アリーフの日常 6
「まったくもう、アリーフって冗談はセンスないわよね。そこのところはジェスタフそっくり」
「そうなんだ。首の骨へし折るくらい激しいツッコミだったからツボだっかのかとばかり」
店を出た僕とレーゼは、共に商店街を歩いて途中の本屋と質屋の横をくぐり、路地の裏に入った。そこには一坪に満たない小さな空き地があり、長期滞在するわけじゃないから耐えるけど、周りの室外機から排出される生暖かい風が蒸し暑く、それが嫌でたまらなかった。
その隅に水色のゴミ箱があった。大して珍しくもない、僕の腰よりやや低いくらいの大きさのプラスチックで出来た、探せば吸い殻のようにあちこちにある人一人くらいなら屈めば何とか入れそうなゴミ箱だ。
まだ真新しいようで、実際レーゼが確認のために蓋を開けても中には何も入っていなかったし、立ち昇る悪臭もなかった。
「さっ入って」
レーゼは疑いや迷い一つない濁った瞳を僕に向けてそう言い放った。言わずもがなゴミ箱を指差して。側から見たら陰湿ないじめにしか見えないけど、彼女は全くもって大真面目だ。
何故なら、彼女は僕と同じ能力を持っているから。
僕はゴミ箱に足を入れて隙間になんとか尻を押し込み、やっとの思いで頭を腹と膝の間に埋めると、レーゼがその上から蓋をかぶせた。
「ウラァッ!!」
「いってぇな何すんだ!?」
蓋が完全に閉まらなかったようで、レーゼは下に人の頭があるにも関わらず、全力の踵落としで無理矢理蓋を閉じた。ゴミ箱の中に入るというのは多少の気恥ずかしさはあるけれども、大道芸人のように人前でやるわけではないから我慢はする。暗闇だけど、騒がしい外の音はしっかりと耳に入る。
「ブンダバー」
レーゼは蓋の上に手を置くと、なめらかでか細い声を塗りたくるように声を漏らした。それは、彼女の能力が発動する合図であり、次の瞬間、あれほどうるさかった雑踏はブレーカーが落ちたようにプツリと消え失せ、暗闇にうずくまる僕にはただ一つ、静寂が訪れた。
さっきまでは狭苦しいゴミ箱の中に僕はいたけど、閉塞感も喧騒と共に消え、今の僕は平然と立ち上がることができた。それでも膝を伸ばせるほど立つことはできず、空気椅子のような姿勢になった途端に頭がぶつかり、顔を柔らかくすべすべしたものが撫でた。
何気なく掴んで鼻を押し付けてみたら、愛用の香水と汗と煙草の落ち着く匂いがしたので、それが自分の衣服であり、自分のいるところが自室クローゼットの中だと気づいた。
そうと気づけば、わざわざこんな窮屈な場所に留まる理由はない。無いのだけど、僕のクローゼットは何故か内側からは開けられないようになっている。レーゼめ、変な場所に送りやがかって......!! 僕は下唇を噛み締めて戸を殴るように叩いた。
『ブンダバー』
それがレーゼに与えられた力の名前だ。もっとも、僕はこの力を何となく後援者を意味するという失われた言葉でパトロンと総称しているけれど。
彼女は「暗闇から暗闇に様々な物体を転送する能力」を持っている。密閉された空間でなおかつ完全に暗い場所からなら、よほど大きなものでもない限り、同じ条件の場所に自由に送ることができるらしい。
その気になれば、ピンを抜いた手榴弾や時限爆弾を転送してちょっとしたテロを起こすこともできるけど、彼女にもあれでも一応モラルがあるらしく、それは断固固辞している。
言わずもがな便利な分、もし敵に回ったら厄介な能力でもある。そう言った面ではレーゼを仮に蛇蝎のように嫌っていたとしても、ぞんざいに扱ったり突き放すことができないのは怖いことだ。まぁ僕は誰に対しても冷ややかな態度なんてあまり取ったことはないけど。
しかし困ったな。あの子はいないのか? 兄貴が連れ出してしまったのだろうけど、いないとしたら後何分待たなきゃいけない? 僕が閉所恐怖症だったら失禁して泣いてるところだ。
するとその時、クローゼットが誰かによって片側だけ乱暴に開けられた。最初に視界に入ったのが照明だったので、暗闇に慣れた目には少し眩しく感じた。
僕は視線を下に落とす。予想した通り、そこには一人の可愛い小動物がいた。
「にい、おかえり」
小動物はクローゼットを見上げて真っ白な歯を惜しみなく僕に見せ、向日葵のように無邪気ににっこりと笑った。その笑顔には喫茶店の女の子のようなエロチックさも、兄貴のように賢しげな様子も何一つ見受けられない、だからこそ愛らしかった。
僕はクローゼットから出ると、屈んでその子を抱き締め、髪の感触を確かめるように頭を撫でる。そして、その子は反対に僕の鼻にキスをした。
「帰ってきたかアリーフ、今日はどこ行ってたんだ?」
「図書館だよ」
部屋には兄貴もいた。兄貴は胡座をかいてベッドに寄りかかって床に座っていたけど、膝の上には魚類図鑑が開いて置いてあったので、どうやらずっとこの子と一緒にそれを読んでいたらしい。
「リウ、ちゃんとクローゼットは閉じとけよ」
「ほらリウ。兄さんと一緒に本読んできな」
「うん」
弟はそう頷くと、屈託ない笑顔でクローゼットを閉めて、兄貴の膝の中に戻っていった。高くジャンプして兄貴の胸ぐらに飛びついたので、どうやら股間を踏みつけたらしく、兄貴は顔を歪めて押し殺した声を漏らした。
マシュー・リウ。4歳。
僕の弟で、僕ら4人兄弟の末弟だ。おろし立てのワイシャツのように真っ白な髪に、海の色に染まった碧眼を持ち、僕に似て白い肌と愛くるしい顔の持ち主だ。きっと10年後には学校中の女子から言い寄られる美少年となることは容易に想像つく。
ピンクの女物のパジャマを着て、ちょこまかと走り回る様はまるで眼は青いがうさぎのようだ。リウは僕のこの世において最も大切な存在であり、リウは僕がいなくてはならない。16歳年下という他の家庭からしたらかなり珍しい弟で、正直息子のように思えたりすることもある。兄貴にしたら24歳差だ。
でも、それは考えないようにしている。深く考えると、僕は青春の思い出も友達もいないのに、楽しいことを何も経験しないまま子どもだけは一丁前に存在しているみたいで、何となく虚しくなるからだ。リウを愛していても、腹の奥では明るい未来が待つ弟を妬んでいるような気もするのだ。
「あれ? 何これ? これ内側からは開かないの? ちょっと!? アリーフ? リウ? いないの!?」
すると、クローゼットの中から混乱したレーゼの声とさっきの僕と同じで戸を激しく叩く音が聞こえてきた。何で自分の部屋に行かないんだろう。
「あっ、おばちゃんもだ」
リウは再び立ち上がってクローゼットを開けてやろうとしたけど、兄貴は片手でリウを抱いて制した。
「ほっとけ。ところでリウ、サメにはロレンチーニ器官っていうのがあるらしいぞ。これを使って遠くのエサを見つけるんだと」
「すげー! にい、ぼくも欲しい!」
「は? ああ、たくさん勉強して偉くなったら学士の修了時に勝手についてくるぞ」
「兄貴適当なこと言わないの」
兄貴はどこ吹く風でリウに図鑑を読み聞かせている。兄貴は他者にはどこまでも残忍な博愛精神のカケラもない男だが、その空いた穴を埋めるように昔から家族愛は人並み以上に持っていた。
さっきも言ったけど、兄貴とレーゼはかなり仲が悪い。血縁者の兄貴と姉貴風を吹かすレーゼは望む望まざるに関係無く、僕を主軸にして顔を見ればメンチ切って足を踏み合う仲だ。しかし、喧嘩するほど仲が良いと言うし、案外20年後も普通に文通くらいはしてるかもしれない。
「ォラァッ!!」
「えぇ......」
「えぇ......」
瞬間、何をトチ狂ったのかレーゼは悪質なタックルでクローゼットの戸を蹴破り、転げ回って部屋に突入してきた。何でいちいち荒々しく解決しようとするのか。何で他のところから出てこようという発想に至れないのか。実に不思議だ。
レーゼの欠点35、他人の私物は雑に扱う。
「テメー人の私物を壊すんじゃねぇよ、リウに悪影響だろうが真似したらどう責任取る気だこのアマ!」
リウは兄貴とも接するけど、寝食は僕の部屋で過ごしている。理由? 兄貴のきったねー部屋にいたら悪い病気になりそうだからに決まってる。ただ、今日みたいな日は兄貴に部屋の鍵を渡してリウを預けたりもする。可愛いからと言ってリウを独り占めする気は毛頭ない。
「それはゴメン、後でちゃんと直しとくから。あー焦った焦った」
レーゼは肩に手を置いて腕を回しながらブーツを脱ぎ、僕のベッドの上でどっかりと胡座をかいた。よく見るとスカートの下に黒のパンタロンを履いている。夢のない服装だなと改めて僕は感じた。
関係ないけど、レーゼは他とは少し変わった胡座をかく。両腿の上に足首を交互に載せて内側で胡座を組むのだ。彼女は涼しい顔でこれをやるが、僕も兄貴もこれは痛くて2分と持たない。
「お前よく人のベッドに靴下で座れるな」
「やだぁ稼働停止したゴミ処理場みたいな部屋の住人に言われたくなぁい。私あんな部屋に1時間もいたら全身がフジツボみたいになりそう」
「俺の部屋の話はしてねぇーだろがボケ!弟に迷惑だろって話をしてんだよ!! ああ!?」
「まぁまぁリウが怯えるから兄貴もほどほどに」
いまにも取っ組み合いになりそうだったので、僕が中に割って入ると、兄貴は舌打ちしてレーゼから背を向けて、読み聞かせを再開した。リウはとっくにこの二人の罵声には慣れているけど、流石に手が出る争いになると目に涙を浮かべるので、僕が仲裁に入らなければならない。
なんでさっきまで和気藹々としていたのに僕が帰ってきたら、説教に呼ばれて入った時の職員室のように嫌な雰囲気になるのだろう。そう考えると、僕はたまらなく悲しくなる。
レーゼの欠点
その35 無遠慮。
その36 売られた喧嘩は買う。
僕はクローゼットに背広をかけて洗面所に行くと、寝間着に着替えて顔を洗い、ささっと歯を磨いた。洗面所下の金庫を開けてガバと弾倉とナイフをしまい、ホルスターを流しの隅に置いた。
そしてリビングに戻ると、そのままベッドに入って毛布をかぶった。レーゼは僕に近寄ると、僕の身体の上で四つん這いになって顔を近づけた。しつこいけど口臭いからあんまり顔を近づけないで欲しい。
「あら? もう寝るの。ご飯食べないの?」
「僕、公園にいたでしょ?」
「ああ、アンタ光合成できんの? 病院もいらないし安上がりな身体してるわね」
「そう、食事は娯楽」
レーゼは地頭は良いから察しが早い。すると、レーゼは僕の耳元で兄貴に聞こえないよう小さく囁いた。
「私今日、あなたのために出張ってきたじゃない。そのお礼まだもらってないわよ」
レーゼのパトロン、『ブンダバー』は有料だ。他の同志達も非番の際にレーゼをこぞって利用して外出するので、これに味を占めたこの吝嗇家はある時から料金制度を設けた。
「労働とは労いがあるからこそ働けると書くのよ!」
と、レーゼは胸張って言うけど、僕の『レ・ミゼラブル』も変に酷使しない限り全く疲れないのだから、レーゼもさっきの振る舞いを見る限り、とても労働に値するような労苦が『ブンダバー』使用にあるとは思えない。
「はぁ……。今日色々付き合ってあげたし、心ゆくまでハグさせてあげたじゃん。それでいいじゃん」
「じゃあ赤ちゃんの処理代ちょうだい、別に現金じゃなくてもいいわよ」
「……これあげる」
僕はベッドの下に手を突っ込むと、手探りでプラスチックで出来た赤いラッパを取り出した。真鍮製の高級品のとは違ってかなり簡略化されたシンプルな形で、言っちゃなんだけどトイレ掃除のラバーカップに少し似てる。
名前はブブゼラ。
レーゼはこれを受け取ると、子どもと一緒に砂遊びをする親のように、何とも言えない表情で首を傾げて立ち上がると、クローゼットの戸を持ち上げて元の場所にはめ込み、首を傾げてブブゼラを見つめた。
「世界観的には時代を先取りしてるけど……これ読んでる人で覚えてる人いるかしら……?」
そう言うと、レーゼは僕の部屋から出ていって自室に戻っていった。急に煙草が吸いたくなって、僕が毛布の中で寝れずにうずくまっていると、兄貴が眠っているリウを僕の横に置いたので、僕はリウを抱き枕代わりに腹に乗せた。子どもの高い体温が僕に伝わり、少しずつ眠くなってくる。
兄貴は僕の方に周ると、自分もまたもぞもぞベッドに潜り込んできた。兄貴はリウと一緒に風呂に入ったようで、僕とお揃いの寝間着を着ていたし、石鹸の匂いがした。
「一緒に寝ていいか」
兄貴はさっきまでと打って変わって優しげな声で僕の額を撫でて前髪を後ろにすいた。
「いいよ別に、一緒に寝よ」
布団に入ったから言われたんじゃ断りようがない。僕は胸の上で小さく寝息を立てるリウの髪にも同じことをした。
「そうだアリーフ、一緒にやってもらいたいことがある。詳しいことは明日話すが、ちょっとした小競り合いになる案件だ。しかし、お前がいれば莫大な金が手に入る」
「いいけど、この前みたいな淡白なのは嫌だよ」
兄貴は分かったと言い、僕は身体を横にしてリウを胸を押し付けると、瞬く間に深い眠りに落ちた。
*****
「やかましい!! 楽器練習は昼にやれ!!」
「申し訳ありません! お詫びに一曲……ギャァァァ!!!」
数時間後、ブブゼラを吹き鳴らしていたレーゼが将軍に怒られる声と彼女の悲鳴で僕は目覚め、水を一杯飲み、すぐにまた寝た。




