がくっきりと刻まれてはいたものの、傷から出血は無かった。
「兄貴、平気かい?」
「問題ない、ワイヤーも編み込んだ防刃繊維で作られた特注のダッフルコートだ、犬ころの牙など通るわけがないさ、まぁとんでもない激痛だったけどな」
そう言ってジェスタフは犬に近づくと、頭を執拗に踏みつけて死体を侮辱した。蹴り飛ばしたら歩み寄らなければならないので、眼球が飛び出て頭蓋が割れ、脳漿が露出するまで踏み潰してから、有終の美を飾るように助走を付けて蹴り、損壊したそれを幹に叩きつけた。
「ふースッキリした、まぁあれはただの野犬だな、首輪も無ければ毛並みも悪い、ここに軍用のは投入されてないと見ていいだろう、夜だしいても良いと思ったけどな、行くぞ」
唾を吐いたジェスタフがダッフルコートのトッグルを留め直している時、ん?と、ジェスタフは呟き、睨むような顔で眉をひそめて横を歩くアリーフを見つめた。アリーフが不思議そうに目を瞬かせる。
「な、何?」
ジェスタフは薄く生えた顎鬚を早く剃りたそうに弄りながら口を開いた。
「いやお前じゃない、さっき俺はお前にガバを渡した時に切り株に座っていた。そして、お前の後ろにも切り株がいくつかある、そして正面にも。何でこんなに切り株があるんだ? 材木に利用するなら一々船で輸送する手間を考えれば、わざわざ湖の中島の木々を伐採するのは割に合わない。と、なるとここで使ってるということだ」
「言われてみれば……。そういえばここ、子どもの頃に兄貴と何回か来てるけど、公共の場の樹木って自然保護抜きにしても勝手に切ったら罪になるよね」
「ああ、刑法147条器物損壊で5年以下の懲役か80万以下の罰金、またはその両方が課せられる、ちなみに野犬をもし街中で堂々ブチ殺したら、3年以下40万だ。まぁンなことはどうでもいい。そうだよな、ここはつい最近まで一般に解放してたんだ、しかもこんな大量に切っているということは、運用実験で使用してる可能性が高いな」
「そういえば、適当に木を切ったんじゃなく幹の太い立派なのを吟味してるね、だから切り株の位置がまばらなんだ」
アリーフが弾倉を抜き、先程使った一発分を慣れた手つきで込めながらジェスタフの仮説に一言付け加え、咥えた火炎瓶をジェスタフに返した。
「よし、時間を食ったがさっさと広場の方に行くぞ、いくら消音器付きとはいえ微細な銃声が聞かれたかもしれないからな。ん?」
まだ足を前に出したばかりのジェスタフは苔の密生する倒木を前にして、ブレーカーが落ちたように静止して、ふと上を見上げた。
アリーフはジェスタフの前の方まで歩いてから立ち止まり、同じように上を見上げた。やがて幾千幾万の虫の羽音を結集させたような音が徐々に接近してきた。
「この駆動音はヘリ……だな」
「だねぇ」
やがて、上空を耳をつんざくけたたましい爆音を垂れ流しながら、2人の真上を先端にMGを付けたガンシップの腹が通り過ぎ、つかの間にガンシップは高度を上げて遠ざかると、後に土の香りがする柔らかな風を運んだ。だが、錯乱した野鳥達が鳴き叫んで木々の枝を気が違ったように飛び回るので、森に再び静寂が訪れることはしばらく無かった。
ジェスタフは枝の間隙から見えるヘリの尾翼の赤いランプを呆然と眺めていたが、ナイフを懐にしまうと、すぐにアリーフの肩を叩いて広場の方へと駆け出した。アリーフは何も言わずに彼の後を追うのだった。




