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ある意味最も不幸な男

 青年は一人の少女に話しかけた。


「やぁ、そんなところに座って何してるんだい? 良かったら一緒に冷たいもの飲みに行こうよ」


 青年は髭を剃り、清潔な身なりに聡明そうな顔をしていた。少女は何の疑いもなく彼についていき、初対面だというのに腕に抱きついた。そこは売春宿の前だった。少女が何のためにそこにいたのか、誰の目にも明らかだった。


「やだ、冷たいものって言ってたのに何でココアなんて飲んでるの?」


「え? たはは……歩いてる内に肌寒くなっちゃって、君もケーキとか食べたかったら好きにいいよ。僕は教務部に勤めてるから支払いは気にしなくていいよ」


「えー何か怪しいなぁ、怪しげな勧誘とかじゃないよね?」


「ふふ、まさか」


 青年を爽やかにそう微笑むと、受け皿を持ってカップに指をかけないよう、鮮やかな動作で静かにココアを飲んだ。そのカップに隠れた口元には微笑はまだ残っていた。だが、その笑みはぐにゃりと唇を歪め、ひどく冷酷で不快な瘴気を人知れず放っていた。


 アンドレイ・ジェスタフ。28歳。


 元ヴォロシャ第三帝国軍外務部所属。階級は准尉。外務部における役職は副報道官。幹部候補生の一人でもあった。

 小学校から大学卒業に至るまで全く文句のない成績を残し、食い扶持に困らず不況に左右されないという理由から惰性で軍人となった。

 余談だが、大陸における公務員と軍人は同意語であり、政務は全て軍が仕切っている。それに携わりたければまず軍隊に入るしかない。

 高校ではディベートサークルで弁舌を鍛え、大学では剣術で身体を鍛える傍、趣味の手品を頻繁に披露していた。在学中は高い求心力を携え、在学中に女を切らしたことはほとんど無かった。

 大学は最大の名門と言われる帝立大学法学部 (卒業論文「少年犯罪における各国刑法の脆弱性」)に入り、卒業式では総代を務め、取り立てて苦労もなく役人となって出世の街道を走った。

 まさに順風満帆なエリート。しかし、それほど高い能力を秘めながら、それに見合う崇高な精神が幼少の彼の中で形成されなかったのは、ある意味で彼にとって最大の不幸と言える。

 彼が初めて女を抱いたのは15歳の時だ。先ほど話していた献花台の件を思い出して頂きたい。そのいじめを苦に自殺した幼馴染と、当時彼は付き合っていた。

 不登校だった彼女の家を毎日訪ね、甘い言葉を用いて励まし、瞬く間に彼女はジェスタフに体を許した。彼女がどんな理由でいじめられていたのか? 彼からしてみればそれはどうでもいいことだった。

 彼女が勇気を振り絞って学校に通い始めて2日目、彼女は複数の男に強姦された。そして、卑劣極まりないことにその時の写真を学校にバラまかれ、親ですら見たことのない部分を同級生に知られた彼女は精神崩壊を起こし、1週間後に風呂場で手首を切った。遺書にはジェスタフに対する感謝の言葉が書き殴られていた。

 何を隠そうか、これは彼が裏で画策してやったことだ。彼は地元の不良と関わりがあり、彼らを買収して自らの恋人を襲わせて写真を撮らせた。足が付かないように渡されたフィルムは自分で現像し、学校の廊下に写真をバラまいた。

 それなのに葬式では飢えた犬のような顔で参列して、さめざめと落涙する姿を見せた一方、彼にとって浅ましさの象徴とされた献花台に並ぶ菓子は屁理屈をこねてネコババし、逆に華やかな香りを放つ花束には唾棄をくれた。

 他にも、両親が離婚して傷心の最中にある後輩の家の飼い猫を殺したり、膝を壊した他校の陸上部員に近づき、依存性の高い劇薬をごまかして与えてひどい中毒にさせたこともある。父親が頓死して学費を収められず、退学してアルバイトを始めた元同級生の母親を言葉巧みに惑わし、売春婦にさせると、女になった母親のブロマイドを彼女の自宅に投函するというようなこともやった。

 また生来非常に短気な性格で、交際していた女性に暴力を振るい婦女暴行で捕まったこともあるが、学力特待生という理由からその日に放免されている。

 アンドレイ・ジェスタフがこの世の中で何よりも大好きなことは「人を死に追いやる」ことではない。「不幸のどん底にいる人間を、さらに深い泥沼へ突き落とすこと」だ。幸福な人間が不幸になるのは、商売の浮き沈みとか賭博や薬物中毒とか、ありふれているからつまらない。

 歯を食い縛って気丈に振る舞う人間の心をへし折り、影で嘲笑うことが好きだし、それで気が触れて通り魔でも起こした時にはオーガズムすら覚える。どんなに傷つこうが、それをバネに直向きに生きようとする輩もいたが、それもまた一興だ。

 大学で法律を学んだのも、どのように立ち回れば法に触れずに人を苦しめられるか知りたかったからだ。手品を習得したのは荒んだ人の警戒心を解くため。ディベート技術と剣道は、万一不手際で面倒事になった際の逃げ道として身につけた。

 法曹界に入り、免職覚悟で被害者を有罪にさせるようなふざけた真似もやってみたかったが、面接試験で口を滑らせてしまい落とされた。

 傘に積もる雪のように我が身にのしかかる災厄の塊、重圧という雪崩に押し潰された人間が苦痛からの解放を求めて自殺し、彼が喪服に身を固め、目薬を持って葬儀に参列して遺影の前に立った時、彼は自分がどれほど才能に恵まれた人間かを思い知り、時には万物の覇者になったような錯覚にすら陥るのだ。

 彼は紛れもない外道だ。それはワインレッドのネクタイを締め、最高級の牛革のスーツベストを着用していたとしても何も変わらない。

 しかし、そんな男でも8歳歳下の従兄弟アリーフや、末弟のリウだけは心から愛し、この世界のあらゆる残忍な事実から弟らを守る盾になろうとした。彼とて身内の不幸までは望んでいないし、当然普通の人間と同じ物を食べて寝て笑う。そして、アリーフもまた彼を慕って兄以外とは決まった数人の人間としかつるまない。

 多数の高学歴構成員を抱えるヴォロシャ団結軍の中で、飛び抜けた知能と残忍さを誇る男。それがアンドレイ・ジェスタフなのだ。

 そして、彼の今の立ち位置は犯罪組織に属する罪人。もし捕まれば、ただそこに籍を置いていたというだけで懲役を食らうだろう。それならつまり、何をしても捕まるというなら、何をしてもいいということになると彼は判断している。今の彼は解き放たれた獣だ。

 彼はたまに酒が入ると、アリーフにこんなことを口走る「死刑囚はな、それを上回る刑が存在しない以上、法律を一切無視することを許された、ある意味究極の自由人なんだよ」と。

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