銃剣と薙刀 4
ヘフナー・リッケンバッカーはひどい肥満体だった。素肌にそのまま着たクリーム色のワイシャツからは、膨れた腹が鶏卵のような輪郭で浮かび上がり、ベルトの上にはそんな脂肪がでっぷりと載っている。
度し難いビール腹だな、とジェスタフはひっそり思った。彼は口が寂しくなり、さっき弾き飛ばされた煙草の箱を拾いに行きたかったが、立ち上がることで、それが誤解だとしても連中から逃げようとしたと思われるのが嫌で、中々それを実行に移せなかった。
アリーフはリッケンバッカーというヤクザ者の観察を終えて、ぼんやりともしかしたらどこかにいるかもしれないレーゼを探していた。どこにもいない辺り、リウと戯れているのだろう。あれはアリーフの為なら虫も食す女だ。今の状況を知って無視できるはずがない。
話を戻すと、件の首領リッケンバッカー氏は部下を乱暴に押し退けて2人の前に出るや否や、アリーフに取り押さえられた部下に目をやり、彼を鋭く睨みつけた。だが、似たような状況に出くわしたことがあるのか知らないが、動じているようには見えなかった。
年はクランストロと近そうだったが、微かに後退した生え際をポマードで後ろに撫で付けた箇所に一筋の白髪が目立ち、それは黒々した周りの頭髪のせいで久しく見ぬ夏の天の川を思い起こさせた。
「……あ?」
ジェスタフは背筋を曲げて正面を見据える。何を思ったのか、不意にリッケンバッカーは確かな足取りで前へと進み、人質を抱えるアリーフに接近した。彼は懐から煙草を取り出し、火を点けて軽く蒸かしながらアリーフと瞳を合わせたが、黄緑髪はすぐに目を逸らした。
彼は非常に鋭い眼光を宿した人間だったのでアリーフは僅かに尻込みしたが、銃という頼りになる朋輩の存在を頼りに人質の顎に銃口を近づける。これは止まれという意思表示だった。そのおかげか、リッケンバッカーはやっと足を止めた。
すると、彼はアリーフに軽く頭を下げた。てっきり飛びかかってくるのかと睨んでいたアリーフは目を丸くし、ジェスタフもまた怪訝な顔で2人を交互に見つめた。
「青年、失礼した。無関係の君に危害を加える気は無かったのだ。私の部下は血の気が多いというのを失念していたよ。君は銃の扱いが上手い。撃ったばかりの熱い銃身を当てたら人質が暴れると分かっていたので、あえて銃を部下に押し付けないのだな? だが、撃たれたことは仕方ないにして、願わくば解放してやって欲しいのだが……」
意外なことに、リッケンバッカーはヤクザ者の頭目とはかくやあらんと言ったような、暴力一辺倒な人間では無いらしい。どんな団体だろうと、トップの地位にいる人間は対話が通じる人間だということなのだろう。
だが彼が話す度、顎から喉仏にかけて実った贅肉が巣から落ちた雛鳥のように小刻みに震え、これを見た2人は噴き出しそうになったが、嚙み切らんばかりに唇を噛み締め、必死の思いで腹がよじれそうになるのを堪えた。
アリーフは口元を手で覆い隠したかったので、ジェスタフの了承を得ないまま人質を締める腕を緩め、銃も静かに下ろした。人質だったヤクザはリッケンバッカーによろめき一礼すると、駆け寄ってきた仲間に肩を貸して厨房の方に消え失せた。
「悪いことをした。後できつく叱っておくんで許してやってくれ。青年、君はこの男の何だ? 友人か?」
「弟です」
アリーフがそう言うと、リッケンバッカーは忌々しそうに袖を噛んで肩を震わせるジェスタフを睨みつけ、2回ほど舌打ちした。
「貴様……あれだけのことしくさってウチがケツモチしてる店に...のこのこ顔を出しただけに飽き足らず、弟まで巻き込むとはな。いやはや……はどこまでも見下げ果てた男だ」
「この店組のケツモチだったんですか」
ジェスタフは鼻を鳴らしてその言葉を一笑に付し、またスキットルの中の酒を飲んだ。アリーフは箱を捨てて中身だけ押し込んだ煙草をスラックスの尻ポケットから抜き取り、熱い銃身に押し付けて恐々喫煙する。
3人は暫しの間誰も口を開かなかった。何を言っていいか分からぬ男。状況を楽しんであえて黙る男。怒りに絶句する男が揃った。
「時に青年」
やがて、アリーフは沈黙の気まずさを紛らわすため、リッケンバッカーにジェスタフは一体何をやったのか、当の本人が言わないことを尋ねてみようと口を半分開けた時、底冷えするほど穏やかな声色で、逆にリッケンバッカーが彼に話しかけた。
「はい?」
アリーフがちらりと顔を上げて彼を見てみると、彼は蝶が羽ばたくように忙しなく目を瞬かせている。よくよく顔を凝視してみると、彼は凄まじく大量の汗をかいていた。それが目に入ってひどく痛むらしい。汗がシャツを透かして素肌を露わにして、乳首の位置がわかって気持ちが悪い。
気のせいか顔色もさっきより浅黒くなっている。腹に据えかねているものを表面上抑え込んでるというのがよく分かった。
なので、自分は兄に代わって細心の注意を払って言葉を選ばねばとアリーフは心に決めた。同時に、兄貴は一体何をやらかしたんだ? というのが気になって仕方がない。
「君の兄が私の娘に何をやったか聞かされているかね?」
「いえ……?」
「やはりな。いいかね、この男は1週間ほど前にだな。私の娘をたぶらかして辱めたのだよ……。しかもそれだけに飽き足らず、鼓膜が破れるほど苛烈な暴行を加えた後に再び娘を犯し、あまつさえ酒を大量に飲ませて公園に放置したんだ......!」
「またか……兄貴」
魂の抜けたような面のアリーフの口からするりと煙草が抜け落ちて、床に落ちた吸い殻を彼は慌てて踏みつけた、
それほど長くは話さなかったが、彼が次の言葉を紡ぐ度に目には涙が浮かび、言い終わると同時に一筋の涙が頬を伝った。背後の部下達の中にも悔しさに歯軋りをする者がいる。経緯を知ったアリーフは顔をほんの少し左へ向け、片目でジェスタフに対して軽蔑の視線を送る。
「何だ、お兄い様にしていい目つきじゃないぞ」
アリーフには確かに兄への嫌悪感が嘘偽り無く湧き上がっていたが、内に秘めたことを言うなら、産まれた時から側にいたジェスタフの趣味などとうの昔に知っており、また同じような事例も本人からちょくちょく聞かされるので、これに関して正直今さら何とも思わない。
まして他人の娘だし、自分に非があることでもない。所詮この世は対岸の火事というのが、彼の中の真理だった。
「あ、いや……それは……他人事とは思えません。本当に胸が締め付けられます、僕がもっと目を光らせていたら愚兄もこのようなことは出来なかったはずなのに……! 兄貴! 一体何でこんな真似をしたんだよ!!」
アリーフは本心に嘘をついて道化を演じ、出来る限り事を穏便に済ませようと努力した。ただ、心にも無いことを言っているからというのもあるが、アリーフはあまり演技方面には才能が無いらしく、恐ろしく棒読みな三文芝居を披露した。
穏便に済ませるなら、ジェスタフが平身低頭リッケンバッカーに謝罪するのが一番だと思ったので、アリーフは彼を爆竹のような声量で怒鳴りつけ、さらに多少過剰だったが、皿を掴んで空を切る速さで床に叩きつけた。
だが、柔らかいカーペットに当たったカップは砕けず、ぼてっと床を跳ねて転がるカップにヤクザ達は失笑した。そして、ジェスタフはアリーフの問いに即答した。
「いや? 俺もあそこまでする気は無かったよ。だってあのガキ、俺のこの頭を『使い古した毛筆』みたいってバカにしたから、若干の制裁を与えたまで。まぁ筆みたいな頭って熟語にして筆頭だから、今思えば縁起は良かったかもな」
「確かに言われてみれば……」
アリーフは煙草の煙を吐き出しながら、しげしげジェスタフの頭髪を見つめた。地毛の黒髪に点々と混じる燻んだ若白髪は、確かに雑に扱って放置した筆に見える。そして、ジェスタフはどうしてもこの場の解決をアリーフのとある行為でしか求めていないのもよくわかった。
リッケンバッカーが憎々しく呪詛を絞り出す。本当は今にもに殺したいが、部下の目がある以上取り乱した姿を見せることは沽券に関わるのかな? とアリーフは推測する。
「娘はまだ13歳なんだぞ……」
「じゅっ13歳!? 中学一年の豆をいじったのか兄貴!?」
リッケンバッカーが発した驚愕の言葉にアリーフは椅子から飛び上がった。ここまで驚天の極致に達したのも実に数年ぶりだ。まさか三十路に迫って中学生にまで手が伸びていたとは思わなかった。
「変な言い方をするな。俺も今知ったわ」
さしものジェスタフも、これには少しだけ言い訳した。アリーフも少し羨ましくはあり、それを顔には出さなかったが、別のところは出たので慌てて着席してガバに消音器を取り付け始めた。
ジェスタフは掌をテーブルの上に置き、前のめりになって体重をかけて肩を鳴らすと、深く深呼吸した。
「じゃあ、ヘフナーさん。俺も言いたいことがあるので申し開きをさせてください」
「……言ってみろ」
「まず、俺があなたの娘さんに声をかけたのはどこだと思いますか? 学校や公園じゃありません。ここを東に0.5キロくらい歩いたらあるホテルですよ。あの子は13歳でそんないかがわしく、はしたないことに手を染めてましたよ。正直、この際正当化させて頂きますが、俺が折檻を与えてやったことで多少懲りたと思いますよ」
ジェスタフはリッケンバッカーが怒る。それを見てアワアワするアリーフを楽しそうに眺めるだけだったが、まるで歌劇の終盤を締め括るように、ようやく己の意見を話し始めた。ただ分かってはいたものの、やはりロクなことを言わない。
自分の行いを堂々と正当化しますと宣言できるのもすごいが、強姦を折檻と言い換えただけでなく、「してやった」と言い張る面の皮の厚さにはある種の敬服すら覚えた。
「ああ、それと暴力を振るったのは事実ですが、酒の件は彼女は最初から酔っていました。責任転嫁はやめて頂きたい。聞いたらウィスキーボンボンよとは言ってましたけど。舌を絡めた時にアルコール臭がしなかったんで、恐らく彼女は酒を直接静脈注射したと思います。実際肘裏に注射痕がありました。
酒って直接血管に入れたら少量でもすごく酔うんですよ。俺、女遊びは極めてますから間違いないと思います。まぁシンナーやハシッシュみたいな薬物に比べたら健全な気もしなくはないですが……。
しかし、元を辿ればあなたの子どもへの薫陶と愛情が足りないから、娘さんはああやって善悪の区別も付かぬまま荒んでしまうのではないですか?ちゃんと家族と向き合ってホラ」
「……」
「言いたいこと全部言いやがった」




